79話 カオル・ヴァレリアン(シーマ視点)
(シーマ)
──時間の壁
丘の上から見下ろせば、無限に広がる闇が国境を塞いでいる。それが邪悪なものだと、シーマには一目でわかった。赤子だって、近くに来たら大泣きするだろう。本能的に察するのだ。とてつもなく恐ろしいものだと。
風が来てシーマの黒髪をなびかせた。銀髪の割合が多くなっている。そろそろ染め直さねば……と思ってから、頭を振った。もう染め直す必要はないかもしれない。世界は変わる。変えていくのだ。これからは色素のない体に奇異の目を向けられても、堂々としていられる。
時間の壁の反対方向には、可憐な城がそびえていた。
石壁の上、駆け巡る蔦が紋様を描く。春の始めに芽吹いた緑が鮮やかだ。おとぎ話に出てくるような薔薇の城、ローズ城。
ポツポツと咲いている早咲きの薔薇が、数日後には満開となるだろう。春の日差しを物ともせず、跳ね返す純白の薔薇は残酷なほどに美しい。
王城を落とした一日後、シーマは大隊を率いてローズ城へ向かっていた。
敵城へなぜ馬を走らせているのか。大悪党イアン・ローズを捕らえて、殺すためである。イアンとその家来、自分をギリギリまで追い詰めたサチ・ジーンニアに思う存分報復する。悪辣極まりない謀反人を倒した暁には、色白の貴公子シーマ・シャルドンは英雄となるのだ。
父のジェラルドは国王の従兄弟。シーマは家柄良し、見目良し、器量良し。知能良し。身長は普通の成人男性の頭一個分高い。カリスマ性も持ち合わせている。誰にも文句は言わせない。
シーマは目を三日月にする。大笑いが喉まで出かかっているのを抑えつけ、優しい自分を演出する。
とうとう、チェックメイトまできた。
うしろを振り返れば、顔面蒼白のカオル・ヴァレリアンと、土色の顔をしたウィレム・ゲインが見える。両手を拘束された彼らは、それぞれ別の馬に相乗りさせられていた。
──いい気味だ。今までイアンの下で偉ぶっていたんだからな? 顔と口先ぐらいしか、取り柄がないくせに。
そうは言っても、彼らの裏切りにより王城を取り戻せたのだから、多少の敬意は払わなくては。オートマトンの軍勢に恐れをなした役立たずは、すんなり城を引き渡してくれたのである。
──オツムが弱いのは主と同じだな? 要注意人物はやはり、サチ・ジーンニアだった。
サチもここまできては打つ手がないだろう。できるとしたら、命乞いぐらいだろうか。
──あれだけ忠告してやったのに……ジニア、おまえが悪いんだからな? 俺につかなかったおまえの負けだ
シーマは浮かれ気味に馬の腹を蹴った。勝利が待ち遠しい。楽しいハンティングの始まりだ。
丘を登りきるのに十分もかからなかった。シーマがローズ城を訪れるのは初めてである。
内戦が始まってから、手入れされていなかったのだろう。庭園は荒れ放題だった。噴水も止まり、溜まった汚水の周りに羽虫がたかっている。
思いのほか、簡単に入城できた。城内はもぬけの殻だ。兵も使用人も一人として残っていなかった。
シーマは舌打ちした。
「逃げやがったか?」
跳ね橋も下がったままだった。小競り合いを期待していたのに、これでは拍子抜けしてしまう。
「シーマ様! 西の塔をご覧ください! 首が!」
ジェフリーが指した塔のてっぺんには、首が飾られていた。視力が抜群にいいシーマには、その首が誰のものかすぐにわかった。思い描いていたとおり。想定内だ。
神経質なジェフリーはキリッとした眉を寄せる。この家来は凡庸。有能だが、真面目でつまらない。まっすぐな黒髪と印象の薄い顔立ちに、性質がよく現れている。
「うろたえるな。謀反人を捕らえるほうが先だ。主殿内を調べるぞ」
シーマは冷静に命じた。イアンとサチの居所のほうが重要である。
馬を降り、小隊に分けた兵と供のジェフリー、それと捕虜のカオル、ウィレムを連れ、主殿に入った。自分で探したほうが早いと思ったのだ。不用心といえば不用心。急く気持ちを優先させた。
主殿内は荒れ放題の庭園よりマシだった。なんだか、とても良い香りがする。
──この香り……チキンかな? 甘い砂糖菓子の匂いもする。兵士も使用人もいないのに、シェフだけ残したのか?……んな馬鹿な!
