68話 人体実験
ラセルタが壇上に立つと、小さな歓声が沸き起こった。
負けん気の強そうな焦げ茶色の瞳と、笑った時にのぞかせる牙はヤンチャな印象を与える。男に対してかわいらしいと思ってしまうのは、どこからどう見ても彼が子供だからだ。
この少年の身体的特徴は耳と角だけに留まらなかった。全身を見上げれば、爬虫類の尻尾が確認できる。
──こんな馬鹿げたことはすぐにでもやめさせたい……でも、どうやって?
ユゼフが葛藤している間に、話はどんどん進められていく。
「ここにいるラセルタが、我々の実験に協力してくれることになった!」
アスターのよく通る太い声に、何人かパラパラと拍手する。
「今から集会所の裏手にある湖へ移動する。我々が先導するので、速やかに移動するように」
アスターは壇から降り、レーべとラセルタを伴って湖へと向かった。
風を切って歩くアスターの後ろに続くレーベは、お小姓といったところか。こちらも偉そうにアジトを闊歩する。ユゼフの前を過ぎる時、侮蔑の目を向けてきた。「命拾いしましたね」と。
盗賊たちの貴重な水資源である湖はプリマエ・ノクティス(初夜)と呼ばれている。
男女が初夜のまえ、水浴びするからなのか、逆三角形の湖が子宮の形に似ているからなのか、理由はわからない。アキラが頭領になった時には、すでにそう呼ばれていたそうだ。
広い湖のほとりに百人近い盗賊が集まった。
「個人差はありますが、だいたい五分ほどで虫は脳へ達します。寄生するまでは七、八分もあれば充分でしょう。覚悟はできてますか?」
レーベはラセルタに尋ねた。ラセルタは閉じていた目を開き、コクリとうなずいた。
普段のローブ姿と思いきや、レーベは真っ黒な防護服を着ている。フェイスベール付きのフードを被れば、フルアーマー状態だ。アスター含む野次馬は、少し離れた所から二人の様子を見守った。
ラセルタの腰に巻き付けたロープは、近くの木に縛り付けられる。
「虫が入ってから一分以内にあなたを湖へ沈めます。虫が体内から抜けるのは三分。その間、虫の出す毒素であなたは昏睡状態に陥ります」
レーベは虫の入った試験管の蓋を開けようとした。
「待ってくれ!」
とうとう、ユゼフは止めに入ってしまった。年端のいかない少年を実験台にするのは、倫理的に間違っている。
「こんなことに意味はない。すぐに、やめるべきだ!」
視線が痛い。誰も口を開かなかった。レーベは防護服の首のテープ部分を剥がし、顔を出した。
「邪魔するなよ! この偽善者が!」
「バカらしいから、やめろと言ってるんだ!」
「動物でさんざん試しました。魔国ではこの魔甲虫に襲われます。防護服で防げなかったときは? 大群に襲われたときは? 水か火で対応するしかないんです。この実験は無意味なんかじゃない!」
「だからと言って、子供を実験に使っていい理由にはならない」
「じゃあ、あなたが代わりをしますか?」
予想していても、ユゼフはその言葉にひるんだ。
「ほら、やっぱり。臆病者の偽善者じゃないですか?」
「おまえは一緒に魔の国へは行かないし、学匠の弟子というだけで王女様とは関係ない。余計なことをするんじゃない!」
「呆れた……ぼくを巻き込んだのはあなたでしょう? 自分の意に沿わないと、蚊帳の外へ放り出すんですか?」
ユゼフが言い返そうとしたところで、試験管を持ったレーベの手をラセルタがつかんだ。
「ケンカはしなくていい」
レーベは突然のことに驚いて、試験管から手を離してしまった。
宙に浮いた試験管は寸前でラセルタがキャッチする。亜人の少年は、おぞましい虫の入ったそれを守るように両手で包んだ。栗色の瞳はユゼフをしっかりと捉えている。
「これはオレが自分で望んでしようとしていることです。情けはいらない」
ラセルタは言い終わるや否や、試験管の蓋を開け、中身をすべて呑み込んでしまった。
軽い音を立て、試験管は地に落ちた。西日を反射してキラキラと破片が飛び散る。
一瞬のうちに起こったことで、ユゼフは為すすべを持たなかった。かろうじてできたのは、気絶したラセルタを受け止めるぐらいだ。少年のぐったりした体は熱を帯びている。
「早く! 水の中に入れないと!」
うろたえるユゼフに対し、レーベは冷めた顔でラセルタを見下ろした。
「手順があるんです。あなたは黙ってて。ぼくの指示通りに動いてもらわなきゃ困る」
レーベを殴り飛ばしたい衝動に駆られても、ユゼフには睨むことしかできなかった。しばし、嫌な緊張と共に待つ。
一、二分だろうか。ラセルタの手足が痙攣し始めると、レーベはようやく「水に入れましょう」と言った。
「この痙攣は虫が入ったことによる拒絶反応です。あと数分で虫は脳へ移動します」
アスターが足を持ち、ユゼフは脇の下に手を入れ、ラセルタを持ち上げた。湖までは九キュビット(四メートル半)程度だ。
「おっと……」
手足の痙攣が激しくなり、アスターが手を滑らせた。
地面に付いたラセルタの両足がバネになり、上半身を勢いよく起き上がらせる。すんでのところで、ラセルタの頭がユゼフの顎にぶつかるところだった。起き上がったラセルタは両腕をバサァッと広げて、ユゼフの手を払いのけた。
