43話 イアンの謝罪(サチ視点)
心を失った女兵士には、すぐ向かうと伝え、サチは身仕度を始めた。
血塗れた手を丁寧に拭き、服を着る。動くたびに激痛が走ろうが、休んでいる暇などない。
「大丈夫なのか? 寝ていたほうが……死んだら元も子もないだろう」
心配そうに顔をのぞき込むイアンをサチは笑った。
「平気、平気! イアンを一人で行かせるわけにはいかないさ。ちゃんと付き添う」
「そうは言っても……」
イアンは不安を滲ませた。
サチも自分が死ぬのではないかと、不安にはなった。だが、痛みは収まらなくとも、服を着ていくうちに朦朧としていた意識が明瞭になってきた。
自分の体のことは、自分が一番よくわかっている。これなら行けると判断したのである。
幸いだったのは、イアンが愚か者だったことだ。本人が大丈夫と言っても、まともな主人だったら許可しないだろう。それぐらいの重傷だった。
戦闘以外で、的確な状況判断をし、冷静な行動を取ることがイアンにはできない。今回の内戦において、その静的な役割をサチが担っていた。
イアンは心配しつつ、信頼するサチの言葉を信じた。
仮に、サチの主がユゼフやシーマだったのなら、絶対に行かせなかっただろう。イアンはシーマの指摘するように無能だった。
リンドバーグの軍船に向かう途中、サチは壮絶な痛みに耐えた。痛みというのは暴力だ。暴力にさらされると、正常な意思決定ができなくなる。ボートが揺れるたびに、これは正しかったのか、意味のあることなのかと葛藤した。
なぜか、月光を反射して水上に跳ね上がる魚の腹が、とても旨そうに見えた。体が血を欲している。
──変な気持ちだな? 失血したからといって、血がほしくなるとは単純な体だ
そうは思っても、本能的衝動は抑えられなかった。
羽を広げた魚がしぶき上げ、たまたま手の届く位置まで来た時、サチは思わずつかみ取ってしまった。そのまま口へ入れ、頭からバリバリと食べてしまったのである。
船尾にいたので、船頭には気づかれなかったが、近くにいるイアンには見られていた。
イアンは恐れと好奇の入り混じった目で凝視している。
サチも自分の行動にびっくりしていた。しかし、すぐにこれが合理的行動なのだと理解する。ダルくて重かった体に力がみなぎってきたからである。
──なに、シンプルなことだ。失血により、血に含まれる栄養素が不足していた。今、それを補ったのだ
不可解な行動も理由がわかっていれば、問題ない。
サチはイアンに言い訳した。
「これはだな、血を補っていたのだ」
「……血を?」
「そうだ。出血がひどいため、鉄やらその他の栄養素やらが不足し、全体的に不調だった。それを補っただけだ」
「そ、そうなのか……? なるほど」
若干、引き気味ではあったが、イアンはそれで納得した。サチも自分の行動を十割理解したわけではない。論より証拠である。冷え切った体が熱を帯び、元気になった。
口の周りを拭い、イアンから借りた香水で生臭さをごまかす。意気揚々とリンドバーグの軍船へ乗り込んだ。
リンドバーグは船室ではなく、甲板で待っていた。
ギリギリまで待たされたからだろう。柔和な丸い顔が四角く見えるほどのしかめ面だった。
普段、穏やかな人にこんな顔をさせるとは相当である。ちょっとしたきっかけで、今にも爆発しそうだった。
険しい顔のリンドバーグを見て、サチは付いてきて良かったと思った。
イアンは高身長だから、必然的に相手を見下ろす形になる。いるだけで態度がデカいと捉えられかねないのだ。現にリンドバーグはイアンの姿を見ても、表情を和らげなかった。
緊迫──
張り詰めた空気をイアンが切り裂いた。
イアンはこれまでの言動からは想像もつかないほど、しおらしい態度でリンドバーグの前に跪き、頭を垂れた。うっすら涙まで浮かべている。
「まだ子供だったとはいえ、貴殿に酷い行いをしました。どんなに謝っても、傷つけられた誇りは取り戻せないかもしれません。愚かな私はありもしない噂を信じ、あなたへの行いを正当化しようとしました。卑劣な人間です。後ほど、自分が犯した罪を理解した時、心から戦慄いたしました。臆病で卑怯者の私は今の今まで、罪の深さにおびえ、貴殿の前に姿を現すことすらできなかったのです」
流れ出る謝罪の言葉にサチは開いた口がふさがらなかった。イアンの人格が別人になっている。
「この機会にどうぞ、思う存分になじってください。私が貴殿にしたように蹴っていただいて構いません。それ以上の暴力にも耐える覚悟で、ここに参りました。けっして許されない罪を少しでも贖わせてください。恥知らずな私に報復していただきたいのです」
イアンはそこまで言うと、言葉を詰まらせた。涙が一滴、甲板にこぼれ落ちる。
顔を上げ、役者が見せるような綺麗な泣き顔をリンドバーグに見せた。
「これは金銭だけでは解決できない問題です。お許しいただけるのなら、どんな罰でも受ける所存です」
これが演技なのかどうか、サチには判別できなかった。
演技だとしたら、巧みである。
唇は小刻みに震え、涙は堪えきれず溢れてしまったかのように見える。
普段から感情豊かなイアンだからこそ、謝罪するのも真に迫っていた。
──なかなかやるじゃないか?
