50─2話 生い立ち
葬式から三日後、サチは他の使用人たちと同じく、屋敷から出て行くようにと申しつけられた。
「この屋敷は新しい領主、ロレアンヌ卿の持ち物になります。ジーンニア様が上納金を滞納されていたため、島も残っていた財産もすべてロレアンヌ卿に差し押さえられてしまいました」
執事のジェイコブはしかつめらしい顔でそう言った。上納金を滞納するどころか、祖父が充分過ぎる額を納めていたのは誰もが知っている。
使用人のなかには、ジェイコブに唾を吐いて去って行く者もいたぐらいだ。サチは悲しみに浸る余裕も、直面した危機に対応する術も持たず、立ち尽くすしかなかった。
「坊っちゃん、おいたわしや……」
そんな声が聞こえ、肩を叩かれたり、抱き締められたりしたが、たいして記憶に残っていない。いつの間にか、だだっ広いホールにジェイコブと二人きりになっていた。
「あの……坊っちゃん、本日中に発たれないといけないのですが……」
ジェイコブは眉間に皺を寄せ、苦渋に満ちた表情でサチの顔色をうかがった。サチはジェイコブに対して何も感じなかった。ただただ、呆然としていただけだったのだ。
「お気の毒とは思いますが、早くここを出て行かないと……」
ジェイコブの顔に苛立ちが現れてきたころ、ようやく口を開くことができた。
「どこへ……」
「は?」
「どこへ行けばいい……?」
責めているつもりはなく、本当にどうすればいいかわからず、途方に暮れていたのである。ジェイコブは苛立ちを隠しきれずに舌打ちをした。
「そんなこと、おっしゃられてもねぇ、私だって答えられませんよ……」
少しの間、腕組みしてサチのことを見ていたが、不意に自分の頬をピシャリと叩き、
「そうだ! いい考えがあります!」
と、笑みを浮かべた。
「まえの領主のリンドバーグ様の所へ行かれてみてはどうでしょう? 力になってくださるかもしれません」
大陸北部のリンドバーグの城をサチが訪ねたのは、こういった理由からだった。門前払いも覚悟していたのに、リンドバーグはすんなり受け入れてくれた。
不安は拭い去れないものの、ひとまず安堵した。だが、通された執務室では多忙を極めていたのである。ここでは紙類が出す独特の音や匂いが記憶に残っている。リンドバーグは忙しなく書類に目を通し、判を押し続けていた。隣のデスクで書類の整理をしていた若い男がサチに気づき、
「仕事の区切りがつくまで、そこで待ちなさい」
とだけ言うと、すぐまた仕事に戻った。リンドバーグはチラッとサチを一瞥しただけだ。
サチはそこにぼんやり立って、彼らが慌ただしく働く様子を眺めた。
若い男が整理した書類にリンドバーグが判を押す。何か書き付ける。ときおり、若い男を呼びつけて、何やら耳打ちする。また判を押す。文を書く。封蝋に印章を押す。若い男に渡す。書類を読む。また判を押す……ずっとそれの繰り返し……
かなり長い間……一時間以上はそこにいただろうか。壁に掛けられた鳩時計の鳩が顔を出すまで、リンドバーグは働き続けた。
機械仕掛けの鳩が「クルックークルックークルックー」と三回鳴いた時、リンドバーグは我に返って素っ頓狂な声を上げた。
「もう、三時ではないか! 昼食も摂ってないのに!」
「いったん、食事にしましょう」
若い男が提案し、リンドバーグはやっとサチの存在を認識した。
「……えと、この子は誰かね?」
「ああ、忙しくてお伝えし忘れてました……たしか、リンドス島のジーンニアとかいう商人の……」
「リンドス島? あそこはもう、だいぶまえに私の管轄ではなくなってるぞ? ああ、今思い出しても腹が立つ。陛下は東南戦争の時、私が非協力的だったとクレームをつけ、いくつかの島を取り上げたのだ。そして、戦績による報奨とかで、蛇のようなロレアンヌ卿に与えたのだよ。陛下は何かにつけて、私に嫌がらせをする」
「子供の前でする話ではありませんよ?」
「ああ、そうだったな……リンドス島のジーンニアは、気前のよい金持ち商人で上納金もたくさん納めてくれていた……そこの家の子が何用だ?」
