3話 ふわもことの別れ
イアンは浴衣を脱いで、汚れやほつれの目立つダブレットに着替えた。服の傷み具合は旅の苛酷さをよく表している。太郎は従僕のようにイアンの着替えを手伝った。
蓬莱山からグリンデルへ、百日城に囚われたり、地下道でオートマトンと戦ったりした。ふたたび蓬莱山に帰ってからはオロチ、海の国でも海神ネレウスや竜を相手に奮戦した。一緒に冒険し、いつもそばで支えてくれたのが太郎だ。別れは半身を奪われるのに等しかった。
「何もかも終わったら、必ず報告に行く!! 暇があったら、文も書く!」
「伝書鳥のダモンは魔の国に行かせてしまったではないか」
太郎の鉤爪が服の留め具から離れると、倒れそうになるぐらいイアンは不安定になった。体ではなく心の問題だ。別れたくない、どうしてもついて来てほしい……わがままを呑み込み、なんとか足を踏ん張る。泣きそうなイアンを金の目が鋭く刺したからだ。
「甘えるのも大概にせよ。これよりはおのれ一人で定め、行動するなり」
太郎は凛とした横顔を見せた。そっぽを向いたわけではなく、目が顔の側面に付いているため、そのほうがイアンの顔を見やすいのだろう。不動の姿勢は巣立とうとする雛を見守る親鳥に似ていた。イアンは巣立ちしたばかりの雛を持って帰ろうとして、ユゼフに注意されたことがある。雛が自力で飛べるようになるまで、時に突き放し放置し、親鳥は愛の鞭を振るう。かわいいからと手助けしてはいけない。親鳥は雛のためにあえて厳しい態度を取るのだ──しかし、イアンは雛ではない。
「最後に! 最後に、そのふわもこを触らせてくれ!!」
今生の別れになるかもしれない。アキラは触らせてくれなかった。当分、続くであろう、ふわもこロスを覚悟し、イアンは太郎の嘴下の羽毛を堪能した。
「お主ときたら、童か」
呆れているのか、三白眼の目尻が下がった。
身支度が終わると、イアンはすぐさま発たなければならなかった。
神に仇をなし、禁忌を犯した大罪人だ。そのうえ太郎にまで咎を負わせた。物珍しい客人から厄介者扱いになってしまったのである。誰も見送りに来なかった。
里を出られない太郎は、ツリーハウスの大樹の下までしか送っていけない。大樹の密集地は夜になると真っ暗だが、イアンの目には木漏れ日のごとく差し込む弱い星明かりが見えた。
「ひとまず、河童に知らせねば。エカシには人魚の呼笛を借りておるし、案じているであろう。ミカエル殿は後回しにしても構わぬ。お主は飛べぬから、獅子島まで船旅では時間がかかる。水中着やエラ呼吸マスクは美織殿に預からせよ。すべて終わりしよりの知らせでも問題ならずと思う」
太郎は心配し過ぎる。すでに文を蓬莱洞の美織に送っており、迎えを頼んでいた。イアンは方向音痴だ。
「アキラもダモンもおらぬから、おぼつかなし」
「大丈夫だって! 一人の時も適当にやってこれたし、なんとかなんだろ」
「適当はいかん」
眼光が猛禽の厳めしい顔をぼんやり浮かび上がらせていた。皺など寄っていないのに、重々しく感じるのは目の上に羽毛が被さっているせいかもしれない。キツい目つきに見えるのも、羽毛が影を濃くしているからだ。つまり、ヘアスタイルをなんとかすれば印象が変わる。太郎の顔をのんびり観察しているうちに、イアンは大変なことに気づいた。
「あ! 蓬莱洞まではなんとかなっても、王都へはどうやって帰ろう!?」
太郎は動じなかった。
「実浮城へ行くべし」
「ほぁっ!? 実浮城!? 行ったら、アスターの手が回っていて捕らえられるじゃねぇかよ?」
「そのとおり。そのまま捕らえられれば、王都まで連れて行ってもらえる」
「えっ!……」
あえて囚人になれというのか? イアンと比べて保守的な太郎にしては、大胆な案だ。
「でも、拘束されていては魔国へ行って、エゼキエルと戦うことができないじゃないか?」
「お主は王の落とし胤。多少、自由は制限されるであろうが、獄に繋がれはせぬ。隙を見て逃げるべし」
「大丈夫かなぁ……」
「急いてはいかん。しばし、旅の疲れを癒すべし。アキラと合流できればよいのだが」
不安は残るが、最短で楽に行ける方法はそれしかない。不本意ながらイアンは首肯せざるをえなかった。
「あな! 刀のことを忘れたらむ? 鬼の所へ行く予定だったのでは?」
「そうだった! 勘兵衛に頼んだ刀がもう完成してる! 取りに行かなきゃ!」
思い出してよかった。不快な思いまでして、呪いの刀をマイエラに届けて得た刀だ。武器がなければ、戦えもしない。
イアンは背負っていた刀を太郎に返した。
「マサムネ、短い間だったが、世話になった。海水に耐え、よく戦ってくれた。おまえがいなければ、オロチやネレウス、竜に勝利することはできなかっただろう。深謝する」
頭を垂れるイアンに太郎はうなずき、マサムネを受け取った。
思い返せば、ティムの軟剣、呪いの刀《包真》、マサムネと、個性的な剣|(刀)を転々としている。
──軟剣は百日城で、豚の化け物と戦った時に折れてしまったんだよな。ティムには申し訳ないことをした。今ごろ、どうしているだろう?
イアンがエゼキエルを殺したら、ティムは悲しむだろうか。頭によぎった考えは即座に打ち消された。
──殺すわけじゃない。元のぺぺ、ユゼフに戻すんだ
それに、今は太郎との別れを惜しむべきだった。
サワサワッと葉擦れの音がしたかと思うと、星明かりの作り出す薄い明暗が揺れた。暗闇の中で、いっそう濃い闇が動く。
キィィィィィィ……ヒョォォォォ……
不快な金属音を瘴気が連れてくる。イアンの体毛が逆立つのは闇の力を感知したからだ。人間なら戦慄することだろう。移動音を自然音と同化させ、近づく寸前まで気配を察知させないのはエリートの証である。
黒風と共に現れたのは、猿の顔をした虎だった。
「あれ? 美織が迎えに来るんじゃなかったのか?」
「美織殿は泉の守り神ぞ。しもべを遣わしけり」
イアンはがっかりした。しもべというのは、森の精霊のレンと一緒にいた怪異である。
「クソ生意気だけど、どうせならレンのほうが良かったなぁ。何が悲しくて、こんな化け物と夜道を歩かねばならんのだ」
猿だか虎だかわからない猛獣とほぼ全裸の美少女なら、後者のほうがいいに決まっている。
「ぶつくさ文句を言うべからず。わざわざ、お主がために来しぞ?──鵺殿、馬鹿が世話になる」
鵺は蛇の尾で「ヒョォォォォ」と返事をし、皺だらけの猿の首を回した。
「なんだ? 乗れと言っているのか?」
この珍獣には美織とのデートの際に一回乗っている。イアンは遠慮せず、またがった。
「イアン! また会おうぞ!!」
嘴の端を上げた太郎をつむじ風が消してしまった。イアンがまたがるなり、鵺は踵を返したのである。
「おい! 太郎とちゃんとお別れしてないじゃないか!!」
イアンの嘆きを舞い上がる夏落葉がさらっていく。樹上に浮かぶ天狗の里を仰ぎ見る余裕もなく、景色が移り変わった。イアンは振り落とされぬよう、獣にしがみつくしかなかった。




