72話 復活(サチ視点)
ここからの舞台は壁の向こう、主国へ移ります。視点はサチ・ジーンニア。
(あらすじ 主国)
時間の壁が出現するのと時を同じくして、ユゼフの従兄弟イアン・ローズが謀反を企てる。
イアンはまず、ヴァルタンの瀝青城に集まった王子たちを倒した。その後、王城を占拠。国王を匿ったシーマ対イアンの構図ができあがった。
王城をシーマの軍に囲まれたイアンは身動きできず、ユゼフの親友のサチ・ジーンニアに助けを求める。サチは内海を防衛するリンドバーグを調略し、シーマのシーラズ城を包囲するまでに至った。
しかし、グリンデルからの援軍により情勢はひっくり返る。
シーラズ城の包囲を解き、イアンの軍は王城にてふたたび籠城することになる。イアンはローズ城へ向かい、カオルに王城を任せた。
一方のサチはシーラズの城下町にいる妹の所へ行くが、暴漢に襲われてしまう。
人物相関図↓
(サチ)
叫び声と同時にサチは目を覚ました。水溜まりに仰向けで寝ている。
赤い……。
水溜まりではなく、血溜まりだ。人間一人からここまで出血するのかってぐらい、大きな血溜まりにどっぷりと浸かっていた。
意識が戻ってくるにつれて、生臭い鉄の匂いが鼻をつく。不思議と不快ではなかった。
起き上がると、恐怖の眼差しを向けるメラク神父と目が合った。彼の足元には白い顔をしたマリィが横たわっている。
「マリィ!」
サチは立ち上がってマリィに駆け寄ろうとした。
「待て! 正気に戻ったのか!?」
メラク神父が立ちはだかる。その時、サチは赤く濡れた自分の手に気づいた。穢れていない手の甲で顔を触ると、口の回りがべとべとしている。
傍にあるのは、無残に損壊された死体が二体。獣に腸を食い荒らされたように見える。近くに牛角の兜。片方の遺体は顔の半分を食われていたが、残った瞼には傷がある。
それで、彼らが自分を殺そうとした暴漢だとわかった。
──突然、熊か虎でも襲ってきたのだろうか……?
「……先生、何があったか教えてください。この者たちはどうして……」
サチとメラク神父以外に気配はない。獣は近くにいないようだ。
マリィの前から動かないメラク神父は、サチを疑い深く睨め回した。
「正気には戻ったようだが……何も覚えてないのか?」
サチは頭を振って、一歩歩み寄った。
「近づくな!」
強い口調でメラク神父が怒鳴った。いやに高圧的だ。神父の態度にサチはひるんだ。優等生のサチが叱られたことは、一度だってない。
「……なんで、ですか?」
「そこに倒れている者たち……それはすべて君がやったのだ」
「!?」
「君は人間ではない。君は暴漢たちを素手で引き裂き、食ったのだ」
「何を言って……そんなはず……恐ろしさのあまり、幻でも見たのではないですか?」
「幻ではない! その証拠に君は胸を二度も刺されたのに、なんともないではないか?」
サチは前と後ろから胸を刺されたのだった。たしか急所は、かろうじて外れていたが……
胸の傷口は二つとも塞がっていた。
「君は亜人……いや、亜人でもあのような力は持たない。魔人?……化物だ」
「落ち着いてください。先生は恐怖でちょっとおかしくなってる! そんなこと、あり得るはずが……」
「近づくな! マリィには指一本触れさせない!」
「いい加減にしてください! 気を失って、夢でも見てたんですよ」
サチはメラク神父の異常な言動にイライラしてきた。緊急時というのに、余迷い事を言うにもほどがある。ズカズカと近寄り、神父の前に立った。
「そこをどいてください! マリィは無事なんですか?」
どこうとしなかったので、サチは軽く彼の体を押してみた。ほんのちょっと力を入れただけだ。メラク神父は大柄だからビクともしない……はずだった。
だが、神父は跳ね飛ばされ、数キュビット※離れた壁に叩きつけられた。
サチは目を疑った。血まみれの自分の手を見ても、いつも通りだ。
──何が起こったんだ?
