48話 救出(サチ視点)
まだ、入口付近に煙は来ていなかった。
外の喧騒から一転、バザール内はしんとしている。いつもだったら、客でごった返して身動きできないのが、安息日かと思うぐらい静かだった。
連なるのは台や布を置いたり、天幕を張って作っただけの簡易な商店だ。どの店も片付けておらず、商品も並べられたままだった。
きっと、ついさっきまで何の変哲もない日常が営まれていたのだろう。人だけが消滅したのだ。
無惨に引き裂かれた遺体が通路のあちらこちらに転がってなければ、怪事であった。遺体は起こった事実を如実に物語る。
こんな状況でも、サチはマリィがまだ生きていると信じて疑わなかった。
爆発音のした方へ声を張り上げ、名前を呼びながら走る。狭く入り組んだ通路は迷路のようだ。ドーム形が声をよく響かせる。
どんなに道が入り組んでいようが、サチは方向感覚に自信があった。
──大丈夫、見つけてみせる!
……と、暴れ狂う炎の音が聞こえてきた。森に潜む魔物なんかの比にならない。もっと大きな力を感じる。
三叉に分かれた道の一つから真っ赤な口を開け、迫り来る劫火が──熱を含んだ黒い煙が押し寄せてくる。
サチは体を強ばらせた。全身、カチンコチンの石になる──これが恐怖という感情なのだろう。
進めるわけがない。当然、別の道を選ぼうとした。ところが、微かな悲鳴が耳に入ってきたのである。
本当に微かな……聞き取れたのが奇跡と思われるぐらいの……
「マリィ!」
声を振り絞る。
……今度は確かに聞こえた。
炎がやって来る方向から、ほとんど掻き消されてはいるが、生きた人間が助けを求めている。うねり狂う黒い大蛇が迫ってくる、その向こうから……
サチは一寸の迷いなく、黒煙に飛び込んだ。
中は熱く、ほとんど何も見えない。煙が染みるので目を閉じた。音だけを頼りに前進する。消えそうだった声が徐々に大きくなっていく。
伸ばした左手がちょうどよく、天幕の切れ目に入り込んだ。
スルリ……サチは勢い余って天幕の中へ倒れこんでしまった。硬い何かに体を打ちつけ、うめき声を上げる。
そこにはシンプルな台があった。
冷たく湿った木の感触が指に伝わってくる。商品を載せる台だ。甘ったるいフルーツの香りと、ヒンヤリ澄んだ空気が鼻腔を通る。
この青果店の奥から子供の泣き声が聞こえてくる。
「おーい!」
目を閉じたまま、サチは奥へと入って行った。
近づくと、子供の泣き声は火が点いたみたいになった。半ばパニックになって、泣きじゃくっている。そして、どんどん近づいてくる。
声が耳元で聞こえた時、小さな手に腕をつかまれた。
そこでやっと、サチは目を開いた。男児が泣きじゃくり、こちらを見ていた。
「もう大丈夫だ。ケガはないか?」
サチの問いかけに、子供は首を縦に振った。しっかり天幕が張られていたため、青果店の奥まで煙は入り込んでいない。誰かが、開いていた店先を閉じ、天幕で閉め切ったのだ。
「でも……」
子供が言い淀んで指差した先に……いた!! マリィが!
