59話 病み上がり(アスター視点)
アスターは二日間こんこんと眠り続け、三日目の朝には、すっかり元気になっていた。
目覚めればいつも通り。顔を洗い、長い髭に櫛をあて、身支度を整える。髭を三つ編みにしたり、リボンを結わえるのは同衾者の役目……と言いたいところだが、最近は自分でもやる。病み上がりの今日は梳いて整えるだけにとどめた。
王城にいたころ、アスターは着道楽で有名だった。上質な綿布で仕立てられたダブレット※には絹の刺繍が施されており、だいぶ着古してはいても、当時の名残を感じさせる。
二日前、テーブルから落ちた水差しがそのままになっていた。湿った床がカビ臭いのは不快だ。汚い所でも生きていけるとはいえ、不潔より清潔のほうがいい。
──あとで、盗賊のガキどもに小遣いでもやって掃除させよう
屋敷を出てひんやりした風に当たれば、ヒリヒリと気持ち良かった。病み上がりには良い刺激になる。眩しすぎる朝日が容赦ないのもご愛嬌だ。
アスターが数日ぶりの外気に感じ入っていると、声をかけられた。
「アスターさん」
抑揚のない神経質そうな声の発生元には、ユゼフがいた。
「体調は良くなった……みたいだね?」
アスターがどんなに虚勢を張って何でもないふうを装っても、ユゼフはわかっていたに違いなかった。触れなくても鼓動と脈動を感じ取れるのだから、隠しようがない。
気遣って知らない振りをし、元気になった姿を見て安堵の表情を浮かべている。
そんなユゼフの態度を見ていると、アスターは無性に腹が立ってきた。
馴れ合いは好きじゃない。追放されてからずっと一人だったし、自分勝手に生きてきた。
──わかってる。慕われるのが嫌ではないのだ。こいつの存在自体が……
感情が昂る原因は過去のトラウマにあった。
──ディオン
戦死した長男。生きていれば、同じくらいの年頃だろうか。ユゼフには戦死した息子の面影があった。顔や仕草がどことなく似ているのだ……
──ディオンは私に全然似てなかった。
アスターの巨躯と対照的に、ディオンは細身でスラッとしていた。
いかにも貴族のお坊ちゃんという風体で、物腰柔らか、美男子、上品。戦いより自然を愛で詩歌に親しんだ。
根本からアスターとは違う。武闘派に育てるなど、土台無理な話だったのだ。
ディオンの最後は凄惨すぎた。全身を槍や剣で滅多刺しにされ、息絶えたのである。
アスターはちょうどそのころ、カワウとモズの間に横たわる土漠で抗戦していた。
カワウが兵の一部をモズの森へ向かわせていたことに、感づくことができなかったのだ。補給のために森を移動中だったディオンの隊が襲われたことにも……
圧倒的人数のカワウ兵に囲まれたディオンは、物資を守るために最後まで戦ったという。捕虜にされ、あとで解放された兵士からその話を聞いた。
まだ十五歳だった。
内海の若者は十五を過ぎれば当たり前のように徴兵される。大陸の貴族が華やかで豪奢な暮らしをしている間、多くの若者の命が失われていったのだ。
ディオンの死は帰国を決意するきっかけとなった。表面上はケガを理由にしていたが、内実は違う。
──ディオンは父親である私に認められたかったのだ。私はあいつに対して、否定しかしてこなかったから……
物静かで鈍臭いくせに頑固で、これと決めたら絶対に譲ろうとしない。無器用で弱虫で理屈ばかりこねる。剣もいくら教えたところで上達しなかった。
──私はあいつに「本当におまえは私の息子なのか? 出来損ないめが」と
ディオンのことは思い出したくない。あぶく銭で遊んでいれば、忘れていられたのに……
──あぁぁ……不快だ
アスターはギロリとユゼフを睨みつけた。
「私が寝ている間、稽古をサボったりしてなかっただろうな?」
ユゼフは決まり悪そうに笑う。笑うな……笑顔が余計に似ているんだと、アスターは頬を固くする。
「代わりにアキラが相手をしてくれたけど……じつは結構サボってた」
「なに!?」
「いろいろ試したいことや考えることがあった。魔の国へ行くにあたって大事な時間だった」
ユゼフははっきりとした口調で言い返し、強い視線をアスターへ投げた。
──そう、その目だ。最も不快なのは……
弱いくせに主張を曲げようとしない。真面目で気難しいところ……
「ふん! それは言いわけにならんぞ?」
アスターは不機嫌を露骨に出したが、ユゼフは気にしない様子で切り出した。
「アスターさん、相談がある」
顔を近付け、小声になった。
「……金がもっといる」
「なんだと?」
「朝食の時、アキラに話すつもりだけど、説得できる自信がない」
「それで、私に口添えしてほしいと?」
「……まあ、そういうこと」
アスターは立ち止まり、ユゼフを見据えた。
「おい! 私はおまえの便利屋ではないぞ!」
「でも協力してほしい。これは、イアンとの交渉がうまくいかなかった場合や魔の国で戦になったとき、必要になることなんだ」
「甘ったれるんじゃない。必要なことなら、おまえが……いや貴公が自分で何とかすべきではないのか? 他人の力をすぐに借りようとするんじゃない」
アスターは冷たく突き放した。振り切るように先へ進む。
集会所からは肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。ユゼフは小走りで追いかけてきた。
──ああ……うっとおしい……
懐かれても困るのだ。お大尽様の時とはもう違う。今では風来坊の根無し草だ。
アスターはユゼフの綺麗な手を見て思う。自分の手は取り返しのつかないほど汚れている。こんな人でなしにくっついて、幸せになれるはずがないのだ。
だから、幼子のような意地悪もする。好かれるくらいなら、嫌われたほうがいい。
「そうだ。貴公が肉を食ったら、口添えを考えてやってもいい」
肉の香りのおかげで、気の利いたセリフを言うことができた。こういう時、アスターは自然と笑んでしまう。
ユゼフの顔は怒りで強張った。一歩下がり、小さな声でボソリつぶやく。
「……ほんと、性格わるいな」
「なんか言ったか?……おや、耳をどうした?」
「これは……なんでもない。森でかぶれただけだ」
左耳には包帯が巻かれてあった。髪で耳を隠しつつ、ユゼフはやっとアスターから離れた。かぶれただけと言うわりに血が滲んで包帯を赤く染めているし、守るように手を当てているのが不自然である。
アスターは眉を寄せた。ぼんやりした意識のなかで、聞こえた言葉が蘇ってくる。
“ハサミを貸してくれ”
──あれは夢ではなかったのか……
そうだ、ユゼフは変異の現れた耳を切ったのだった。思い出してアスターは後悔した。さっきの笑い顔がディオンと重なり、胸が締め付けられる。
──くそっ……絶対に協力なんかせぬからな!
