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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第四部 イアン・ローズ冒険譚(後編)三章 イアン
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59話 大地の舞い

 人魚の名はシレーネと言った。

 三百年前、サウルを海の王のもとへ連れて行ったのだという。


「海の国は地上とは時の流れが違うからね。こっちの三年が地上の三百年くらいかな?」

「ゲッ……三年だと!?」

「うん、気をつけたほうがいいよ」

「じゃあ、一年半前に俺たちと会ったのは、一週間前ってことか?」

「もっと短い気もする。そもそも、一日という概念がないんだ」


 イアンは海中散歩を楽しみつつ、これまでの経緯を話した。

 あちこち脱線して、関係ない話までしてしまうのはいつものことだ。これでも、だいぶ説明がうまくなった。何度も話しているから喜怒哀楽を盛り込み、相手の感情をかき立てる話し方ができるようになった。話師になれるかもしれないと思うのは、自信過剰だろうが。


 会話中、イソギンチャクに指を突っ込んで食われそうになったり、きれいな貝の毒針に刺されそうになったりとアクシデントが絶えなかった。花を咲かせるナメクジの名が、ウミウシというのを教えてもらえたのは良しとしよう。

 シレーネはイアンの話を喜んでくれた。


「へぇー!! サウル様の騎士になりたいのか! 素晴らしい目標だな! サウル様はこちらに来られないのか? お会いしたい」

「会ったら、君のことを伝えておくよ。けど、前世の記憶はまだ甦ってないようなんだ」


 シレーネは肩を落とした。深い嘆息は海水を重くし、辺りを薄暗くする。気まずくなったイアンは彼女の黒髪に飾られた二枚貝のひだを数えた。この様子だと、サウルとただならぬ関係だった可能性も考えられる。


「ひょっとして、君とサウルって……」

「あたしはサウル様の愛人だよ」


 やっぱり……。お堅いサチも前世では放埒に生きていたらしい。アニュラス人だ。


「サウル様はね、ご自身の肉体を魚と同じように変化させることができた。エゼキエルを倒すことを条件に、海の王様から権能を授かったんだよ」

「その権能でエゼキエルを倒したのか?」

「ああ、授かったのは天の権能だ。だから、今の三叉の矛には海と大地の権能しかないのさ」


 なんとなく、聞いたことがあるような、ないような……。乳母が話してくれた寝物語のなかにサウルの伝説があったと思う。イアンはあまり覚えていなかった。


「王はサウル様から権能を返してもらっていない。だから、交渉は難しいと思うよ。青角髪(あおみずら)の姫の文があってもな?」

「ダメだったら、竜だけ倒して宝珠をゲットする」

「おもしれぇなぁ。おまえのその自信、どこから来るんだろう?」

「オロチを倒したんだから、竜ごときイケるって!」

「じゃあ、試させてもらおうか?」


 人魚は離れ、手刀を構えた。戦うということか? イアンはシレーネの構えを真似した。


「プッ……なにその構え?」

「なめんなよ? 俺は体術も得意……」


 言い終わるまえに強烈な一撃がみぞおちに入った。掌底打ちだ。イアンは胴体を分断されたかと思った。

 シレーネの攻撃は留まることを知らない。反対側の手で脇腹を殴ってくる。さらに、前のめりになったイアンの背部に手刀を入れてきた。脾臓打ち……


「ぐはっ……」


 連続して腹の弱い部分を強打され、あまりの痛さに視界がチカチカ点滅する。少年時代、拳闘などで遊んだ覚えがあるが、イアンは常に殴る側で殴られるのには慣れていなかった。パンチングバッグとなるのは、いつもユゼフ。現在の状況はユゼフに呪われているかのようである。太郎の言っていた因果応報という言葉が脳裏をかすめた。


 だが、戦闘本能は唐突に目覚める。痛みを感じて身を縮こまらせるというごく普通の生理的反応を、獣性が上回った。

 迫ってくる次なる打撃、膝蹴りならぬ(ひれ)打ちを()け反ってよける。よけると攻撃はセットだ。刹那、イアンはシレーネの胸骨に掌打を入れた。

 吹っ飛ばすことまで考えていなかった。シレーネは勢いよく海藻の茂みに突っ込んでいった。


「悪いっ! つい!」


 本気というほどでもない。反射的に手が出てしまった。

 走り寄って助け起こしたところ、シレーネの意識はなく白目を剥いていた。放っておいたら、間違いなく死ぬやつだ。イアンは自身の指を岩で裂いた。

 鮮血、漂う霧のごとし。命の水は澄んだ海水を淀ませ、人魚の皮膚に被さった。病的な白い肌に紅が差し、逝きかけた魂を引き戻す。血霧を吸い込んだシレーネは回復し、目をパチクリさせた。


