64話 メシア
目で合図してから、イアンは頬傷の男に斬りかかるつもりだったのだろう。だが、
「待て!」
その手をシーマが押さえた。
イアンは臆病者が嫌いだ。戦う気のないシーマに、露骨な嫌悪をぶつけた。額に細かい皺を寄せ、上目でにらみつける。
シーマはそれを無視して、とんでもない行動に出た。
前にいたユゼフを押し退け、一人でツカツカと頬傷の男へ向かって行ったのである。ユゼフとイアンは困惑し、すぐに動けなかった。
「これは、これは……自分から殺されに来たのか?」
頬傷はニヤニヤしながら、長身のシーマを見上げた。シーマは何も言わず、男の胸に手を当てる。
とたんに男は崩れ落ち、ひざまずいた。
息つく暇もない。男の後ろにいた眼帯と獣人が鯉口を切ろうとするも、シーマは大きく手を広げて彼らの手首も触った。すると、砂山が溶けるかのごとく、簡単に崩れる。じつに呆気なく、男たちは戦意を奪われてしまった。
ならず者たちは、突然の出来事に目を見張った。
一時、彼らは異様な事象を受け入れられず、固まっていた。その間にシーマは触り続け、ひざまずかせていった。
いったい、何が起きているのか? ユゼフは助けを求めて、隣のイアンを見た。イアンも同じ気持ちだったのだろう。目が合った。
シーマを止めるべきか、ならず者に襲いかかるべきか──
事態が切迫すれば、動かざるを得ない。
最初、呆気にとられていたならず者たちにも理性が戻ってくる。片腕に剣を仕込んだ男がシーマを斬りつけようとした。
──危ないっ!!
とっさに飛び出したのはイアンだ。男の剣を受け、シーマを守った。
「行けーーーーーーっ!」
イアンの雄叫びが起爆となり、少年たちは一斉に襲いかかった。
イアンは刃を受けたあと、左に払った。軌道がぶれた隙に、剣の根の部分を切り落とす。
赤い生命の息吹がほとばしった。男の腕から吹き出した血で地面はヌルヌルする。
滑りそうになりながら、ユゼフは助けに向かおうとした。シーマは留まっておらず、ふらふら移動している。
向かって行く影がもう一つ。シーマの首に狙いを定め、今にも剣を振り下ろさんとする角の亜人だ。
──間に合わない!
ユゼフは声を上げそうになった。
しかし、亜人はシーマの目を見るや否や戦意を喪失し、ヘナヘナと座り込んでしまった。
「メシアじゃ! 地獄にメシアが舞い降りたのじゃ!」
背後から声が聞こえた。
振り向くと、老人が立ち上がって叫んでいる。死んだように動かなかった、先ほどイアンがつまずいた老人だ。
メシアは古代聖典の預言書に書かれており、メシア教の要ともいえる。三百年前にこの地を征服した外海人たちは宗教を持っていなかったため、アニュラスの聖典をもとにメシア教を作った。
いつの間にか集まってきたボロをまとった浮浪者や、財布を盗んで逃げていた亜人の子供たち、売春婦や売人までもが口々に称え始めた。
「メシアだ!!」
「メシアーーー!!」
「救世主様!」
「なんと神々しい!」
「我々を救ってくださる」
「神の御子よ!」
ならず者たちは剣を落とし、シーマの足元にひざまずいた。亜人の子供たちや浮浪者まで、シーマのもとへ集まってくる。
腕代わりの剣を切り落とされた男にシーマが触れると、吹き出していた血が止まった。子供たちはこぞってシーマの体を触ろうとする。
「何が起こってるんだ……?」
イアンの言葉に返すこともできず、貴族の少年たちは呆然とするばかりだった。
そうこうするうち、人々に取り囲まれ、シーマの姿が見えなくなってしまった。「メシア」と繰り返す人々の渦に呑み込まれる。
「シーちゃんを助けないと!」
ユゼフは人混みに入って行った。一テンポ遅れ、イアンの足音が聞こえる。
頭一つ分高いシーマは、台座に立っているかのようだった。
ボロを纏う薄汚れた人々のなか、透き通った白い肌は神秘的で、本当の救世主に見える。
人々の異常なほどの熱気に当てられ、ユゼフの頭はクラクラした。汗から発せられる独特の分泌物が、民衆を扇動しているのではないかと思う。なんとか人混みを掻き分け、シーマの所にたどり着いた。
思いのほか、肉付きの良いシーマの腕をつかんだ瞬間、ユゼフは脱力しそうになった。
「早くここを出よう!」
ユゼフの姿を見たシーマも気が抜けたのだろう。ぐにゃりとへたり込んでしまった。駆け寄ってきたイアンがシーマの腕を自分の肩に回す。ユゼフはイアンと二人でシーマを支えた。それから、戻るために人の渦へ突っ込んでいった。
「どけよ! どけーーっ! どけーーーっ!」
イアンの怒号はメシアを求める人々の声にかき消される。致し方なく、ユゼフたちは中腰になりシーマを引きずった。
集団の外へ何とか抜け出せたのは、奇跡だったかもしれない。
「逃げるぞ!」