自分にそんな力はあるわけがない。恩師が狂って自演したとしか思えなかった。
「先生、大丈夫ですか?」
声をかけても、メラク神父は呻いただけだった。悪いとは思いつつ、サチはマリィの状態を確認した。
顔面蒼白のマリィは呼吸をしていなかった。すぐに手当てをしなかったせいか。それとも、冷え切った教会の空気が悪かったのか。サチは震える手を妹の細い手首にあてた。
「どうしよう? 脈が止まってる……」
とっさに体が動く。学匠になりたかったから、医療の知識は多少持っている。
サチはマリィの唇に口をつけて息を吹き込んだ。それから、裂かれて、はだけたままになっていた胸を押し、同じ動作を交互に繰り返した。
──嘘だろ? マリィが……
サチは医学書に書かれたあった心肺蘇生法を試した。マリィはグニャリと身体を弛緩させ、ただの肉塊になっている。
まだ温かいのに……
触れる唇も胸も温もりを失わず、柔らかかった。
──まだ、生きてる。マリィはまだ……
救命措置を止めれば、彼女が冷たくなってしまう気がして何度も何度も、サチは呼気を吹き込み続けた。
しかし、彼女の身体は完全に止まっていた。
「血を与えろ」
不意に後ろから呼びかけられた。メラク神父だ。
「何を?」
「ならず者を喰らったあと、君は私たちを襲おうとしてやめた。そして、こう言ったのだ。“娘を救いたければ、余の血を与えよ”と……血を与えれば、マリィは息を吹き返すかもしれない」
サチは数秒だけ思考を止めた。今は亜人やら魔人やらはどうでもいい。
言われるままにダガーで手首を切った。マリィを助けるにはどうすればいいのか? 他に何も方法を思いつかなかったのである。
ほとばしる血潮は真っ赤で、人である証明に思えた。
──先生は頭がおかしくなってる
サチは滴る血をマリィの口元に垂らした。血はマリィの唇を濡らし、口から溢れる。溢れた血はうなじを伝い、ブラウスに薔薇の形の染みを作った。
──何をやってるんだ、俺は? こんなこと、意味ないのに……
今までのことの全部が間違いだった。祖父母を亡くしたあと、父親のもとへ行くべきではなかった。学校も無理して通う必要はなかった。意地を張らず素直に働けばよかったのだ。
イアンなんかに恩義を感じて手助けする必要もなかった。
シーマを追い詰めなければよかった……そうすれば、マリィは死なずに済んだのに……
流れ落ちる血と一緒に自分が失われていくような気がする。サチは目を閉じた。
体の熱は奪われていくのに目の奥はカッと熱くなって、胸が苦しくなる。握った拳まで冷たくなっていく。どんなに心が強くても、耐えられないことだってあるのだ。もう限界だと思った時──
下から咳き込む音が聞こえた。
「マリィが息を!」
メラク神父が知らせた。サチは慌ててマリィを横向きにした。
何回か肩を上下させ、マリィの呼気に濁音は混ざらなくなった。のぞきこむと、彼女は目をしっかり開け、サチに視線を返してくれる。
「マリィ、気づいたのか? 俺がわかるか?」
「……お兄ちゃん」
頬に色味が戻っている。サチは赤く染まったマリィの口をヨレヨレのハンカチで拭った。
「お兄ちゃん、あたし、生きてる……ありがとう」
背後でメラク神父が鼻をすする音が聞こえた。
※※※※※※※
教会の屋根裏からサチはシーラズ城の惨憺たる光景を目撃した。
城の周りには、反乱軍の兵士と思われる黒い焼死体が山と積まれていた。死体を外側から囲み、動力切れで動かなくなった機械兵士がゴミのように転がっている。城を彩っていた菜の花は黒い灰となっていた。
散らばる機械兵士を見るに、彼らの動力が通常より早く切れていることがわかる。時間の壁を通って来たことが関係しているのかもしれない。これで戦況は変化する。
死にかかったマリィのそばを離れたくなかったが、サチは自らが魔人だという現実を受け入れるのが怖かった。
腸を食い荒らされた死体。軽く力を入れただけなのに吹き飛ばされたメラク神父。塞がっている刺し傷。血を飲んで蘇ったマリィ……それらすべての出来事から目を逸らし逃げたかった。
人間を食った獣が自分の中にいる。おぞましい怪物がマリィの近くにいるのは、許されない気もした。
「兆候はあったのか?」
着替えのため、マリィが奥へ行っている間に神父は尋ねた。着替えや荷物は勤務先の商家へ取りに行ったのだ。サチ自身は教会にあった修道士のローブに着替えている。
「いえ……何も……」
「普通は何か兆候があるものだが……突然、覚醒というのは……」
ピンチの際に火事場の馬鹿力を出したことはある。
王城にイアンと攻め入り、宰相クレマンティ率いる騎士と戦った時だ。あの奇跡は、魔人の力によるものだったのだろうか。
「ああ、折れた歯が二本ほど生えてきました。過剰歯なのかと思ってましたが……それと、傷の治りは普通より早いです」
「その程度か……何か特殊な能力は?」
「さあ……身長も高くないし、運動能力は平均以下です。剣も苦手だし……」
「体の変異は?」
「今のところ、ありません」
「……そうか。これを持って行け」
メラク神父は懐から聖水を出した。
「体に異変が現れた場合は飲むといい。多少は抑えられる」
数時間後、サチはマリィとメラク神父と共に教会をあとにした。憔悴していても、マリィのケガは完全に治癒している。
メラク神父は内海の親戚のもとへマリィを連れて行くと、約束してくれた。
サチは二人と別れ、イアンのいるローズ城へ向かった。
※一キュビット……五十センチ