集会所に着いたアスターはまず、レーベを探した。
──女と子供、女と子供、女と子供、女と……いた!
割合的に女子供は戦闘員たる男の数に比べて少ないので、探し出すのはそう難しくない。
エリザと並んで座るレーベに、アスターは手を上げて合図した。
「レーベ、おまえはこっちへ来なさい。小娘はついてこなくていい」
アスターはレーベとの約束を覚えていた。しかし、レーベは首を横に振った。
「エリザさんも一緒に行く。イアン・ローズと交渉させるなら、エリザさんにも知る権利がある」
「いいだろう」
アスターはあっさりうなずき、二人をアキラのいるテーブルへと連れて行った。
「ユゼフが金の相談をしたいらしい」
アスターが言うと、アキラはまたかと、うんざりした顔になった。バルバソフは鼻で笑う。
「生きていたのか? この二日、姿を見せなかっただろ? 死ねば良かったのに」
「憎まれっ子世に憚るという言葉を知らないのかね?」
「その二人は?」
アキラがレーベとエリザを訝しげに見た。二人とも食事を載せたトレイを手に突っ立っている。
「ああ、そうだ。おまえたち、座りなさい」
アスターは二人を自分の隣、アキラとバルバソフの向かいに座らせた。
「この子たちはこれから話し合いに参加する。食事の時に話すことが多いので、同じテーブルで食べさせることにする」
呆気にとられるアキラとバルバソフを置いて、アスターは厨房前のカウンターへ食事を取りに行った。
今日は鴨のハーブ焼きだ。どうせ、ユゼフは食べないに決まっているが。
トレイに食事を載せながら彼らの様子を窺うと、固まっているのが見えた。アスターの気まぐれの意図がまったくつかめないのだろう。
──そりゃ、そうなるよなぁ? 女子供を会合に参加させるなど前代未聞の話だ
思いがけない行動で意表をつくのは楽しい。アスターはほくそ笑んだ。
アスターとユゼフがテーブルについたのは、ほぼ同時だった。何か言われるまえにと思ったのだろう。座るのを確認してから、アキラは先に口を開いた。
「金の話だが、気球の金でギリギリだ。これ以上は出せない」
先手を打たれたユゼフは驚いてアスターを見た。口添えを拒否したにもかかわらず、なぜ勝手に話しているのかと不満げである。
──口添えしてほしいと言ったのはおまえだ
ユゼフはすぐに言い返せず、口をパクパクさせていた。やはり、不意打ちには対処できないようだ。頭は良いが、交渉事やら舌戦には慣れていない。
アスターはそんな様子を生暖かく見守った。誰かが驚いていたり、動揺している姿を楽しむ。我ながら悪趣味だと思う。
……ようやく、声を出さんとするユゼフを今度はバルバソフが遮った。
「ちょっと待て。ここに女と子供がいるのはなぜだ??」
「たしかに。どういうことなのか説明してくれないと困る」
アキラも同調する。
エリザは居心地悪そうに身をよじり、レーベは涼しい顔で皆の会話を聞いている。
アスターは髭をなで、答えた。
「レーベはバルバソフ、貴公の百倍以上賢いし、役に立つ。そしてこの子が小娘を、いやエリザを同伴させたいと言ったので、そのようにしたまで」
アキラはバルバソフと顔を見合わせた。アスターの行動が理解できないようだ。
ほどなくして、アキラは慎重に言葉を吐き出した。
「……アンタの言う通り、その子は賢いし、魔術や医術にも通じている。だが……まだ子供だ」
「それがどうした?」
「オレたちは盗賊で人殺しだ。子供の前ではできない話をすることもある」
大人の話し合いに参加する場合、レーベは見た目が幼すぎる……ということか。
アスターはアキラたちの言い分もわかっていたが、決めたら何が何でも押し通さなければ気が済まなかった。今さら、理屈などどうでもいい。
「アナンよ、貴公が初めて女を抱いたのはいつだった?」
アスターは突拍子のない質問をした。
こんな質問をされて、即座に答えられる人は少ないだろう。アキラだけでなく、そこにいた全員が呆けた顔になった。
気まずい沈黙のあと、アキラはたどたどしく答えた。
「十六くらいだったかと……」
デリケートな話題だから、戸惑っている。
「私は十二だ。この子と同じ年のころだった。だから、この子も一人前の男として扱って構わない」
滅茶苦茶な屁理屈でごり押し。アスターの頑とした態度に一同、開いた口が塞がらない様子だった。そんななか、レーベだけが満足した顔で食事を口に運んでいた。
※ダブレット……別名プールポワン。主に貴族が身に付ける上衣のこと。




