57話 デート
街とは違い、道は舗装されていない。木が伐られているだけで、場所によっては草が生え放題だ。
河童たちの姿が見えないところまで来て、イアンは美織の草履に気づいた。
二本足に慣れていないうえ、街歩き用の草履ではかわいそうだ。せっかくのきれいな足を傷つけてしまう。
この場合、着物の裾が捲れないように横向きで抱っこしてやるべきか、背中におぶさってもらうべきか……
イアンはカエル座りし、背を美織に向けた。山歩きで前に抱っこするわけにはいかない。
──あーあ、せっかくのデートなのに美織の顔が見えない。従者として、河童を一匹くらい連れて来るべきだったか
だが、首に美織の細い腕が巻き付くのはよい。背中に感じる胸の感触も最高だ。河童にはこの喜びを取られたくない。
「どうしたのじゃ、イアン? 今日は寡黙じゃな?」
美織が話すと、うなじに生温かい息が吹き付けられ、ゾクゾクした。
「どこへ行こうか、考えてるんだよ。俺は蓬莱山には疎いからな」
本当は緊張しているからなのだが、行く場所がないのも事実だ。太郎か他の天狗に、実浮城へ連れて行ってもらったほうが良かったかもしれない。異形しか使わない山道は、デートに適していない。
──困ったな……。麓の湖でボートに乗るぐらいしか、やることがないぞ? 食事をするにしても、岳の家じゃ粗末なものしか出されないだろうし……
美織を楽しませるにはどうすればいいか、イアンは頭を悩ませた。すると、
「蓬莱山は妾の領域。妾が案内しようぞ」
言うなり、美織は「キュッキュッキュッ」と小鳥みたいな鳴き声をあげた。
「今の音は美織が?」
「さよう。じきに、しもべが集まってくる」
「しもべ?」
しもべというのは、もちろん異形なのだろう。集まってくるということは複数?? 異形が!?……イアンがそこまで考えた時、日が隠れた。
キィィィン……キィィィィン……奇妙な音がする。獣の鳴き声にしては硬質だし、金属をこすり合わせたにしては、よく伸びる音だ。音をきっかけに、空間がセピアに塗りつぶされる。
イアンは赤毛を逆立てた。
──来る!!
ザワザワッと木の葉が騒がしくなり、黒風が吹き付けてくる。赤い夏落ち葉が舞い、ほんのり楠の芳香が漂った。枝々を飛び移りながら、やってくる黒い影が見える。
猿か? いや、猿にしてはたくましい。腹に見える模様は虎か。
イアンの視力でなければ、風と共に現れ、一瞬で馳せ参じたに思えただろう。目の前にいるのは、猿の顔をした虎であった。尾の代わりに蛇がうねっている。
──どこかで見たような……
イアンの記憶は次に登場した山の精によって、つながった。全裸の美少女も木から木へ移動するやり方で向かってきた。美少女が飛び移った木の緑は濃くなり、ところどころ紅葉していた楠に白い花を咲かせる。
──以前、黒旋風殺斬撃でバラバラにした山の精じゃないか!!
あの時、太郎が来てくれて、イアンの血で回復させたのだった。殺されかかったのだし、正当防衛だったと思っている。
美織が背中から降りたので、イアンは柄を握った。緊張が走る。
「あら? いつかの天狗じゃない?」
「服くらい着ろ! 化け物め!」
肌の白さは美織に負けず劣らず。見た目は素晴らしいのだが、イアンとこの女には因縁がある。山の精は不満そうに小ぶりな唇を尖らせた。
「今日は口説いてこないんだ……」
美織の前でなんてことを言うのだ……。美織の耳はピクピク動いている。イアン、ピンチ……
「別に口説いてねぇーし!! 勘違いするなよ? 困ってそうだったから、声をかけただけだよ!」
「プフッ……なに、赤くなってんの? 土蜘蛛様、なんでこの赤毛猿と一緒にいるんですか?」
「イアンは妾の夫じゃ。その口ぶりだと、そなたに色目を使ってきたのか?」
「そんなとこです。喰ってやろうとしたら、返り討ちにされました」
「当然じゃ。されど、夫が迷惑をかけて、すまなかった」
黒瑪瑙の目は爛々と輝いている。イアンは身震いした。足下から頭頂にかけて、悪寒が走り抜けていく。
アスターの命で王都を出たのが昨年の椿の月。北部では雪が積もっていた。あれから半年。グリンデルでレジスタンスとやりあったり、魔界、魔国と転々としたが、これまでにない危機かもしれない。本物の悪魔やら魔王など、かわいいものだ。
今、イアンは最強レベルの異形、三頭に囲まれている状況である。しかも、その頭領たる美織を怒らせている。正面にある目が美少女のほうを向いていても、こめかみに並ぶ目はイアンのことをにらんでいるに違いない。そんな気がする。
──くっ……三対一かよ。一対一でも厳しい連中が三倍とか、絶対にムリだろ?
