50─1話 生い立ち(サチ視点)
いったい、なにが悪かったのか……どこで道を誤ったのか……
サチは暗い海中を浮かんだり、沈んだりしながら漂っていた。水に浮かばない体質だから、これが現実でないことはわかる。
体の痛みが消えると、指先や足の感覚まで失われた。浮遊し、ユラユラ流される感覚だけがある。
シーマに従い、イアンを裏切るべきだったのか……いや、それは正しくない。お人好しのリンドバーグを利用した……利用してはいない。すべてが終わったあとに、恩返ししようと思っていた。
普段からでしゃばり過ぎていたのかもしれない。カオルやウィレムに対しても、一歩下がった態度を取るべきだった。もっと身分相応に礼儀正しく振る舞い、周りから好かれるよう努力していたら……
サチはリンドス島という小さな島で十歳まで過ごした。
母のことはあまりわからない。職業斡旋業者として働くマリィの父と母は王都で出会い、サチを身籠った。しかし、リンドス島の実家で出産した後、忽然と姿を消してしまったという。
そのため、サチは十歳まで祖父母に育てられた。サチの祖父は海運業を営む商人だ。リンドス島のすべてが祖父のものだった。アニュラス大陸のほとんどが貴族の所領だが、内海にはエゼキエル王時代の名残で土地持ちの平民が、わずかながら残っている。彼らは領主に多額の上納金を納めることで、自らの土地をかろうじて守ってきた。
ジーンニア家には広大な農園や牧場もあり、サチはたくさんの使用人に囲まれ、大きな屋敷で生活していた。今では笑ってしまうような生活だ。小さな島でサチは大切な坊っちゃん。守られることが当たり前の優しい世界で育った。それ以外の世界をサチは知らなかったのである。
祖父は金で爵位を得るという選択をしなかった。資産家の多くが貴族になる道を選ぶなかでは珍しい。サチは漠然と疑問を持ちつつ、真意を問うには幼すぎた。結局、理由はわからずじまいになる。
なんにせよ貴族でなくとも、裕福で不自由ない暮らしをしていたのは事実だ。それが罪というのなら、受け入れることもできよう。
世の中に貧しい人や奴隷もいるということ、戦争が人々の生活を脅かし、心を荒ませること、人が人を傷付けるのは当たり前だということ……そういったことを何も知らぬまま、真綿で優しくくるまれ、大切に育てられた。
ジーンニアというのは祖父の姓だ。ジーンニア家が最初からこのリンドス島に住んでいたのか、どこからか流れ着いて定住したのか、自らのルーツに関してサチはまったく知らなかった。わかっているのは水に入ると沈む、自分は泳ぐことのできない旧国民ということだけだ。
祖父母はサチに惜しみない愛情を注いだ。
仕事で留守の多い祖父は、よく冒険家や海賊の話をした。サチは骨ばった膝の上で、外の世界に心踊らせたものだ。ゴツゴツした大きな手で頭を撫でられると安心する。サチにとって祖父が父親の代わりであった。この老父は暇さえあれば、サチを狩りに連れて行き、獲物の捕らえ方から血抜き、解体の仕方まで教えてくれた。
一方で、祖母はサチが興味を持ったことはなんでも、女のすることであっても教えてくれた。縫い物や料理は祖母や使用人に教えてもらい、できるようになったのである。
また、幼いころから家庭教師に教わり古代語、鳥人語、エデン語を学んだ。ヴァイオリンは苦手だったが、ピアノは大好き。勉学に対する姿勢や好奇心は、幼少期に育まれたのかと思われる。
学校に通い始めたのは九歳からだ。虫食い穴をいくつか経由して王都の学校へ行くようになった。学問は富の証明でもあるから、学校には裕福な家庭の子しかいない。貴族の子息も多くいた。そこで初めて、サチは差別を知ることとなる。
成績優秀だったサチは、身分以外に誇れるものがない連中から妬まれた。泳げない旧国民と馬鹿にされ、商人の家の私生児だと見下してくる者もいる。しかし、そんなことは取るに足らないことだった。
仲間は大勢いたし、先生にもかわいがられていた。屋敷に帰れば、親代わりの祖父母はサチを溺愛しており、島の住民や使用人たちにも「坊っちゃん」と呼ばれ慈しまれていたのである。
八年前、何もかもが変わった。
時間の壁が現れると同時に、祖父母が亡くなった。旅行中、船の事故に遭ったという話だが、そこらへんの詳しい事情をサチは思い出せない。
最愛の養父母が亡くなったことで気が動転していたのだろう。葬式から何から何まで、死後の手続きを一切合切、執事に任せてしまっていた。
こともあろうか、欲に目が眩んだ執事は領主にジーンニア家の資産の内訳や金庫の場所を教えてしまう。土地や不動産の権利書もすべて……
葬式から三日後、サチは他の使用人たちと同じく、屋敷から出て行くようにと申しつけられたのである。




