75話 イザベラ(サチ視点)
広間を出て、サチは湯を沸かすために炊事場へ向かった。
パタパタ……軽い足音がついてくる。イザベラだ。
止まって振り返れば、彼女も止まり、決まり悪そうに下を向いた。
「何か?」
「……その、何かお手伝いできるかと思って……」
「必要ない」
サチは即座に返答し、歩く速度を速めた。彼女は小走りして、まだついてくる。
──なんなんだ、いったい?
そもそも、敵側の人間が城内を自由に歩き回っているのはおかしい。間者の可能性もあるし、拘束すべきである。先ほどだって、会話を盗み聞きされていたではないか。
──イアンにもっと強く言えばよかった
炊事場へ入る手前で止まり、サチはイザベラに鋭い視線を投げた。
すると、彼女は赤面してこちらへ向かって来た。
「イアンに、頼まれ、たの……あなたの…様子を……見るようにと」
途切れ途切れにイザベラは言い訳した。息を切らしているのかもしれない。
──イアンの奴、まだ俺が逃げると思ってるのか……
気分は悪いが、この状況では信じられないのも仕方ない。だが、自分から逃げろと言って、監視するとはどういう料簡だ?
憤懣を抱え、サチは湯浴みの準備を始めた。湯を沸かし、タライ、桶、石鹸を用意する。炊事場はよく出入りしていたので、どこに何があるか、だいたい把握している。
幸い、水道は止まっていなかった。民の間では井戸が主流だが、規模の大きい城では水道が通っている。噴水も同じ仕組みだ。
サチはかまどをフル稼働させた。シチュー用鍋を四個使って湯を沸かす。
タライは洗濯にも使う大型のやつだ。壁に立てかけて、干してあったのを引きずり出した。膝を立てて座れば、かろうじてへそまで湯位は上がる。
その間、イザベラはずっとサチのことを見ていた。
──考えたいことが、たくさんあるのに気が散るな……
「あ、着替えを忘れてた」
「わたしが取って来るわ。あなたはお湯が冷めないうちに入ってて」
イザベラは走って行ってしまった。彼女がいなくなったことは、ありがたいが……
──俺の部屋がどこか、わかるんだろうか……?
サチの部屋は兵士の詰所にある。
卒業後、この城で働くことになった時、イアンの従者なのか、伝令なのか、ローズ家の執事なのか、立場が明確ではなかった。
ありとあらゆる雑用をさせられ、領内を歩き回っていた。兵士と警備にあたることもあったし、農地の測量に立ち会ったり、帳簿の整理に食料の買い出しをしたりすることもあった。
イアンの使い走りが最も多かったので、シーマの間者のガラク・サーシズが言ったように、従者というのが正しい職業なのかもしれない。
そのイアンは、跡継ぎとしてローズ領の統治を任されていた。
任されるといっても、学院を卒業したばかりで右も左もわからない。学匠から教わり、少しずつ領主としての顔を領民や貴族に広めているところだった。
仕事に向き合うイアンは、意外にも一生懸命だった。卒業してから二年間は比較的、穏やかに過ごしていたのだ。それなのに……
浴布は用意してあるので、あとで服を取りに行けばいいと思い、サチは裸になった。
傷だらけの体に自嘲する。傷はすべて塞がっていた。切腹しようとした時の傷や暴漢に刺された傷もケロイド状に膨らんでおり、数ヵ月経ったあとに見える。痛みももうない。
左腕にまっすぐ切られた傷が目に入った。
──ああ、そうだった
イアンに臣従の誓いをしたのだった。すっかり忘れていた。あれから、ゆっくり思い返すこともできなかった。怒涛のように押し寄せてくる問題の数々に振り回され続けている。
──どっちみち、俺は逃げられないんじゃないか。この傷がある限り
魔族の臣従礼は特殊だ。裏切っても主君が死んでもサチの命は失われる。
愚かなことをしたものだと恥ずかしくなった。切腹しようとしたこともそうだし、何もかもが無駄になった。恥を隠したい気持ちで湯船に身を沈める。
体に付いた血や土埃や灰がお湯を濁らせた。
──一日でだいぶ汚れたんだな……
綺麗好きなサチはいつも清潔にしていた。これほど不潔になったのは、生まれて初めてのことだろう。
──こんなに汚れるまで一日駆けずり回って、結局何もできなかった……でもまだ、なんとかなる可能性はある
時間の壁を抜けて国外へ逃げることができれば……グリンデルのオートマトンが通れたのだから、方法があるはずだ。
オートマトンが無機体なのは、壁を通れたこととは無関係だ。
通常は流されて別の時間へ飛ばされる。流れに乗らない場合、体内へ時間の粒子が流れ込み、ものすごいスピードで老いてしまう。無機体であっても劣化する。
──本で読んだところによると、オートマトンの稼働時間は一週間、火炎放射を行えば、もっと短くなるはずだが……
シーラズ城の周りで動かなくなっていたオートマトンは、稼働時間が一日もなかった。火炎放射を考慮に入れても短すぎる。時間の壁を通ったことによって、彼らの動力源に何らかの影響があったのだ。
彼らの動力源といえば……もしかして……
その時、気配を感じてサチは立ち上がった。
イザベラが戻って来ている。考えるのに夢中で気づかなかった。彼女は調理台の影に隠れて、こちらを窺っていたのである。
顔を赤らめて姿を見せたので、サチはふたたび湯船に体を沈めた。
「着替えを持って来たわ。前くらい隠したら?」
イザベラは遠慮なく歩み寄ってきた。
「着替え、ここに置いておくわね……」
浴布を吊した椅子の上に着替えを置き、しゃがんだままサチを見つめる。物言いたげな様子だ。
「なに?」
「あのぅ……良かったら、背中を流してあげようか?」
サチは耳を疑った。
「背中は届かないでしょう? ずいぶん汚れているようだし」
今まで妹以外の女性と関わることがなかったため、正解がわからない。サチは罠かと思った。
──ほとんど初対面の男の入浴を頼まれてもないのに、自分から手伝おうとするものだろうか?