「……!!??」
ラセルタの腕が胸を強打し、ユゼフは吹っ飛ばされてしまった。
痛みより呼吸が止まる。少年の体から発されたとは思えない剛力である。
地面に叩きつけられ、ユゼフはうめき声を上げた。状況把握よりまえに、うろたえたレーベの声が聞こえる。
「早く捕まえてください! 脳に寄生されている!」
急いで起き上がったユゼフの目の前には、生気を失ったラセルタが立っていた。こちらを見ていても、虚ろな瞳からは感情が感じられない。アンデッドと同じ目だ。
悲しい呻吟が流れ出る。地の底から湧き上がったかのような──
「※■◆○★■▲◇▽……」
ラセルタの声は反響し合うさまざまな音が組み合わさっていた。
──古代語だ
「朕はアニュラス国王エゼキエル。大陸を統治する者である。……侘びしきことに今は仮の体。分身よ、早く朕の元へ参れ。一つになり、転生するのだ」
「エゼキエルと言ったぞ!!」
昔の王の名を言ったので、内容がわからなくとも盗賊たちはざわついた。
ラセルタが体を乗っ取られたのは一目瞭然であるが、不思議なことに襲いかかってこなかった。何か訴えるような、話したいような、そんな態度だ。ユゼフには狼狽する余裕があった。
しかし、謎は謎のまま、汚泥へ沈む。
その間にアスターがそろりそろり近づいていた。油断している隙にパッと、背後からラセルタの首にロープを引っ掛けたのである。そのままズルズル引き摺った。
ラセルタはロープをつかみ、顔を歪ませ、足をばたつかせる。
「やめろ! 死んでしまう」
「もう、とっくに死んでる!」
ユゼフの訴えも空しく、アスターはラセルタを湖の岸まで引き摺った。そして、蹴り飛ばし、無情にもラセルタを湖へ落としたのである。
ラセルタは亜人なのでブクブクと沈んでいった。
「おい、レーベ、三分で揚げればいいんだな?……おお、虫が出てきてるぞ。近くにいる奴、見に来い!」
近くにいた盗賊たちが見物しようと走り寄る。ユゼフはアスターの隣にしゃがみ、抗議の目を向けた。
「お、なんだその目は? 不満そうだな? でも、おまえが悪いんだぞ? おまえが亜人のガキに妙な同情心を抱いて実験の邪魔をしたために、こうなったのだ。段取り通り行っていれば、うまくいっただろう」
ユゼフには、アスターが取り繕っているようにしか見えなかった。この人は悪人ぶることで、自分の弱さを隠そうとしている。その証拠にユゼフを責め続けた。
「さっきの行動が気に障るか? 手荒に感じられたかもしれんが、即座に湖へ落とさなければ、誰かに襲いかかり死者が出た可能性だってある。冷酷なように見えても、ちゃんと理由があるんだよ。反対に割り切って行動できないおまえはどうだ? 命が関わる場合、中途半端な行動のせいで被害が大きくなる。おまえの感傷のせいで犠牲が増えるんだ。肝に銘じておけ!」
最後に恫喝し、アスターはロープを一緒に持てと促した。
水中へ落とされた直後、ラセルタはもがいていたが、やがて、おとなしくなった。瞼を固く閉ざし、手足を広げて沈む姿は死人に見える。
丸みを帯びた顔はあどけない。それに華奢過ぎる体躯。せいぜい十歳前後に見える。十五歳には見えない。幼い。
ラセルタの口や鼻、耳からも数十匹の魔甲虫が這い出すのが見えた。
這い出した虫はしばらく水中で蠢き、しだいに動かなくなった。腹を見せた醜い虫は深い湖の底へ沈んでいく。
ユゼフたちはその様子を無言で見守った。
日は完全に落ちた。辺りは薄暗くなり始めている。少年から虫が出尽くすまではとても、とても長かった。。
レーベが懐中時計を胸ポケットにしまい、「引き揚げてください」と言うまで、三分とは思えないほどだった。
湖から引き上げたラセルタは、息をしていなかった。寝顔が親友の童顔に似ていて、ユゼフは胸を痛める。
ユゼフは怒りをアスターに向けた。
「アスターさん、あなたは間違ってる!」
「間違ってるのはおまえだ。ユゼフ」
──なぜだろう。放って置けばいいのに、この人に対しては変わってくれるのではないかと、不毛な気持ちを抱いてしまうことがある
「……亜人だからか?」
「……」
「彼が亜人だから、命を軽んずるのか?」
アスターはユゼフから目を逸らした。
「彼が自分の息子だったら、同じことをさせられるのか?」
「息子」という言葉にアスターの顔色が変わった。アスターはオーガの形相で拳を振り上げた。
「黙れ! 未熟者がこの私に意見するんじゃない!」
「黙らない。あなたは間違ってる。命を奪うほどの危険に、この子をさらすべきではなかった」
アスターは反論してこなかった。行き場を無くした拳はラセルタの胸に叩きつけられる。
「ゴボッ」
音はラセルタの気管から生じた。生理的かつ能動的な音が確かに……
次の瞬間、信じられないことが起こった。
「息を吹き返したぞ!」
近くにいた盗賊の一人が叫んだ。ラセルタは激しく咳き込み、口から水を吐き出した。
ユゼフは慌てて少年を横向きにし、背中をさすった。
「水を吐かせよう」
アスターがラセルタの腹部を圧迫して、水を吐き出させる。
「おい、自分が誰だかわかるか?」
ラセルタはユゼフの問いかけに、うなずいた。




