69話 麝香
こんなにも心乱される女は初めてだ。シーマの憂鬱は夜まで続いた。
塔に戻してしまおうかと、横暴な考えが脳裏をかすめたほどだった。晩餐は大臣たちと共にし、ミリヤと顔を合わせないよう努める。顔を見たとたん、感情を爆発させてしまいそうで怖かったのである。
甘い夜の時間も重い気持ちで迎える。
寝室に赴くと、ミリヤは香を焚いて待っていた。麝香の濃厚な香りが性欲を刺激する。明らかに作為的だが、シーマは罠にはまるのを良しとした。
服を脱ぎ捨てベッドに入るや否や、ミリヤを押し倒した。
荒々しく唇を奪い、欲情を燃やす。ミリヤは抵抗せずに受け入れた。柔らかな体も温かく湿った中も、愛情深く包み込んではくれず、汚い欲望のはけ口として過ぎ去っていく。満たされたい、征服したいだけの自分本位な行為に愛が返ってくることはない。ミリヤは受け身に徹し、シーマを責めたり求めたりしなかった。
睦み合いは会話と同じく投げる、受け取るの単純な繰り返しだ。一方通行では何も生まれない。怒涛のようにぶつけて得た快楽は短く、充足とはかけ離れていた。くわえて、終わったあとの嘲笑が屈辱的で、女を暴力で屈服させたい衝動に駆られた。
「籠の鳥のくせに、かわいくない女だ!」
「手放してもいいぞ?」
「自由を奪って、俺だけのものにする。俺しか見られないように」
「好きにすればいい」
何を言っても、ミリヤはビクともしない。惚れた惚れぬの勝負で負けたと言ったのは嘘だったのかと、シーマは疑心暗鬼に陥った。
その結果、許可なしに彼女の心の中に侵入し、気持ちを確かめようとした。キスの最中に入り込み、彼女の意識を掻きまわして恍惚とさせる。最初からこうすれば良かったと思った。心に触れながら交われば、女の感度は高まり、悦楽に浸らせることができる。心も体も支配することができるのだ。
一面砂漠だった初めのころとは見違えるようになった緑の森を駆け、愛する女の本心を探した。澄んだ水が湧き出る泉に「愛している」の文字が浮かび上がるのを見た時、
「やめろ!!」
怒号と共にシーマは叩き出された。視界にミリヤの裸体が入るなり、引っぱたかれる。
「心の中へは勝手に入らないと約束しただろう!?」
そうだった。シーマはミリヤに能力を使わないことを約束していたのだった。彼女の気持ちはわかりきっていたのに、嫉妬に狂うあまり我を忘れていたのだ。
「おまえが裏切らないか、心配になったのだ」
「嫉妬深いのは女々しい」
ミリヤはプイと背を向けてしまった。
たちの悪いからかい方をしてきたのはミリヤのほうだし、シーマは悪くない。謝りたくなかった。だが、
「おまえが悪い」
と言えば、無視される。ヴィナスのように素直で優しい娘とは違った。花や甘いもの、キラキラしたものでも釣れないだろう。美しい毒花は栽培が難しい。頬がじんじん痛んで、羞恥に襲われる。
シーマはナイトガウンを羽織り、バルコニーに出た。
秋の夜気が肌に心地よい。爽やかな風が肺を清めた。月夜は明るいと言いたいが、残念ながら月は出ていなかった。どこにいるかはわかる。墨色の雲の輪郭をくっきりさせる月光がその位置を示していた。見えそうで見えない。つかめそうでつかめない恋人と同じだ。ところどころ、雲の合間から光を投げかける星が儚かった。
吹き付ける色のない風が秋薔薇の香りを運んでくる。濃厚な麝香よりよっぽど健全だ。
発端は惚れた腫れたを指摘されただけのことである。子供っぽい痴話げんか。こんなことで意地を張るなんて馬鹿げている。
わずかな月光を浴びて、銀髪の輝きが増したかもしれない。シーマは気持ちを立て直して、室内へ戻った。
部屋はいまだ凶悪な麝香の匂いに満ち、ベッドに腰掛けるミリヤは目をうるませていた。ずれたネグリジェからのぞく肩が震えている。髪はほどよく乱れ、女の色気を増大させていた。さきほどまでとは別人のようだ。
「ごめん……なさい……わたしのこと、嫌いになった?」
しおらしくされては堪らない。シーマはミリヤを掻き抱き、謝った。愛しい女を誰にも奪われたくないと思う。
高めの体温が夜気で冷えた身体を温め、乱れた心を落ち着かせた。皮膚から伝わる心臓の音は穏やかで、荒れ狂っていたシーマの拍動を導いてくれる。
音に乱れが生じたのは、平静を取り戻してからだった。
「くっくっくっくっ……」
「どうした?」
ミリヤはシーマの胸で声を押し殺して、笑っていた。
「くそっ……今のは演技か?」
「チョロいなーー! まさか簡単に引っかかるとは」
