60話 果樹園
忘れていたわけではないのだ。シーマは心の中で弁解した。傷つきながらも、ディアナに尽くそうとするミリヤを見ていると、胸が苦しくなってくる。忙しさを理由に、しばらく離れていたかったのである。
乱暴にして傷つけてしまったことを悔やんでもいた。心も体も傷だらけの女を癒やしてやることができない。愛することは罪だ。
罪を重ねるまえに、彼女がいなくなってしまえばいいとさえ思った。逃亡するか、自害するか。失った直後は苦しいだろうが、時が解決してくれるだろう。そうしてくれたほうが、亡くなったヴィナスも浮かばれる。
しかし、塔の一室に着いた時、くだらない理性は吹き飛んだ。
明るい部屋で、華美なドレスに身を包んだミリヤは涙を浮かべて待っていた。ドレスはディアナが置いていった物である。胸の部分を直せば、サイズはほぼ同じだ。
ベッドの縁に腰かけていたミリヤが立ち上がろうするのを制止し、シーマは駆け寄った。
「もう、いらっしゃらないかと……不安で……わたし……」
言葉を詰まらせるミリヤをシーマは抱きしめていた。顎が彼女の頭につくと、ふわっといい香りがする。会わない間、見張りはおかず、下女に世話をさせていた。足が不自由で魔法を封じられていたとしても、逃げる機会はいくらでもあったはずだ。暗示が効いていた? その可能性もあるが、シーマの正体を知ったことで暗示は解けていた気もする。
体温が伝わると共に、ミリヤの感情が流れ込んできた。
淋しい、怖い、つらい、痛い……悲しい……。彼女は心からシーマの来訪を待ちわびていたのだった。帰る場所を失ったミリヤにとって、シーマは生きるよすがだ。
「一人にして悪かった。忙しかったのだ」
「飽きられてしまったのかと思いました」
飽きるものかと言うのを思いとどまる。シーマを待っていたのは、愛しているからではない。生き延びて、少しでもディアナの役に立ちたいからだ。捨てられぬために色目を使うミリヤは憐れだった。
「傷は癒えております。この間のようなことには、なりませんので……」
シーマはそんなことを求めていないのに、控えめに誘惑してくる。
「ずいぶん、うぬぼれが強いんだな? 自分にまだ、女としての価値があるとでも?」
「殿方を喜ばせる術は存じております」
「あのなぁ、体の傷を見ると、萎えるんだよ」
「服を着たままがいいとおっしゃるなら、それでも……」
ミリヤは潤んだ目で顔色をうかがう。
「ディアナのもとへ帰るのは、あきらめたか?」
「はい。今のわたしではお役に立てないでしょうし、邪魔になるだけですから」
唇を噛んで目を伏せる。これだけでは本心かどうかはわからない。ただ一つ言えるのは、ミリヤがシーマなしでは生きられないということだ。
シーマは殺風景な部屋を見回した。窓があるだけ以前よりマシだが、ベッドしかない部屋だ。ここで、何日もひたすら待っていたのか。独りぼっちで、定期的に襲ってくる痛みと向き合い、戦うこともできず、女としての機能を失い、主からは見放され……
憐れんではいけない。この女は無垢なヴィナスに毒を盛った。下劣な策を提案し、悪女の企みに手を貸した。施しをしてはいけない。苦しめる方法でなければ……。
「望みを言え」
「えっ?」
「ディアナの所に帰る以外なら、叶えてやってもいい」
無駄に媚びられるより、してほしいことをはっきり言ってくれたほうがいい。
態度と言葉が一致しないシーマに対し、ミリヤは迅速に対応できず、長いまつ毛をパチパチ上下させた。罠かもしれないし、ただの気まぐれかもしれないと、男慣れしている女でも迷ったようだ。
ミリヤはいったん躊躇ってから、外に出たいと要求した。
シーマは彼女の手を取って立たせる。腕を支えてやれば、歩けないこともない。ただし、階段は下りられなかった。シーマは彼女を背負い、塔の長い階段を下りた。
よく晴れた日だ。
地面に足をつけたとたん、ミリヤは笑顔になった。見られているのに気づいて、恥ずかしそうにうつむいたので、本当の笑顔だったのだろう。かわいかった。
シーマとミリヤは小一時間ほど、塔の近くにある果樹園を散策した。秋桜の月だから、果実は食べごろだ。サルナシやりんご、ざくろがよく実っている。籠を持った下女たちが収穫しているのを横目で見て、シーマは花を摘んだ。青紫のりんどうが遊歩道の脇に咲いていたのだ。控えめな秋の花はミリヤに合っている。髪に差してやると目を見開き、シーマを凝視した。
何を驚くことがある? 男に優しくされるのは慣れているだろう?──とは思ったものの、素の表情が見られるのは喜ばしいことだ。
シーマはミリヤと腕を組み、歩調を合わせた。半身をシーマに預けたミリヤは亀の歩みだ。足に関しては、すぐに適切な治療をしなかったため、完全に治ることはないだろう。
数日ぶりに自分の足で歩くミリヤは嬉しそうだった。シーマが優しいので、図に乗ったのか。赤く実るりんごを指さして、「食べたいです」と甘えた声を出した。
「必要以上に媚びるんじゃない。不快だ」
「じゃあ、どうすれば……」
ミリヤはシーマの態度に振り回される。気に入られようと懸命になるのはわかるが、シーマは他の男と同じようにしてほしくなかった。
機嫌を損なったと、困った顔をするミリヤをのぞき見る。シーマが求めるのは飾らぬ素のままのミリヤだ。
遠慮せず、もっとはしゃいでほしいし、外の空気を味わってほしい。色気を出し、籠絡しようとしてきたら毅然とした態度ではねつける。
シーマはリンゴではなく、ざくろを与えた。その場で割って食べろと命じる。ミリヤは口が汚れるのを気にして、躊躇した。
「せっかく取ってやったのに、かわいげのない女だ」
「……どうしてそんな意地悪をするのです? わたしがほしいのは、りんごなのに」
「おまえに選択権はない。俺が好むように話し、俺が望むように動けばいい」
「そんなの愛じゃない……」
「ずうずうしくも、自分が愛されると思っているのか?」
ミリヤが涙腺を緩ませ、訴えてきても甘やかさなかった。自分が絶対に彼女の一番にはなれないと、わかっている。だから、無情にもなれた。
何度も心の中に入り、変えようとしてもできなかったのである。波長は合っているから、操作しやすいはずだった。だが、ディアナに対する忠誠心だけは不動だったのだ。
ミリヤがざくろを食べる様子を堪能したあと、さすがに体裁が悪いとシーマは後悔した。愛らしい口元が、血を吸ったあとの吸血鬼のごとく赤くなっている。こういう時、従者がいないと不便だ。近くにいた下女に声をかけ、首に下げていた手拭いを濡らしてもらった。
声をかけられた下女が戸惑うのは当然だった。どこからどう見ても国王が、足の不自由な美女を連れて歩き回っている。従者や護衛もおらず、異様な雰囲気だ。
ミリヤは少女時代から夜明けの城で生活していた。行動範囲が限られていたとはいえ、顔を知っている者はたくさんいるだろう。噂はすぐに広まる。
──構うものか
関係を続けていれば、いずれ知られることだ。シーマはコソコソせず、堂々と歩いた。女たちの視線から感じられるのは憧憬だけではない。嫉心も多分にあった。ミリヤは女には好かれない。美しく魅力あふれる女の宿命といえよう。
小太郎が居場所を聞きつけて、やって来るまえにシーマとミリヤは塔へ引きあげた。




