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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第五部 戦わない戦い(前編)一章 イアン
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1話 浮かれている

 (イアン)


 常にマスクを装着しないといけない(わずら)わしさはあったものの、海の世界は刺激に満ち、退屈しない場所だった。

 イアンは別れを惜しみ、太郎と共に海上へと出た。

 弱い光に慣れていたせいか、陽光がまぶしすぎる。にじんだ目の端に、送ってくれたシレーネが映った。いい具合にボヤけ、後光の効果で天女に見える。


「じゃあな! あれだけ、大口叩いたんだから、絶対に魔王を倒せよ! あと、青角髪(あおみずら)の姫を幸せにしろ!」


 ヒレをビタンと海面に叩きつけ、シレーネはイアンを鼓舞した。目尻が光ったのは、イアンと同じ理由だろう。だが、イアンは即座に記憶を書き換えた。生理的な涙より、感情的な涙のほうが美しい。別れにはどちらの涙がふさわしいか。言うまでもない。


「次は必ずサウルを連れてくる!」

「ああ、三叉の矛の権能を返しに来るんだぞ?」

「おうよ!」


 もっと、じゃれ合いたかったのだが、シレーネはさっぱりしていた。ニヤリ、唇の端を上げると、一瞬で波に呑まれてしまった。手を振る代わりにブルーの尾びれをはためかせる。しぶきがビーズとなって、イアンの頬に飛んだ。


「あーあ、行っちゃった……」

「シレーネ殿は男勝りゆえ」


 イアンはエラ呼吸マスクを剥ぎ取った。清々しい空気が肺を満たして、別れの悲しみを癒やしてくれる。

 淡い光に彩られた厳かな海底も好きだし、溢れんばかりの明るさに圧倒される地上もイアンは愛している。青空も芽吹く緑も味方だ。久しぶりの陸はイアンを高揚させた。

 「わぁぁあああ!」と叫んで、砂浜を転げ回り、松林のほうへ一目散に駆け出した。途中、太郎に腕をつかまれなければ、松の木を登り、ヤニだらけになっていたことだろう。


「これこれ、イアン! 落ち着け! おぬしときたら、感情に任せて動き回るものだから、手に負えん!」

「うっせぇな! 楽しい時は自分の心に従うべきだろ? ゴチャゴチャめんどくせぇこと、抜かすな!」

「外は危険まみれなり。さることなれば、幼いころより人にぶつかったり、迷子になったりするなり」


 どうして太郎は幼少期のイアンのことを知っているのだ? 人間に化けても、鷲の面影を残す凛々しい眉毛はピクリともしない。そして、恒例により、心まで読んでくる。


「普段の行いを見たらば、おおかた見当つく。鳥の雛は親鳥に守られつつ、外界の危険性について学ぶはずだが……」

「俺は人間だっつぅの!」


 言ってから違うことにハッとする。太郎は突っ込まず、


「それにこれ……」


 右手にすっぽり収まっていた光る珠を開いて見せた。両手で抱えるサイズだったものを、海の王が小型化してくれたのである。


「大切な物を放り出してはいかん」


 決死の覚悟で手に入れた幻の宝を簡単に失ってしまうところだった。

 いつの間に手放してしまったのか。広大な海に流されてしまっては、もはや取り戻すことはできない。

 イアンは平常心を取り戻した。とはいっても、イアンの平常心なので、荒れた時の太郎よりは乱れている。


「ごめんなり。反省するなり」

 

 しゅんとして謝り、砂だらけの体で宙返りする。動いていないと、心が落ち着かない。

 光に慣れた目で見る竜の珠はやはり神々しかった。発光度合いは抑えられているのだろうが、虹色に発色した表面が流れ動いている。グリンデル水晶に似ていた。

 珠を渡そうとする太郎を制止し、代わりに持っていてくれないかと提案する。背伸びせず、頼れるときは甘えてもいいということをイアンは学んでいた。

 太郎は、


詮方(せんかた)なしな」


 と、珠を懐にしまおうとして、水中着だったことに気づいた。イアンたちは着替えることにして、少し離れた岩場へ向かった。


「あれ? ここらへんに服を置いてなかったっけ??」


 岩の平らなところに置いたはずだ。岸から遠いし、流されるはずはない。岩の位置も形も間違っていない。それなのに白日の下、岩は平らな面を上に向け、焼かれるがままになっている。イアンの心はまた波打ち始めた。