リンドバーグがジロジロと見てきたので、サチは下を向いた。ここへ来るまでの間に、この男が少年性愛者だという噂を聞いていたからである。
秘書と思われる若い男がリンドバーグに説明した。
「この子は両親を亡くして、土地や財産のすべてをロレアンヌ卿に取り上げられてしまったのです」
そして、サチのほうに向くと訊ねた。
「君はいくつかい?」
「……十です」
「なら、挨拶くらいはできるね? 長い間、待たせてしまったことは申しわけなかった。でも、リンドバーグ卿にちゃんと挨拶しなさい」
促されてサチは顔を上げた。すると、サチが口を開くより先にリンドバーグは言った。
「君は私に対して偏見を持っているようだ」
サチはハッとして口をつぐんだ。リンドバーグは続ける。
「私は君がみなし子だからといって、差別したりはしない。だから君も、私の良からぬ噂を本気にしないでほしい」
リンドバーグは眉根を寄せて、柔和な顔を無理に厳めしくして見せた。人の良さそうなこの中年男が、嘘を言っているようには見えない。サチはまっすぐにリンドバーグの目を見て、名乗った。
「サチ・ジーンニアと申します」
リンドバーグは満足げにうなずき、彼の秘書を紹介した。
「こちらの彼はジャン・グラニエという。私の右腕で情報収集能力に優れている」
艶々した黒髪に線の細い顔付きは、潔癖さより品の良さを感じさせる。痩せているのに、貧弱な感じがしないのは筋肉質だからだろう。好青年グラニエは軽く会釈した。
「食事にいたしましょう。君も一緒に」
広間に案内され、三人がテーブルにつくと、給仕たちは食事を運び始めた。上座にリンドバーグが座り、そのすぐ両脇にサチとグラニエが腰かける。リンドバーグはサチを客人として扱ってくれた。給仕がパンと枝豆のスープを運び、リンドバーグはサチに食事を勧めてから食べ始めた。
「……なるほど、君はジェイコブという執事にしてやられたというわけだな?」
リンドバーグはニシンのパイ包みを切りながら言った。
招待されたとき、控え目に食べるのは失礼だし腹も減っていたので、サチは遠慮なく食べた。祖父母が亡くなってから四日、ろくに食事もとっていなかったのだ。
「しかし、困ったな。手掛かりが少ないなか、君の両親を探し出すのは至難の業だ。それに、仮に見つけられたとしても、君を受け入れてくれる保障はない」
リンドバーグが言うと、グラニエも首を横に振った。
「わかっているのは、母親の名前、両親がスイマーで出会ったということ、父親の当時の職業が口入屋ということだけですね。転職しておらず、住居も移動してなければ、見つかると思うのですが……」
大人たちはしばらく無言で食事を口に運ぶ。デザートを前にして、ようやくリンドバーグが沈黙を破った。
「どうだろう、こういうのは……スイマー中にこの子の母であるマリィ・ジーンニアと、その夫を探していると張り紙をする。陛下のお膝元なので、事前に許可は必要だが……」
「それはいい考えかもしれませんね!」
グラニエが微笑む。リンドバーグは優しく言った。
「両親が見つかるまでの間、君はこの城にいて構わない」
リンドバーグの城に来てから一週間、心ここにあらずだったが、リンドバーグとその秘書のグラニエはとても親切に接してくれた。リンドバーグの妻と娘もサチを温かく迎え入れ、短い間ながらも家族の一員のように過ごさせてもらったのである。
サチの父親は意外に早く名乗り出た。というのも、父は娘に“マリィ”と名付けるほど、サチの母親を愛していたからである。消息不明だったサチの母の手掛かりを得るために、名乗り出たのだった。
出て行く際、リンドバーグは事情を説明した文と金をいくらか包んで、父親へ渡すようサチに預けた。
「本当にありがとうございました。このご恩はけっして忘れません。いつか必ず恩返しさせてください」
サチはリンドバーグとグラニエに深々と頭を下げた。
「父上が見つかって良かった」
「気をつけて行きなさい」
二人は自分のことのように喜んで、サチを見送った。




