47話 マリィ(サチ視点)
光を取り戻していくイアンの瞳を見ながらサチは思う。こいつ、なかなかしぶといじゃないか、と。
サチたちが立たされているのはまさに断崖絶壁だ。あと一歩でも後ろに下がれば、落下してしまう。ギリギリの所まで追い詰められている。
こんな苦境でもあきらめない。前を向けるのは強さの証だろう。お坊ちゃま育ちだからといって侮れない。
サチはイアンのことを見直した。
「あの時、おまえは大勢に囲まれて殴られていた。声をかけようと思ったんだ。でも……」
「イアン、時間がない! この馬に乗って、ローズ城へ帰ってくれ!」
サチはイアンの言葉を遮った。
思い出話をしている場合じゃない。あきらめない──生きようと思うのなら、行動しなくては。
今、王城へ戻るのは危険である。王城はカオルに任せておけばいい。城から出なければいいだけだから、馬鹿でもできるだろう。
撤退した兵を受け入れて、一週間籠城する。それだけだ。外に出て戦えという話ではない。文は送った……任せても大丈夫だ。
火が山を覆い尽くすまえに、イアンはローズ城へ帰ったほうがいい。シーラズには、ローズへ繋がる虫食い穴がある。
「サチ、おまえはどうする?」
「この山を下りた先に妹がいる。妹の無事を確認したら、俺もすぐローズへ向かう」
イアンは不安な表情になった。
「信じていいんだな?」
サチは袖をまくって左腕の傷を見せた。
ふたたび、イアンの瞳に赤々と燃える炎が宿る。イアンはうなずいて馬に飛び乗った。
上空に逃れていたのだろう。タイミングよくダモンが飛んできて、幼い主人の肩にとまった。ダモンはオウムにしては大きい鳥だ。サチにもよく懐いている。
「精霊の祝福を!」
別れの挨拶をし、サチは振り返らずに山を駆け降りた。
湖のほとりの町は漁業と絨毯産業で栄えている。湖では蝶鮫の養殖が盛んで、主国内では珍しい工場が建ち並んでいた。
妹のマリィは富裕な商家でメイドとして働いている。
サチがマリィをこの地に就職させたのは、父の暴力から守るためであった。貯金ができたら、迎えに行くつもりだったのだ。妹はサチにとって父を除いて唯一の肉親であり、心の支えだった。
王城へ向かう灰色の兵士たちがこの付近を通るのは、わかりきっていた。妹のことがずっと、気がかりだったのである。
立ち上る煙の原因は、間違いなくオートマトンだろう。司令官の指令が行き届かない場合、彼らは動くものならなんでも攻撃する。一体だけでも、武器を持たぬ民にとっては大きな脅威だ。
町に着くと、どの建物も固く戸を閉ざしていた。いつも大勢の人で賑わう大通りの店はどこもやっていない。人通りもなかった。
煙が立ち上っている方角から数人、必死の形相で逃げてくる。
「何があった?」
尋ねたが、母娘と思われる二人は、いっそうおびえた顔をして走り去ってしまった。
顔が煤だらけだったことをサチは忘れていた。地面に張り付いていたため、衣服も土で汚れている。ハンケチを水筒の水で濡らし、顔を拭った。
マリィがいる屋敷は煙が上っている場所と合致する。
また何人かが逃げて来たので問いかけると、今度は回答を得ることができた。制御を失ったオートマトンがバザールの中で暴れているのだという。
バザールは、レンガ造りのドームがいくつも連なってできている。入り組んだ通路の両端には種々雑多な店が立ち並び、複合商業施設を形成していた。
こういった施設はモズやカワウで多く見られるが、かつてカワウと盛んに交易していたこの町にもあった。
シーマの父ジェラルド・シャルドン──シーラズ卿は、良いものは敵国のものであろうが関係なく取り入れた。結果、シラーズは産業と漁業、商業の三本柱で栄え、戦時中も物資に困らないほど裕福になったのである。
煙が上っているのは、このバザールからだった。バザールはマリィが働く屋敷の目と鼻の先にある。
先にサチは屋敷を訪ねた。
この町で一番大きな屋敷は、他の家と同じくひっそりとしていた。
呼鈴を鳴らし、ドアを叩く。何度も何度も……
逃げ行く人々の足音や泣き叫ぶ声が追い風となって、サチは乱暴に拳を叩きつけた。
だが、なかなか開けてはくれない。
拳が痛くなって、ようやくのぞき窓が開いた。
見覚えのある目だ。白が混じった睫毛と、細かい皺が刻まれた目元は気難しい印象を与える。
「何用です?」
初老の女性はこの屋敷の家政婦長だった。家政婦長は用心深く、サチのことをジロジロと観察した。彼女とはマリィを預ける時に一度会っている。
「サチ・ジーンニアです。マリィの兄の」
「ああ」
うなずいたものの、こわばった顔は緩まなかった。
「マリィはバザールへお使いに行ったまま、帰って来ないのです……」
彼女が言い終わるまえに、サチは一礼だけして走り始めた。
バザールから立ち上る煙は勢いを増している。
屈強な男たちが大型のハンマーやロープ、ノコギリなどの道具を持ってドームの前に立っていた。町の自警団だろうか。火がこれ以上燃え広がらないよう、建物の破壊をしようとしている。
「待ってくれ! なかに妹がいるんだ!!」
駆け寄り、サチは懇願した。男たちは中へ入ろうとするサチを取り押さえた。
「なかは危険だ! 生存者の救出はもう終わっている!」
「放せ! 俺は行く! 妹はまだ生きてる!」
サチは暴れて、男たちを困らせた。
突如……
耳をつんざく破壊音が地を揺るがした。
オートマトンが自爆したのか、危険物に引火したのか。皆が息を呑んで音の方を見た。
──今だ!!
サチは男たちの手を振りほどき、アーチ型の入口の向こうへ身を滑らせた。