「着替え、着替え! ない!?」

「風かとんびのしわざか。物盗りか」

「こんな格好じゃ、恥ずかしいし、寒いじゃないか!」

「されば、今は何日か? 海に入りしより、相当月日の過ぎたる可能性もあり」


 羽衣伝説の天女のごとく恥じらうイアンと違い、太郎は落ち着き払っている。


「ひとまず里へ帰るなり。旅の疲れを癒しし後、ミカエラ殿や河童のエカシに知らせむぞ」


 太郎は水中着を脱いで、天狗の姿に戻った。黒い翼を羽ばたかせると、瘴気が漂う。


「では、参るぞ」

「風邪を引いたら、どうする?」

「馬鹿は風邪を引かぬ」


 最近の太郎といったら、まったく遠慮しないのである。ずけずけ言われるイアンのほうも、それでいいと思っていた。言われたら、言い返せばいい。


「言ったな? 不感症め!」

「イアンは早打ち名人なり」

「堅物君は一生女を抱かずに終える」

「女に振り回さるるは哀れなり」

「人生、彩りが必要だ」

「欲は際限なし」

「欲がなければ、生きられない」

「自ら添えものとなるまじく……」


 こんな調子で言い合っていたら、里に着いた。

 空の旅は思っていたほど寒くなかった。例によって抱かれていたので、羽毛に守られていたのだ。気温も出立前より高い。


 ──蒸し蒸しして、春にしては暑いな


 ツリーハウスから見下ろした麓に枯れた紫陽花が何株か見えて、変な気持ちがした。これから先、良からぬことが起こりそうな、不吉の前兆に思えたのである。




 しかし、小さな違和感など熱い湯に浸かれば、どこかへ行ってしまう。風呂のあと、イアンは供物の酒を寄こせと太郎に要求するつもりで、大樹の幹に巡らされた回廊というか、バルコニーを闊歩した。

 いやに静かだ。

 いつもだったら、天狗たちが「イアンだ、イアンだ!」と騒ぎ立て、構ってくれる。イアンはどこにいても人気者だ。今日は誰も出てこない。相手をしてくれるのは、葉の間から差し込む夕日ぐらいのものである。


 ──このイアン様が来ているというのに、天狗どもはどこへ行ったのだ?


 それでも、与えられた一間に着いて太郎の顔を見るまでは呑気に構えていた。

 鷲顔やきちんとした居住まいはいつもと同じだ。ただ、猛禽の目は笑みを含まず、憂いを帯びていた。


「何かあったのか?」


 太郎は首を縦に振り、イアンの浴衣を直し始めた。


「さよう。今は百日紅(さるすべり)の月なり」

「さ、さるすべりぃ!? ほんとかよ!? あれから三ヶ月も経ってるのか??」


 ほんの数日のつもりだった。海と陸では時間の進み方が違うというのは、本当の話だったのだ。


「クソッ……エゼキエルに捕らえられたディアナ様は無事だろうか? シーマが政権を取ってから、そんなに経っているということは、みんなのことも心配だよ」

「国内の状況は、いまだ見定めたらず。今対面したる憂いは、我事なる」

「どういうことだ?」

「以前、掟破りの話をしたであろう? 破門は免れたが、謹慎を言いつけられた」


 イアンが風呂で旅の疲れを流している間、太郎は長老に報告し、大叱責を受けたのだという。天狗の里では、よその神獣を攻撃することは固く禁じられている。しかも、命まで奪ってしまった。


「ゆえにここからの旅は同行叶わず。イアン一人でなんとかせねばならん」


 いっそのこと、懸念していたとおり、追放されればよかったのにと、イアンは思った。そうすれば、太郎と旅を続けられるし、サウルの下で一緒に過ごせる。


 ──俺だったら、長老と大喧嘩して里を飛び出すのになぁ


 しがらみから抜け出られない太郎がもどかしく、悲しそうな猛禽の目のせいで、やるせない気持ちになった。


「心配すんなって! もともと俺が始めたことだし、一人でも大丈夫だって!」

「おぼつかなし」

「全然ヘーキ!! おまえには関係ないことだったしな! 無理に遊びの延長を続ける必要もねぇよ」

「それが……無関係というわけでもないのだ」


 太郎は言い淀んだ。ごまかすようにイアンの浴衣の衿を直し、羽織りを背中に被せる。

 太郎の着付けは従者や使用人のそれとは違う。指先に情が込められているのだ。触れられたイアンの体は温かくなり、心が安らかになる。

 しかしながら、鱗に覆われ、鋭い鉤爪の付いた猛禽の手が離れると、待っていたのは厳しい現実だった。


「ならば、話さん。繰り返せど、エゼキエルの件は天狗と無関係なる物語にもあらぬなり。まず、蓬莱山の天狗の起源より、説明せねばなるまじな? 長くなれば、姿勢正し、心して聞くべし」


 イアンは正座をさせられ、太郎と向き合った。着付けてくれた時とは打って変わり、甘えを許さない厳粛な空気となる。

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