ひょっとして謝り慣れているのか? 幼いころより、問題ばかり起こし続けていて、何度も謝罪している。それでか?──あやうく、感情移入しそうになってしまう。
サチは小さくホッと息を吐いた。安堵までいかないものの、一息つけるぐらいには緊張が解けた。このまま出しゃばらず、イアンに任せてもいいかもしれない。
驚いていたリンドバーグは、やがて優しい表情になり、もらい泣きまでし始めた。お人好しだ。
「私も君に酷いことを言ってしまった……その、髪のことを……」
「……この髪色のせいで、両親に愛してもらえませんでした」
「そうなのか……傷つけることを言って悪かった」
「淋しくて、親に構ってもらうために悪いことをするようになりました……これは言い訳ではないです。どんな理由があるにせよ、あなた様のようなお優しく立派な方に、やってはいけないことをしました」
「わかった。君の気持ちはよくわかった。金のことはどうでもいい。謝ってくれて嬉しかった。サチ、君にも感謝する」
リンドバーグは後ろで見守っていたサチに視線を移した。
「ここで我々が交戦すれば、お互い無駄に兵を失っていた。私のほうが兵数は不利だから、命を失っていた可能性だってある。君は私の誇りを回復させただけでなく、命の恩人だよ。心から感謝する」
サチは苦笑いした。
「そんな大げさな……」
魚を食ったおかげか、腹の傷が塞がってきたような気がする。サチはわだかまりなく微笑むことができた。
涙を拭い、立ち上がったイアンは、
「リンドバーグ卿、お願いがあります。短剣をお借りできないでしょうか?」
不意に申し出た。
リンドバーグに誠意を見せるため、サチたちは丸腰である。武器はいっさい身に付けていない。
リンドバーグの顔色が変わった。
「短剣を? なんのために? まさか自らを傷つけるのではあるまいな?」
「いえ。髪を切らせていただきたいのです」
イアンは貴族の多くがそうするように赤毛を長く伸ばしていた。伸ばすのには何年もかかっただろう。丁寧に編みこまれた赤毛は腰まで垂れている。
イアンは大きな目でリンドバーグを見つめ、はっきりとした口調で、
「言葉で謝罪するだけでは足りません。せめて、髪を切ることで償わせていただきたいのです」
と言った。
リンドバーグは渋っていたものの、イアンの決意の固さを感じたのだろう。ダガーを渡した。
ダガーを受け取ったイアンは、なんの躊躇いもなく、背中に手を回した。そして、腰の辺りまであった赤毛を襟足付近で、バッサリ切り落としてしまったのである。
一瞬で終わった。
想像だにしなかったイアンの言動に、サチは少なからず感心していた。謝罪の態度も然り。思っていたより、イアンは成長しているのかもしれない。
「この髪の毛はイアン、君の謝罪の証として大事に保管しておこう」
燃えるような赤毛を渡されたリンドバーグは、二枚重ねの絹布に優しくくるんだ。
(登場人物)
サチ・ジーンニア……イアン・ローズに仕える。ユゼフの親友。まっすぐで、後ろ暗いところがない性格。
イアン・ローズ……名家ローズ家の長男。謀叛を起こす。ユゼフの従兄弟。赤毛で激しい気性。
カオル・ヴァレリアン……イアンの家来。壁の向こう、盗賊の頭領、アキラの兄。ヴァレリアン家へ養子に入ったらしい。美男子。
リンドバーグ……アニュラス東沿岸を守る貴族。クロノス国王側(シーマの方)につく。昔、イアンにされたことを根に持っている。
ヴィナス王女……鳥の王国第二王女。ディアナとは腹違いでローズと血縁がある。イアンは従兄弟。
ガラク・サーシズ……イアンをそそのかして謀反を起こさせる。シーマの間者。未成年の王子たちを暗殺する。
シーマ・シャルドン……謀叛により、王城を追われた国王を匿い、王連合軍を率いる。謀反人イアンと対立する。




