69話 初めて
ラセルタは息を吹き返した。
しかも、軽傷で済んだのである。首にロープの痕が付いたのと、アスターに蹴られた時、腰を打撲しただけで他は無傷だった。古代語で話した時の記憶はなく、脳も心臓も無事だ。
耳管や鼻腔、咽頭、気管などに穴を開けられていないか、肺に水が入っていないか心配だったが、痛みもなく、レーベの診察では異常が見つからなかった。
脳まで行かず、神経を通じて操ったのではないかとレーベは推測した。
しかしながら、意識を乗っ取られた理由はわからなかった。ラセルタが亜人であることに関係しているのかもしれない。
──朕はアニュラス国王エゼキエル。大陸を統治する者である。……侘びしきことに今は仮の体。分身よ、早く朕の元へ参れ。一つになり、転生するのだ
メッセージはユゼフへ向けられていた。幸い、あの場で古代語を理解できたのはユゼフとレーベだけで、アスターたちには知られずに済んでいる。何かの間違いにしても荒唐無稽な話だった。
歴史書によると三百年前、アフロディーテ・ガーデンブルグにより、火刑に処せられたエゼキエル王は生き延び、魔の国へ逃れて魔族の王になったという。
魔国の瘴気にあたった体は固い鱗で覆われ、美しかった青色の髪は毒蛇へと変わった。怪物となった王は黒曜石の城を建て、魔族の軍を指揮し、人間を喰らうようになる。
その魔王を倒したのが英雄王サウル、初代グリンデル王である。
倒されたエゼキエル王は復讐を誓い、数百年後に転生すると言い残して息絶えた。
聖典の預言書には大魔王が地に降りて世界の終わりが来るとあるが、後世の解釈で転生したエゼキエル王のことだと言われている。預言書を元に作られたメシア教では、メシアが降臨してエゼキエル王を倒し、世界はまた一つになるとされていた。
だが、これは神話の話だ。
──馬鹿らしい。考えるだけ無駄だ
ユゼフは部屋へ戻るなり、ベッドに突っ伏し、枕に顔をうずめた。どっと疲れが押し寄せる。
ズゥーズルズルドゥピー……ズゥーズルズ…ズズズズー……
ダモンが不気味ないびきを立てている。
あれから食堂へ行ったが、ほとんど食べられなかった。古代語の内容が気になったのと、険悪な雰囲気のせいだ。
助けられているとはいえ、アスターの言いなりにはなりたくなかったし、おかしなところは正してほしかった。
──でもまあ、あの態度はよろしくなかったかもしれない
髭親父の協力がなければ、ディアナの救出は難しい。彼の行動に対して抗議するにしても、もっと言いようがあったかもしれない
ユゼフは深く息を吐いた。
──もう寝よう。明日は明日で大変なのだから……
寝る気になって目を閉じたというのに、今度はドアをノックする音が聞こえた。
無遠慮でぶっきらぼうな声がする。女にしては低く、繊細さの欠片もない。
「エリザだ。入るぞ」
──そうだ。エリザのことをすっかり忘れていた
交渉役を途中で降りたいと言い出すのなら賛成である。アスターを納得させるのは大変だが、本人が嫌なら無理強いはできないだろう。
エリザは返事を待たずにドアを開けた。
「返事くらいしろ!」
ズカズカ入り込み、ベッドに腰掛けてブーツを脱ぎ出した。
がさつな挙動を見て、もう少し女らしさがあればいいのに……とユゼフは思う。
「なんの話だ?」
「話?」
「交渉役の件か?」
「誰も話があるなんて言ってないぞ?」
エリザは脱いだブーツを部屋の隅に投げた。
「じゃあ、何しに来たんだ?」
「そんな言い方はないだろうが? アタシが今まで何回、アンタを助けたと思ってる?」
エリザが上目で見てきたので、ユゼフは一呼吸分だけ考えた。なぜ、機嫌が悪いのかわからない。
「……三回かな?」
「そうだ。最初にこの森で出会った時。ナフトで頭領たちに襲われた時。五首城での戦いの時……そして魔の国で四回になる」
