73話 薔薇の城(サチ視点)
シャルドン領シーラズからローズ城までは、虫食い穴を使えば数時間で着く。
馬は途中で乗り捨てた。ここはシーラズの湖を囲む山の中腹だ。木々に遮られ、星の光さえ届かない暗闇をサチは走った。
いくら走っても息は切れない。今なら馬より早く走れる気がした。馬も松明も、もう必要ないかもしれない。そういえば、だいぶまえから暗闇が平気だった。
真っ暗な獣道を走っていると、自分の体が自分のものでないような奇妙な感覚に襲われた。獣の体に意識だけが乗り移っているかのような、誰かに体を動かされているかのような……
──人間じゃないから、なんなんだ? 貴族じゃないから今まで見下され、虐げられてきた。それと同じだ。この能力は最大限に利用してやる。必ずシーマを倒してイアンを王にする。誰にも邪魔はさせない
最悪な一日だったとしても、まだ生きている。マリィだって死ななかった。やはり、悪運は人一倍強い。
つる植物が繁茂し、注意深く観察しないと見落としてしまうほど、わかりにくい場所にその洞窟はあった。機械兵士が侵攻するまえは、ローズの兵が守っていたのだろうが、今は誰もいなかった。
奥の行き止まりまでサチは進んだ。忘れ去られた場所には、虹色の粒子が背丈と同じ高さの輪を作っている。これが亜空間への入口。のぞき込んだ先に果てしない光の渦が続いている。
虫食い穴はローズ城近くの森につながっていた。
イアンは城にたどり着いただろうか。城の人質たちは無事だろうか?
サチは不安を頭から追い払い、光の渦に足を踏み入れた。
フワッと浮く感覚があり、一歩踏み出せば重力をなくす。目に入るのは淡い虹色だけだ。ニ、三歩空を蹴るようにして歩き、四歩目で固い地面に足が吸いつくのを感じた。
光は消え、サチは森の中にいた。首を後ろに回し、大木のうろに虫食い穴が渦巻いているのを確認する。ローズに着いたのだ。
うろから外へ出ると、岩塊と見紛うぐらい大きな熊が唸っていた。目を爛々とさせ、よだれを垂らし、こちらを狙っている。
繁殖期なので山から下りて来たのだろう。サチは恐ろしいとも思わなかった。
「去れ」
視線を向けたとたんに、熊は身をちぢこまらせ後ろを向いた。そして一目散に逃げ去ってしまった。
自分より強い獣だと本能的に察したのだろう。サチは肩を怒らせ、先を急いだ。
ローズ城は四方を深い森に囲まれているため、よそ者はたいてい迷子になる。
領土の八割が森。しかも背の高い針葉樹が多い。薄暗くジメジメしていると他国の人間は言うのだが、サチは存外気に入っていた。
森特有のヒンヤリした空気や小動物の気配、養分を含んだ土の匂い、小川のせせらぎ、木々の間を抜ける風……
森を構成する要素の一つ一つが懐かしく尊かった。
数百キュビット先に水の流れる音がする。サチは生い茂る木々をくぐり抜け音の元へと向かった。
小川は月明かりを反射し、輝いていた。
喉が渇いている。サチは流れる水に直接口をつけ、がぶ飲みした。濡れることも厭わずに喉を鳴らす。
──まるで獣だ
顔を上げ、欠けた月が見下ろしているのに気づいた。なんだか急に悲しくなった。
どうして、こんなにも苦しめられないといけないのか。どれもこれも理不尽な理由だ。八年前、祖父母が亡くなってからずっとだ。
いい子だった。祖父母だけでなく、使用人たちにも、かわいがられた。学校ではだいたいに好かれた。素直でおおらか、好奇心旺盛で……恵まれていた。
サチは飲むのをやめ、近くの木にもたれた。大木の香りには覚えがある。
──楠か……
幼いころ、住んでいた屋敷の庭にも同じ木があった。この芳香は嫌いじゃない。サチは木と向かい合い、木肌を優しくなでた。
幹に文字が刻まれている。そっとなぞってみた。
「……キャンフィ……イアン……」
ああ、これはイアンが彫ったものだ。キャンフィというのは取次役の兵士……心を失った娘……
幼い二人は将来を約束して、ここに名前を刻んだのだ。無邪気な恋人たちが木のそばで幸せそうに佇んでいる。そんな情景が瞼の裏に映った。
──早くイアンのもとへ行かなくては……
サチは木から離れた。見てはいけないものを見た。
森を駆け抜け、静かな城下町を走り抜ける。走ることで先ほどの情景を消し去ることができたなら……
深夜に町をうろつくのは野犬かごろつきしかいない。
何かに当たりそうだったり、誰かの真横を通り過ぎたが、呼び止められたり捕まえられることはなかった。
魔人の能力か。高速で走っていた。時速どれくらいかはわからない。だが、全力疾走する馬より速いのは確かだ。
月が頭上高く昇る深夜、サチはローズ城に到着した。大陸北部の八割を支配するローズ家の城は、丘の上に立っている。茨で覆われる高い城壁は、誰をも寄せつけぬ凛とした強さを感じさせた。
最後にサチがここを出たのは十日以上前だ。シーラズ城を包囲するための兵を集めようと、内海の虫食い穴を経由してここに来た。その時、イアンの母のマリア・ローズが残した遺書をカオルから預かったのだ。
始まりは一ヶ月前。呑気に領内の調査をしていたところ、マリアに呼び出された。そこで初めて謀反のことを知らされたのである。
厳めしい表情をしたイアンの老母の顔が脳裏に浮かび上がる。何年も昔のことのように思われた。
あれから手入れされていないのか、茨は伸び放題だ。早咲きの白い薔薇が咲き始めていた。
月に照らされた薔薇はビーズみたいな夜露を光らせている。その様子は、とてもきらびやかなのに儚げで物悲しかった。




