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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第五部 戦わない戦い(前編)一章 イアン
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16話 叔母様

 王室のプライベートな外廊は奥庭の周りに巡らされている。手すり越しに見下ろせるのは、色鮮やかな夏の花々が咲き乱れる花園だ。デブにしては速いシーマの歩みにイアンは合わせた。


 奥まった場所を移動しているということは、会わせたい人は王族かと思われる。シーマ以外に同居している王族は、他に一人しかいないはずだ。

 そこまで考えたところで、脂肪塊が停止した。考えごとをしていたイアンは柔らかい脂肪にのめり込む。


 ──急に止まるんじゃねぇよ、ブタッ!!


 思っても、口に出さなかった。エラい。自分で自分を褒める。

 まさに予想した扉の前に来ていた。煉瓦のアーチで縁取られた両開きドア。女神を囲む草花の模様が彫られている。

 太后の部屋ではないかと、イアンはシーマをにらんだ。わざわざセッティングする必要などない。孫のイアンはいつでも会える権利を有している。

 ジャメルが面会を求める口上を述べ、扉がゆっくりと開かれた。

 次の瞬間、イアンが回れ右をしたのは何年も忘れていた……というか、意図的に記憶から消し去ろうとしていた人物がいたからだ。叔母、正確には大叔母。扉を開けたのはユゼフの継母のバルバラ・ヴァルタンだった。


 逃げようとするイアンに対し、裏切り者の小太郎とジャメルが壁を作る。ニヤニヤしているであろうラセルタは、その後ろに隠れているのだろう。

 イアンが雑魚どもを蹴散らし、逃走せんとしているのにシーマは大きな声ではっきり、


「シオンが参りました」


 と、伝えてしまった。バルバラは当然のように、


「ああ、イアンね?」


 と答える。シーマをサッと中へ入れてしまったので、イアンは逃げられなくなってしまった。バルバラはシオン=イアンだと知っている。叔母にとって、今やイアンは息子を殺した(かたき)だ。どんな気持ちで真実を受け入れたのか、想像するだけで戦慄が走る。

 従僕たちは部屋の外で待たせ、イアンは腹を決めねばならないようだった。


 ただでさえ、苦手な叔母だ。叱られた記憶しかない。頬を引っぱたかれたこともある。落とし穴に落ちたユゼフのことを忘れ、放置していた時のことだ。イアンに罰を与えろと養母のマリアに詰め寄ったこともあった。なにより、髪も手もごわごわしていて全体的に角ばっているし、イアンの好む女性の要素が皆無なのである。

 扉を押さえるバルバラの横を通る時に、彼女が目を閉じていることにイアンは気づいた。変な胸騒ぎがしたのは一瞬、考える間もなく別の衝撃がやってきた。


「お婆様!!」


 窓辺のソファーに腰掛けるミリアム太后が見える。

 イアンは駆け寄り、太后の両手を握った。


「お婆様、シオンです! ただいま、戻りました! ご心配をおかけして申しわけございません!!」


 大好きなお婆様と七ヵ月ぶりの邂逅を喜び合うつもりだった。かわいい孫の姿に顔を綻ばせると、抱き締めてくれるものだと思い込んでいたのだ。

 しかし、振り向いた太后の視点は定まらず、体が小刻みに揺れていた。


「どなた??」


 間延びした問いかけに、イアンは耳を疑った。後ろからバルバラの硬質な声が聞こえてくる。


「イア……シオン、あなたの孫よ」

「孫? わたくしに孫なんていたかしら?」

「ヴィナスが産んだじゃない? また忘れたの?」

「ヴィナスはまだ七歳よ? 子供なんて産めるはずがないわ」


 どうも会話が噛み合わなかった。ちぐはぐな印象は受け答えだけではない。艶やかだった太后の褐色の髪には白いものが混じり、光沢がなくなっていた。髪と同色の瞳は落ち着きなくさまよい、心ここにあらずといった様子だ。眉間の皺とほうれい線が深く刻まれ、目の下のクマまで濃くなって、別人のような顔つきに変わってしまっていた。

 イアンが王城にいたころの太后はまだまだ女盛りだった。恋人がいても、おかしくないぐらい美しかったのである。それが老婆と言ってもいいほどに、老いてしまった。バルバラのほうか若く見えるぐらいだ。