無邪気に笑うさまがかわいかったので、そこまで腹は立たなかった。世界一かわいい女の唇をシーマは吸いたい時に吸える。だが、そのあとの言葉は聞き捨てならなかった。
「チョロいといえば、ユゼフよりはマシだったかな?」
「ユゼフとやったのか!?」
他の知り合いでもキツいが、相手がユゼフというのも嫌すぎる。ミリヤはいったい、今までどれだけの男と寝たのか。想像するのも恐ろしかった。
「いいか? 絶対に浮気は許さない。俺以外の男ともう寝るなよ? 他の男の話もするな。不快だ」
愛するがゆえの束縛に対し、ミリヤの投げる視線は冷ややかだった。
「なんだ? 言いたいことがあるなら、言え!」
「自分は平気で浮気をするくせに、身勝手だなぁと思って……」
「俺はしないよ。おまえ以外に興味ない」
「そうじゃなくて、過去の話。ディアナ様を泣かして、よりにもよってその妹と懇ろになっておいて、よくぬけぬけと言えたもんだと」
シーマはすぐに言い返せなかった。
「そっ、それはまあ……ディアナとは政略結婚だったし、最初から愛情がなかった。ヴィナスとは結婚前からの関係だったから……」
しどろもどろになる。小悪魔は痛いところを突いてくる。シーマは逃げて追及に転じた。
「それはそうと、ユゼフの他に俺の知っている男と関係していないだろうな?」
「他の男の話はするなと、たった今言った」
ああ言えばこう言う。減らず口を叩く唇は秋薔薇より赤い。
「アスターとは本当に、なんにもないんだな?」
アスターとミリヤの間には独特の空気が漂っていた。シーマが立ち入れないような親密な空気だ。それを言うと、
「ああ、ずっと戦ってきて、お互い敵として認め合っている感じかな? アスターもわたしも戦士だ」
「アスターはおまえを捕えたら、拷問吏に引き渡せと言っていた。冷酷な男だよ」
「それはお互い様だ。わたしたちは食うか食われるかの世界で戦ってきた」
自分を平気で加害する男に対し、ミリヤは恐怖しないどころか、親愛に似た情まで抱いている。
「アスターみたいなタイプが好きというのは?」
「事実だね。アスターはいい男だよ。簡単には、なびかないだろうけど」
これ以上は耐えられなかった。シーマはミリヤの愛らしい唇を自分の舌で封じた。
今後、ミリヤに色目を使う男がいないか、常時目を光らせねばなるまい。アスターが一番の危険人物だ。ミリヤに誘われて断る男は皆無だろう──
ベッドで再戦というわけにはいかなかった。賢明な愛人はシーマに課題を与えた。
「王たちの要求を呑むのか呑まないのか? ローズとヴァルタン領はどうする?」
「返答は待たせておけばよかろう」
「そういうわけにいかない。他の三者で話を進められてしまうぞ?」
シーマは不燃焼の欲情を抱えたまま、アスターの残した紙切れとにらめっこせねばならなかった。みっともない姿を見せたあとは、汚名を返上しないといけない。決めるまではお預けだ。
王たちが和睦の条件として提示したのは以下である。
ディアナ──過去の謀反の謝罪と賠償を求める。王国西部のヴァルタン領、北部のローズ領を譲渡して、一国の女王として認めること。
エゼキエル──連携してヘリオーティスを掃討する。ディアナへヴァルタン領を譲渡すること。今後、友好条約を結び、協力関係を強めていきたい。
サチ──グリンデル王国奪還へ向けて軍事同盟を結ぶ。奪還後は三国と通商、文化面での交流を深め、平和維持に努めたい。
この中で一番親切なのはエゼキエルで、こちらの要求に対しての返答も書かれていた。
・時間の壁を消す→和睦が実現すれば可能。
・魔国にある妖精族の村の保護→可能。
・グリンデルに対抗して、共闘する→会談の結果次第で可能。
・本土、及び内海へ侵攻しないこと→和睦が実現すれば可能。
なお、ヘリオーティス掃討は意見が一致しているので、除外されている。
「ヘリオーティスに関しては、ディアナ・サチサイドは一致しないだろう。どうするつもりだ?」
「活動停止を約束することで、納得してもらいたいんだと思う。強硬手段はとってほしくない」
「ヘリオーティスは徹底的に潰すつもりだ。根絶やしにする」
ミリヤはハァーと大きな溜め息を吐いた。
「青い鳥や亜人だって、人間を殺している」
「いや、最初に襲撃し、国土を蹂躙したのはおまえたち人間だ」
言い合っても平行線をたどるだけだと思ったのだろう。ミリヤは言い返さなかった。
争点となるのはヘリオーティスの件と領土の問題だ。エゼキエル側が条件として挙げていることもあり、シーマとしては拒絶が難しい状況に立たされている。
ローズはともかく、ヴァルタン領に関しては検討中と返答することにした。