「何が言いたい?」
エリザは焦げ茶色の髪をかきあげ、青灰色の瞳でユゼフをじっと見つめた。
──なんなんだ?……彼女に何かした覚えはないし。見当がつかない
ユゼフは面食らった。今までのやり取りを思い返してみても、ちっともわからない。
大雑把で男勝りな彼女には気を使わなかった。飾らず率直な態度を取っていたと思う。
それが馴れ馴れしいと思われてしまったのか……それとも……
「……今夜、この部屋に泊まってもいい?」
沈黙を破ったその言葉に、ユゼフはいっそう混乱した。
「なんで?」
「鈍い奴だなあ! アンタ、女を知らないだろ?」
エリザは、きつくユゼフを見据えた。怒っている顔だ。
「それとも何か? アタシのことは女と見れないと?……ああ、もういい! 帰る!」
エリザは荒々しく立ち上がり、ブーツを取りに行こうとした。
そこでやっと、ユゼフは彼女の言わんとしていることに気づいた。
「ごめん」
去る直前にエリザの腕をつかんだ。うつむいたまま、顔は見れないでいる。
「……その、あの……君が望むなら、ここにいてくれて構わない」
エリザはユゼフの顔を確認すると、座り直した。ユゼフのほうは顔から火が出そうだ。小さな手が腰へと伸びてくる。
ユゼフもこわごわ、エリザの背中に手を回し、そのまま固まって動けなくなってしまった。
体温とエリザの荒ぶる鼓動が密着した体に伝わってくる。
──人の体はこんなにも温かいものなのか
エリザは顔を上げてユゼフに視線を合わせた。少し潤んだ目は、何か含んでいる。それが恥じらいなのか、怖れなのか、期待なのか、それら全部なのかは、わからなかった。
ユゼフはエリザの唇に親指を当てた。柔らかい肉を押すと硬い歯に当たる。
次の瞬間、衝動的に極めて能動的に……本能がそうさせたのだろう。
ユゼフは彼女の唇に自分の唇を重ねていた。
──これがキスというものか
ディアナのことが連想され、急いで打ち消した。
──それは今、考えてはいけないことだ
ユゼフは口内から全身へ伝わる悦楽に身を委ねた。
──そうだ、服
キスをしながら服を脱がそうと思い、震える手で彼女の背中をなで回した。
なかなかうまくいかない。何をしても、ぎこちないのだ。
「いいよ。自分で脱ぐ」
エリザはそう言うと、チュニックを脱ぎ捨て、コルセットの紐を解いた。
見たかったモノは、いとも簡単に姿を現した。それはユゼフの中にあった、やや暴力的な衝動を呼び覚ますには充分だった。
ユゼフは我を忘れてエリザを押し倒した。
「ちょ、ちょっと待って! アタシ、初めてなんだ!」
エリザの上ずった声が耳をくすぐる。つやつやした目と唇を見て、火がついた。粗野だった動作が嘘みたいにいじらしい。かわいらしい……
──女の子だ
「痛くないようにできる?」
「……努力はする」
※※※※※※※
夜は長く、それまで抱えていた悩みが些末なことに思えた。
エリザは金と引き替えに快楽を与える娼婦とは違う。
彼女を抱いたことにより、満たされた支配欲と征服による達成感を得られた。それは、ユゼフの失われた自尊心を取り戻すのに役立ったのである。
終わったあと、ユゼフたちは抱き合い、ベッドに横たわった。
「どうしても行くのか? 魔の国へ?」
「ああ、ユゼフの役に立ちたいんだ」
「俺は行ってほしくない。君を危険にさらしたくない」
ユゼフはエリザに背を向けた。
「大丈夫だよ」
エリザはユゼフの背中にキスをする。
「アタシはこう見えて悪運が強い。今まで何度も危険な目にあってきたけど……ほら? 五首城でだって無事だったし。盗賊たちとも仲良くやってる。アタシが行けば、絶対うまくいくさ」
初めての恋人は心配するユゼフを笑い飛ばした。