シーマは匂いのもとへと走った。
夢中になると、周りが見えなくなるのは昔からだ。だから、厨房からグリンデル人がヌッと現れた時、飛び上がりそうになった。
厨房にいたのは、捕虜にされたグリンデルの外交官二人だった。
父親よりも年上、他国のエリート貴族である。不作法な対応はできない。兵士を下がらせ、突然現れたことをシーマは詫びた。
「シーマ・シャルドン、救援感謝する」
立派な口髭を生やした外務大臣ファビアン・ベナールは、丁重に礼を言った。
シーマは良家の子息らしく、物腰柔らかに挨拶を返す。こういうのはイヤってほど勉強した。野良犬だってその気になれば、優良血統種のように振る舞えるのだ。
「シーマ、君に悪い知らせを伝えなければいけない」
外務大臣が気の毒そうに言ったあと、代わりにエミール・ボワレ大使が口を開いた。大使のほうが口髭は薄めだが、恰幅はいい。
「人質だった君の父上が亡くなった。私たちが囚えられていた塔の屋上、胸壁の所に首が飾られている」
「なんですって!?」
先ほど見た首のことだ。大げさに驚いたふりをしたが、シーマはなんとも思っていなかった。ジェフリーが丸くした目をパチパチして、こちらを見ているのがウザい。この家来はユゼフと違って、感情を表に出す。
父の死をたった今、知ったふうを装うため、シーマは取り乱した。口に手を当て、声を震わせる。目からはとめどなく涙を流した。演技? いや、ここまで役になりきり、自分まで騙しているのだから、演技とは言えないだろう。
大泣きするシーマを前に、グリンデル人二人は目を伏せた。
「……父に……最後に会ったのは、ひと月前でした……まさか、まさか、こんなことになるとは……」
「力になれず申しわけない。なにか助けが必要であれば、言ってくれたまえ」
ベナール大臣は隣のボワレ大使に目配せした。気を使ったのだろう。二人は連れ立って、厨房から出て行った。
少時……
厨房に残されたのはシーマの他、家来のジェフリー・バンディ、イアンの家来のカオルとウィレムだけとなる。
気まずい空気のなか、カオルとウィレムは固まり、ジェフリーは咳払いした。
空っぽの厨房には、洗いかけの食器と料理の食べ残しが置かれてあった。
冷めてもふんわり柔らかそうなパンケーキ、鍋に残ったトマトソースのニョッキ、ナッツがかかっているサラダ、まだ肉がたっぷり付いている鶏の丸焼き、スープの残り……夏みかんの砂糖衣がけ……どれも、作ってからそんなに時間は経っていないし、おいしそうだ。
健康的な美食と、自由に歩き回る人質。
──逃亡者のくせに、ずいぶんと余裕じゃないか?
良い気分だったのが、悪くなった。
グリンデル人たちが戻ってこないことを確認し、シーマは涙を拭った。そして、何事もなかったかのように切り出した。
「さてと。カオルとウィレム、おまえたちはこの城に詳しいわけだが、本当に隠し部屋や隠し通路はないのだな?……だとすると、奴らはここにはいない。ならば、どこにいると思う?」
「……わかりません」
茶色い巻き毛のウィレムは困り顔をした。クルクルした巻き毛は判を押したみたいに、ありきたりだ。いかにも貴族の御曹司といったところである。
しかし、無愛想なカオルより、こちらのほうが表情豊かだ。うっすら笑みを浮かべ、シーマの顔色をうかがってくる。これは彼の太鼓持ち人生において、自然と身についた悪癖であろう。非常に不快だ。
「わざわざこんなド田舎まで足を運んだのに、残念でしょうがないんだが」
シーマは視線をウィレムからカオルへ移した。女みたいに綺麗な顔をしているな、と思う。こういう美形は貴族のお小姓に打ってつけだ。見栄えする装飾品と同じだが、無能ならそれまで。
カオルは蛇に睨まれた蛙となり、カチコチに固まった。このビビりが、イアンをかばって嘘をつけるとも思えない。シーマは構わず続けた。
「あのぷっつん赤人参と生意気なサチ・ジーンニアがひざまずき、命乞いするのを見たかったのに……おまえたちも見たかっただろ?」
「え、ええ。まあ……」
ひきつった顔で答えたのはウィレムだ。何も答えられないカオルより、見込みがあるかもしれない。
「まあ、命乞いしたところで許してはやらないんだがな? 二人とも、楽に死なせやしない。この俺に刃を向けた罰は重い……どんな刑がいいだろう? おまえらの意見を聞きたい」
シーマは貴公子らしく微笑んだ。この質問は楽しくもあり、意味もある。二人の性格を測るのに必要な問いだ。
嬉々として答えれば、信用度は低い。馬鹿殿とはいえ、主君に対し思い入れを持たないのは不誠実だ。反対に頑なでも困る。イアンに対する忠誠心が強すぎると、再利用は難しいだろう。
ウィレムはカオルと顔を見合わせてから答えた。
「……火刑とか?」
「ぬるいな」
シーマは首を横に振った。思った以上につまらない答えだ。こいつらには、その他大勢の使い道しかない。
「火刑だとエゼキエル王と同じだろうが? あいつらには塵ほども尊厳を与えてはならない……そうだ、おまえらに宿題をやろう。あいつらが捕まるまでにどんな刑がいいか、考えておくように」
シーマは愚鈍な彼らに宿題を与えた。及第点を取れたら、殺さずにいてやろう。
わざと肩にぶつかると、カオルはバランスを崩して倒れそうになった。絵に描いたような脇役。シーマは声を出して笑いそうになる。
厨房の出口まで来て、忘れていたことを思い出した。
「そうそう、サチ・ジーンニアの部屋がどこか教えろ。口頭でいい。もう少し城内を探させるから、おまえらはそこで待機だ。もし、隠し部屋が見つかったとき、損をするのはわかっているな?」
臆病な脇役どもに部屋の場所を聞いたあと、シーマは厨房を出た。