太郎、助けてくれ──念じてみる。残念ながら、上空を通り過ぎるのは山鴉ばかりだ。とうとう隠し奥義“DOGEZA”を出す時が来たか……。プライドも何もかも投げ打って、文句のつけようがない完璧な姿勢で頭を沈めるのだ──
「ところでレン、夫は近いうちに旅立つのじゃが、出立前に妾と逢瀬を楽しみたいと申してな? 物見遊山にちょうどよい戯れはなかろうか?」
危機一髪……
イアンがまさに膝を折ろうとしている瞬間、美織は顔色一つ変えず、話題を変えた。
失態をスルーしてくれた? それとも、あとで怒られるのか……? ビクビクするイアンをよそに、美織はデートプランを練ってくれている。
山の精、レンは首をかしげて考えた。
「釣り……なんかはどうでしょう? 麓の湖ではマスやイワナが釣れます。まだ暑さも上り途中ですし、魚も深くは潜ってないでしょう」
「さようか……イアン、いかがいたす?」
「釣りか!! 楽しそうだな!」
イアンは大げさにはしゃいだ。美織の意識を先ほどの話題から遠ざけたい。それにしても、釣りとは盲点だった。恋人同士で楽しむのには最適なスポーツだ。澄んだ湖上でボートに二人きり。それだけで余計な演出はいらない。
「昼飯は釣った魚だな?」
「炭火で焼こうぞ」
美織は握る手にギュッと力を入れる。爪が食い込んで痛いのは気のせいだろう。気のせいに決まっている。慎ましやかな美織に限って、些細なことに嫉妬の炎を燃やすなんてことはない。しかし、痕が付くぐらいには痛かった。
レンは美織には従順だった。
「かしこまりました。では、仕掛けはこちらで用意しますので、鵺に乗ってごゆるりと麓までお越しくださいませ。野薔薇が見頃を迎えております。木苺やグミ、山桃も食べ頃ですよ」
美少女が薫風を起こし、姿を消したあと、道が明るくなった。小さな精霊たちが尖った木の枝や背の高い青草を除けてくれる。
イアンと美織は鵺と呼ばれる虎もどきにまたがった。美織は着物姿なので、足が丸見えになる。彼女の細い腰に腕を巻きつけ、イアンの心拍は速くなった。高身長のイアンの足がかろうじて地面につかないのだから、鵺の体高はかなりある。
鵺が駆けると、精霊たちが歌い始めた。葉擦れのように優しい高音。さらさらと落ちてくる木漏れ日が、地面と幹にまばら模様を作る。不安定なそれらは先を走っているかと思えば、追いかけてもくる。風も光も精霊たちの歌に合わせているのだ。あるものすべてが調和し、山は作られている。
やがて、野薔薇が咲き乱れる森に着き、鵺は速度を緩めた。
人間の造り出す庭園とはちがう。野趣に富んだ美には目を見張るものがあった。彼らは自らの意思で、ここに咲きたくて美をさらしているのである。見られるために作り出されたのではなく、本能のままに存在する。汚れなき純白が発する香りは甘く、爽やかだった。
一輪取ってやろうとしてイアンは指を棘に刺された。横から伸びるしなやかな手につかまれ、血濡れた指は美織の舌に癒される。
木苺の木を見つけ、鵺が止まったのでイアンと美織は散策を楽しむことにした。女の子は甘くて酸っぱいものが大好きだ。
何年も城暮らしをしていたイアンは砂糖の甘みに慣らされている。花由来の甘みは新鮮であり懐かしくもあった。ここに一人でいたのなら、一つ二つ摘まむ程度で終わったかもしれないし、飢えた小鳥となって一株丸はげにしたかもしれなかった。正直、木苺が甘かろうが苦かろうが、たいした問題ではなかった。感覚を刺激するのは、彼女に関する事柄だ。赤く染まった指先をなめる恋人の愛らしきこと。味は舌だけでなく、目でも感じ取れるものである。
食べたり、食べさせられたりするのに飽きると、アケビの葉を摘んでイアンは口に当てた。にぎやかな森を鎮まらせるのは放屁に似た音だ。精霊たちの歌声と比べて、滑稽な草笛に美織は笑った。イアンは音程の外れた恋歌を奏でる。草笛を最初に思いついた人間は、どれだけ暇だったのだろうと思う。陳腐でくだらない、役に立たない、馬鹿らしい……でも、それがたまらなく愛おしい。
恋歌の最後、イアンは木苺の味がする唇を奪った。
†† †† ††
夕刻をだいぶ過ぎてしまった。洞窟に着いたころには鳥の鳴き声は聞こえなくなり、チチチチとか、ジィージィー……と、ときおり聞こえるだけになった。
洞窟の入口でイアンは別れを惜しんでいた。このまま数日、美織の所に泊まりたい。
黒い翼が星空を隠し、よく知った瘴気が降りてきて、ようやく現実に引き戻された。
「いったい、どこにおったのだ? 夕刻になっても現れぬから、心配して探していたのだぞ?」
「ごめん。ごめん」
黒い羽根を舞わせ、着地する太郎はご機嫌斜めだ。
「着物が乱れておる。直さなくては……」
「あっ、美織のほうを先に直してくれ」
「まったく、だらしない格好をして……無防備にもほどがある」
美織はもう帰るからと、襟を合わせてごまかした。ブツブツつぶやきながら、着付けを気にする太郎は、泥んこ遊びから帰ってきた子供を叱る母親のようである。イアンは、すっかり夢物語から覚めてしまった。
「楽しかったんだから、しょうがないだろ」
「山からは離れなかったのか?」
「うん、ずっと麓の湖で釣りをしていたよ。でっかいニジマスを釣ったんだ」
「ニジマスか、うまそうだな?」
「悪い、たくさん釣ったんだけど、精霊たちにあげちゃって残ってないんだ」
太郎は手際よく着崩れを直し、イアンの胴体を縄で自分に固定する。ぼんやりしている間に、帰る準備が整ってしまった。
「では、美織殿。これにて……」
あ……美織の指が離れていく。イアンの手は宙をかいた。
「海の国から戻ったら、必ず妾のもとを訪ねてたもれ。必ずじゃ」
黒瑪瑙の目が潤んでいる。胸がいっぱいになり、イアンは言葉を返せなかった。
うなずくイアンを確認するや否や、美織は背を向け、暗い洞へ消えた。別れはつらい。イアンは小指に巻かれた糸をなでる。
闇が彼女の白い背中を隠した後、チチチチ……と、また鳴き声が聞こえた。