イアンは命じ、貴族の少年たちは走り出した。シーマを引きずる真の救世主は最後尾を走る。元の世界を目指して、最初通った狭い路地へと飛び込んだ。
貧民窟の人々はシーマを途中まで追いかけたが、路地に入ると追うのをやめた。
「待て! もう走れない……」
路地の途中で、シーマは座り込んでしまった。血の気を失った額には汗が滲んでいる。一列でないと狭い路地は通れないため、シーマを支えて走ることができなかった。
イアンは皆を先に行かせ、シーマを見下ろした。褐色の瞳は冷たく、無機質である。戦いのまえ、赤々と燃える炎が宿っていたのに、今は硬質な柘榴石を思わせた。見たことのない異物を見る目だ。少しだけ躊躇してから、イアンは先に行ってしまった。
あんなにも人間離れした技を見せつけられては、警戒するのもわかる。
誰もいなくなり、二人きりになると、ユゼフは弱っているシーマを心配した。
ためらいは微塵もない。ただ、助けたいという気持ちだけで屈んだ。
「シーちゃん、背中に乗って!」
ユゼフはシーマを背中に担ぎ、足早に路地の出口へと向かった。身長が高い分、シーマは重い。相当重い……幸い、その時は必死すぎて、重さを感じている余裕はなかった。
「ぺぺ、すまない。俺が間違っていた」
シーマは弱々しくつぶやいた。
「おまえの言うとおり、最初からこんな所に来るべきではなかった」
ユゼフは黙っていた。シーマを守ろうとする自分の勇敢な行動も不思議だったし、あの光景は何だったのか、理解しようとしてもできず、混乱していた。
「彼らはきっとガーデンブルグ王権の被害者だ。戦争で疲弊したこの国のあちこちにこういう場所はある。三百年前にガーデンブルグが覇権を握るようになってから、アニュラスの平和は侵され、差別が根付き、貧富が生まれた」
シーマは語る。言葉の一つ一つが、ユゼフの心に直接入り込んできた。
「少しでいい、少しでいいんだ」
シーマの声は震えていた。
「少しの知恵と度胸と、たった一本の劍があれば世界を変えられるのに……」
ユゼフにはシーマが何を言っているのか、わからなかった。顔を見ようにも、背負った状態では表情を窺うことができない。
路地の出口まで来たとき、シーマはふたたび口を開いた。
「俺が間違ったことをしようとした時は、今日のようにはっきり言ってくれ。必ず耳を傾けるから」
もといた世界は闇色に覆われ、しとしと雨が降り始めていた。
待っていた少年たちはシーマに対し、安堵と不安の入り混じった複雑な顔を向けた。
シーマはユゼフの背中から降り、何事もなかったかのように、「さあ、帰ろう」と笑顔を見せた。
「あれは奇術の一種だ。城に奇術士の一団が来た時、教えてもらったのだ……まあ、ちょっとコツはいるが、誰にでもやろうと思えばできる」
シーマはそのようにごまかした。
シャルドン家の嫡男が亜人とは、誰一人思わない。少年たちは、言いわけをすんなり信じたのだった。この一件はシーマの神秘性を高めるに留まり、地位を脅かす材料にはならなかったのである。
その後、シーマとイアンが共に行動することはもちろん、会話をすることもなかった。
※※※※※※
──今から思えば、シーマが動けなかったのは力を使いすぎて消耗したせいかもしれない……
臣従の誓いを交わした時の言葉が思い出される。
自分には「亜人の穢れた血が混じっている」と。シーマはそう言っていたのだ。
ユゼフが動物を操作できるように、シーマは人間を操ることができるのかもしれない。
シーマはこうも言っていた。
「十二歳まで農家の十人兄弟の一番下だった」
本物のシーマ・シャルドンと入れ替わったのだと。
──そんなことはあり得ない
ユゼフは頭に浮かんだシーマの言葉を打ち消した。
農家の子供は、あのような色白にはならない。全身日焼けし、手は土仕事のために黒ずみ、皮が厚くなる。町で魚を売っていたころ、野菜を売りに来ていた農家の子供を見ているから、よくわかる。
シーマは剣だって、ろくに握ったことがなさそうな細い指と薄い皮膚の美しい手をしていた。
それに、いくらシャルドン家の嫡男が病気がちで外出しなかったからといって、入れ替わるのは不可能に近い。外の人間はごまかせても、使用人や親族はだませないのではないか?
入れ替わりでないとしたら、あの力は……?
あれが亜人の力なのだとしたら、かなり強い。亜人のなかでも特殊だ。
「そろそろだ」
アスターの声でユゼフは現実に引き戻された。
ユゼフ、アスター、アキラの三人は貧民窟を抜け、商人街の出口まで来ていた。夜の帳が下りて、ガス灯と月明かりだけが頼りだ。
これから闇討ちするというのに呑気なもので、アスターは口笛を吹きつつ、道端に落ちている瓶を割って遊んでいる。
ユゼフは考えるのをやめた。
シーマの素性がなんだろうが、自分にとってはどうでもいいことだ。シーマはシーマであり、ユゼフの主君なのだから。