紙のように白い顔をしたマリィが、壁にもたれかかっていた。
「マリィ!」
サチの声にマリィは微笑し、顔の色と同じ白い唇を動かした。言葉が聞き取れない。
「お姉ちゃんは爆発からボクを守ってくれたんだ!……でも、その時に足をケガしてしまって……血が止まらなくって……」
マリィの白いエプロンには血が滲んでいた。
「傷はどこだ?」
マリィは手をついて立ち上がり、ゆっくり後ろを向いた。
黒いスカートは血でベトベトに濡れている。まくり上げたところ、太股の裏にパックリ開いた裂傷があった。上から布を巻いてあったが緩く、傷を覆いきれていない。ダラダラと血が流れ続けていた。
──よかった。動脈は傷付いていない
しかし、マリィの様子から大量に出血したのだとわかった。
サチは駆け寄って、崩れそうなマリィを抱き止めた。
時間がない。上衣を脱いで、チュニックの袖を裂き、包帯の代わりにする。傷の上をきつく縛り上げた。一連の動作を数秒で終え、上衣を着て彼女を背負う。
「さあ、行こう!」
サチは少年にダブレットの袖を握らせた。すぐにここを出なければ……
「煙の中は何も見えない。手を離すんじゃないぞ?」
青果店を出ると、煙は濃度を増していた。
「目を閉じろ」
少年が咳き込む気配を感じる。火が近い。熱い。サチは目を閉じて感覚を研ぎ澄ました。
火と煙は広がっていても、出口までの距離は短い。生への執着がそうさせるのか、少年は痛いくらい強くサチの腕を握ってきた。
この子は必ず助ける。マリィが身を呈して守った子だ。それに、彼が呼び掛けに応じたから、マリィを見つけることができたのだ。
サチは少年の身長に合わせて屈み、早足で進み始めた。
三叉の交差点は、もう煙に覆われている。
薄目を開け、同じ道ということがやっとわかるだけで、その先は何も見えない。どこもかしこも、煙に通せんぼされていた。
サチは夢中で進んだ。交差点を抜けても、また交差点。目印は煙に隠されている。自信のあった方向感覚もだんだん、おぼつかなくなる。
道は枝分かれしていた。感情が先走るまえに、サチは考えようとする。炎はすぐそこまで来ている。
──とりあえず逃げなければ……でも、いったいどこへ……
それは天からの恵みだった。
レンガの壁をハンマーで叩く音が聞こえてきたのである。
──こっちだ!!
サチは音の方へ走り出した。腕をつかんでいた少年は半ば引きずられる形になる。
燃え広がりを防ぐため、自警団がドームの一部を破壊していた。早くしなければ、瓦礫に塞がれて逃げられなくなる。
「もうちょっと早く走れるか? あと少しだから頑張れ!」
声をかけると、少年は手に力を入れた。
壁を叩く音が大きくなる。叩く音とともに、ガラガラ崩れ落ちる音も聞こえてきた。はやる気持ちを抑え、サチは少年の速度に合わせた。
山でイアンを探している時、顔や腕にできた引っ掻き傷が、今頃になってチクチク痛む。
──シーマめ、今に見てろ! そのニヤケ顔を真顔にさせてやる。絶対に、絶対に後悔させてやるからな!!
強い決意に空気が同調した。
突然、呼吸がスッと楽になる。出口から流れ込んだ風が煙を追い払った。
網膜に鋭い痛みを感じ、サチは叫びそうになった。光に目を刺されたのだ。直後、ガラガラガラァッ……と壁が崩れ落ちる。
数キュビット※先で建物を破壊していた自警団の男と目が合った。驚きを隠せず、男は興奮した声を上げる。
「生存者だ!」
感情を抑えられなくなり、少年は嗚咽し始めた。気が抜けてしまったのだろう。幼いのによく耐えてくれたと、サチは賞賛してやりたくなった。
「君、年はいくつだ?」
少年はサチの腕から離れ、広げた右掌に左手で三本指を重ねた。
「八歳だな? 助かったんだ、もう泣くな、男なら」
サチは笑って、肺に新鮮な空気を取り込んだ。晴れ晴れとした気持ちだ。まだ、終わってないとはいえ……
「俺はサチ・ジーンニア。君の名は?」
少年はしゃくりあげながら、
「……シャウラ」
かすれ声で答えた。声を出せるだけでも、たいしたものだ。
「シャウラ、ありがとう。君のおかげで妹を助けることができた」
自警団の一人がシャウラに走り寄った。シャウラが哀れな被災児に見えたのだ。それならサチが救助者?
いいや──サチは心の中で否定した。俺がこの子に助けられたんだ──
「ケガはないか!? 歩けるか?」
自警団員の問いにシャウラはコクンとうなずく。泣いていても、乱れてはいない。
「灰色の兵士はどこへ行った?」
「爆発した」
今度は明瞭な声で、シャウラは答えた。
※キュビット……五十センチくらい