「せっかく来てくださったのだから、この間刺した刺繍をお見せしたら?」


 促すバルバラに対し、太后は頭を振った。


「いいえ、刺繍なんてどこかへやってしまったわ。今は産まれてくる子のために、よだれかけを縫っているの」


 太后はイアンの手を振りほどき、チェストの引き出しを引っかき出し始めた。


「名前はもう決まっているの。ニーケよ。陛下がアトゥがいいとおっしゃるけど、今回は譲る気がないわ」


 目を閉じたまま、バルバラが囁いた。


「ときどき、正気に戻ることもあります。言葉を返せないぐらい打ちひしがれていますがね。自傷行為に走るので、この状態のほうが安心できます」


 スカーフやらハンケチやら……放られた布はふわっと開き、緩やかに落下していく。色とりどりの薄布は先ほど見た花園を連想させた。

 それを見て、ミリアム太后はケタケタと笑い声をたてた。


「あはは! きれい!!」


 老女に幼女が乗り移ったかのごとく喉を鳴らす彼女を見て、イアンは呆然と立ち尽くすしかなかった。どんな言葉をかければいいのか、皆目見当がつかない。

 確実なのは、目の前にいるのがイアンの知っているお婆様ではないということだ。そして、壊れた心は二度と戻ってはこない。


 役立たずのイアンはしゃべりかけることもできず、彼女の動きを目で追うことしかできなかった。チェストの中を全部空にすると、今度は壁に向かって話し始める。相手はニーケかヴィナスか。幼き日の我が子がまるでそこにいるかのように、会話するさまをみるのはつらかった。二人とも、もうこの世にはいない。イアンは奥歯を強く噛み、慙愧(ざんき)の念と憤怒に耐えなければならなかった。


 数分も数時間に感じられる。別世界にいる太后と心を通わせることは一度もなく、面会を終えた。

 無情な時間を放心状態で過ごしたあと、イアンとシーマは続きの小部屋へ案内された。太后のことは侍女に任せる。


「妹が夢の世界で暮らすようになったのは、ディアナ様のせい。ディアナ様がこの城を占拠され、王位を得ている数ヶ月の間、窓のない塔の一室に妹は閉じ込められていたのです」


 シーマから事情を話すよう命じられていたのだろう。手でテーブルと椅子の位置を確認するバルバラが座るのを、イアンは手伝った。バルバラは修道女の装いをしている。


「その間、お付きの者は二人おりましたが、近しい者との面会や外に出ることすら許されず、妹の精神は蝕まれていきました」


 バルバラは昔と同様、淡々と話した。感情を欠いた言葉は空虚だ。


「最愛の娘と息子を一年のうちに失ったのです。ニーケ殿下に関しては、聞くもおぞましい最期だったと聞いております。積み重なっていた心労と癒やされない傷心が妹を追いやったのでしょう」


 バルバラはイアンのほうを向いているが、目を開けようとはしなかった。


「あなたのことも、だいたい陛下からお聞きしました。ヴィナス様がお産みになった王子ということも……過去のローズ家で養育されたのは、ディアナ様の脅威から守るためだったと」


「申しわけ……」

「何も言わないで。私はあなたを許すつもりはありません」


 イアンは口を押さえ、嗚咽が出ないようにした。


「謀反を起こしたのは悪い連中に騙された結果なのだとも、聞いております」


 当然だが、シーマは自分が黒幕だとは伝えていないようだった。


「あなたという子を幼いころから知っていれば、致し方なかったのだとあきらめもつきます」

「叔母様、サムは……」

「あなたが殺していなければ、サムはあなたを殺していたでしょうね。あなたたちは本当に仲の悪い従兄弟だったけれど、殺し合いにまで発展するとは思っていなかったわ」


 バルバラは冷たく言い放った。擁護もしないし、責めもしない。彼女はいつだって冷淡で、怖い叔母だった。


「それでも、どこかで血の繋がりが抑止力になっていたのでしょう。あなたはどうかわからないけれど、ダニエルもサムもギリギリのところで手加減はしていたと思うわ。だから、私は安心もしていた」


 イアンは謝りたかった。だが、老木みたいな背骨を伸ばしたバルバラは、頑なに謝罪を拒んだ。一言ごとにイアンの心は切り裂かれ、涙を流す余裕も与えられなかった。甘えを許さない厳しい態度は養母のマリアと共通する。情けをかけることはなく、ただ事実だけを無感情に述べていく──      



 あなただけじゃないわ。サムとダニエルもいがみ合っていた。ユゼフが緩和剤となっていたのかしら? ユゼフだけが穏やかな性格で、あなたたち全員とそれぞれうまくやっていた。

 あなたたちが憎み合っていたのは、育て方のせいよ。競争心を掻き立て、強さを至上とするヴァルタン家の教育が息子たちを死へと向かわせた。こうなってしまった責任の一端は私にもある──


 厳格な叔母はイアンに責任すら、負わせてはくれなかった。

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