マリィなら、そんなはしたない真似は絶対にしないだろう。
黙っていると、イザベラが手拭いを持って後ろに回ったので、サチはきつい口調で突っぱねた。
「何もしなくていい。ここから出て行ってくれないか?」
「でも、わたし、あなたを見張らないと……」
「わかった。じゃあ、もっと離れろ。近い」
イザベラは不満げに頬を膨らませ、サチから少し離れた。が、視線はまだこちらに向けたままだ。
「俺は裸で入浴中なんだ。ジロジロ見るんじゃない」
サチは次第に苛立ちを抑えきれなくなっていた。着替えたら、すぐにこの女をどこかの部屋へ閉じ込めなくては。
「別に見てないわよ。そんな言い方ないんじゃない? あなた、無礼だわ。かわいそうに。ちゃんと礼儀作法を教わってないのね」
イザベラは赤い唇を尖らせた。去る気配はない。人の入浴を見物する女に、礼儀作法云々を言われる筋合いはなかった。
「もう、着替えるから出て行け」
「いいえ。わたしは構わないわ。どうぞ着替えて」
彼女は平然と返す。
──構わないって……
サチはあきらめてイザベラに背を向け、浴布を体にかけた。彼女が持って来た着替えはサチの物で間違いない。下着までちゃんとある。
──部屋の場所はイアンに聞いたのだろうか?
勝手に部屋へ入られ、衣類を触られたのは気持ち悪い。サチは自分で取りに行かなかったことを後悔した。
怪しい空気のなか、体を拭く。彼女の視線に晒された状態で、ぎこちなく着替えを済ませた。
着替え終わるなりサチは、
「来るんだ」
と、彼女の腕をつかんだ。
今度は力を入れ過ぎないように注意したつもりだったのだが、声を上げられた。赤くなっていた箇所をつかんだせいで、痛かったのかもしれない。
「ごめん」
イザベラは目に溢れんばかりの涙をたたえ、長いまつげを震わせている。肌が白い分、色と形がはっきりしている目や唇が際立つのだ。童話に出てくるお姫様みたいだとサチは思った。必然的に謝るしかなかったのである。
「イアンが言っていたのだけど……」
言いかけた彼女の目から大粒の涙がこぼれる。
「あなたがわたしの父を殺したの?」
「……そうだ」
サチはなるべく感情を込めずに答えた。
あの時、サチが刺していなければ、クレマンティはイアンのことを殺していた。
もちろん、弁明など無意味なことぐらいわかっている。彼を殺した──この事実の前では、どんな謝罪も薄っぺらい。
サチが黙っていると、イザベラはこぶしをサチの胸に当てた。
「あなたは責任を取るべきよ。わたしに対して」
──責任を取る
死んで詫びろと言っているのか? 謀反人の一味として捕らえられ、裁きを受けろと?
彼女の“責任を取れ”が具体的に何を指しているのか、サチにはわからなかった。
仇敵と認識されるのは理解できる。父親の仇に対して憎しみを抱くのは当然だ。自分を憎む相手と横並びに歩く苦痛を、サチは甘んじて受けねばならなかった。
炊事場を出て庭園を抜け、また屋内へ入り階段を上る。移動時間はとても長く感じられた。
彼女を連れて行ったのは生首が転がる西の塔だ。
塔の一室に閉じ込め、鍵を閉める。やっと胸をなで下ろし、息を吐いた。
それから、サチはイアンのいる広間へ戻った。