「これ? おまえの血か??」


 イアンの指から流れる赤い帯を見て、吃驚する。見られたのを恥じるかのように、血は止まった。


「すごいな! 人魚の血肉並みの効能だ!」

「これは内緒な? あんまり、ベラベラ話すもんじゃないと、連れに言われてるんでな?」

「さっき一緒にいた男か?」


 そう、イアンのことを一番よくわかってくれる最高の相棒だ。海岸で待たせている。

 足元に描かれる光のまばら模様が薄くなっているのを見て、イアンは思い出した。


「どうしよう! 戻らなきゃ! 太郎のことをすっかり忘れていた!」


 海と陸では時間の進み具合がちがう。そのとおりだった。

 水に入るまえ、東にあった赤い太陽が西にある。水面に上がったイアンは、シレーネに連れられ波打ち際まで泳いだ。手を引っ張られるのには理由がある。イアンの体が浮力に反して沈んでしまうため、泳げる彼女が牽引せねばならぬのだ。


 なんとか、日が沈むまでには元いた浜にたどり着いた。

 太郎は腕組みして待っていた。逆光だと、彫像に見える。


「ごめん、太郎! 海の中と陸とでは時の進み方が違っていて……」

「幾度目か?」

「あ……すみません」


 人間の顔で鳥の時と同じ表情をされると、恐縮してしまう。イアンはうなだれた。


「おぬしときたら、ホウセンカの実のごとく飛び出してどこかへ行ってしまうのだからな? 始末におえん」

「自分でもわかってるんだけど、制御が利かなくて……」

「その都度、反省しても、すぐにまたやらかす」

「ごめんなさい……」

「ごめんでは済まされぬ」


 これまでになく、太郎が怒っている。イアンは焦った。


「もう、我は降ろさせてもらう」

「そんなこと、言わないでくれよ?」

「では、どう埋め合わせをするつもりか?」

「どうって……」


 ここまできて、イアンは太郎の口の端がピクピク震えているのに気づいた。黒い瞳は笑っている。


 ──はめやがったな?


「背負いし正宗を抜け! そして舞え!」


 水中着で舞えというのか。お望みどおりに、やってやろうじゃないかとイアンは思った。

 太郎を見据え、正眼に構える。太郎もにらみ返してきた。イアンたちの関係性を知らぬシレーネは一触即発と思ったのか。困っているのが息遣いでわかる。


 鋭い切っ先は太郎の首に合わせている。瞬きを合図にひゅんと空を切った。目と鼻の先で受ける太郎は頬を緩め、下がって斬り上げる。斬るのは肉ではなく静寂。銀の腹は夕陽を受け、軽やかに舞う。カチンカチン……小気味よく刃をかち合わせて、リズムを作る。手拍子がほしいところだ。足踏みで代用する。ダダダッダン!……といきたいところだが、濡れた砂に裸足では、ペタンペタンと間の抜けた音になってしまう。

 ……気を取り直して、イアンは刀をクルリクルリ翻らせる。太郎も同様の動きをした。

 水面下の魚たちも波に揺られ、消えゆく残光を照り返しているのだろう。これは大地が奏でる音楽だ。


 シレーネも戯れだと感づき、手拍子を始めた。打ち寄せる波が舞いを引き立てる。海岸という舞台にて、消えゆく火輪が地平線を真っ赤に燃え上がらせていた。伸びる影は神の遊び心か。他に演出は不要だ。美織のように複数の目を持っていなくても、イアンには自分と太郎の絡まり合う影が見えた。呼気と拍動、動作はすべて連動している。動きを写し取る太郎に心を読まれている気もする。いや、交わる目線は唇より雄弁だ。

 踵を跳ね上げ、飛び上がる動作は四股踏みと同じ。飛び散る砂は鈴の音だ。地面を踏み鳴らすたび、イアンの頭の中では太鼓が鳴り響いた。ドン、ドドン! 飛沫は火花と同じ。水面下では水泡となるのだろう。


 一番星が輝きを増したころ、イアンと太郎はピタリ、止まった。藍色の空はユゼフの瞳に似ている。憂いに深く沈んだ空は闇の訪れを待つ。

 波打ち際の観客席から拍手が上がった。


「すごい!! 格好いいな、おまえたち!!」


 シレーネは尾鰭をビタン、ビタンと浜に打ち付け、感動を表現した。

 太郎の眼光は和らぎ、照れ笑いになった。イアンも照れて正宗を納刀する。風が吹いてきて少々寒い。完全に日が暮れてしまった。イアンがくしゃみをすると、太郎は澄まし顔に戻った。


「……で、話はついたのか? 我にできることはあるか?」

 イアンは目を弓なりにして答える。シレーネがあとを継いだ。


「今から案内しよう。決められた通り道を行かないと、水圧で押し潰されるよ」


 これで海の国へ行ける。第一関門クリアー。

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