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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第一部 新しい王の誕生(前編)三章 策略
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43話 イアンの謝罪(サチ視点)

 心を失った女兵士には、すぐ向かうと伝え、サチは身仕度を始めた。

 血塗れた手を丁寧に拭き、服を着る。動くたびに激痛が走ろうが、休んでいる暇などない。


「大丈夫なのか? 寝ていたほうが……死んだら元も子もないだろう」


 心配そうに顔をのぞき込むイアンをサチは笑った。


「平気、平気! イアンを一人で行かせるわけにはいかないさ。ちゃんと付き添う」

「そうは言っても……」


 イアンは不安を滲ませた。

 サチも自分が死ぬのではないかと、不安にはなった。だが、痛みは収まらなくとも、服を着ていくうちに朦朧としていた意識が明瞭になってきた。

 自分の体のことは、自分が一番よくわかっている。これなら行けると判断したのである。

 幸いだったのは、イアンが愚か者だったことだ。本人が大丈夫と言っても、まともな主人だったら許可しないだろう。それぐらいの重傷だった。

 

 戦闘以外で、的確な状況判断をし、冷静な行動を取ることがイアンにはできない。今回の内戦において、その静的な役割をサチが担っていた。 

 イアンは心配しつつ、信頼するサチの言葉を信じた。

 仮に、サチの主がユゼフやシーマだったのなら、絶対に行かせなかっただろう。イアンはシーマの指摘するように無能だった。


 リンドバーグの軍船に向かう途中、サチは壮絶な痛みに耐えた。痛みというのは暴力だ。暴力にさらされると、正常な意思決定ができなくなる。ボートが揺れるたびに、これは正しかったのか、意味のあることなのかと葛藤した。

 なぜか、月光を反射して水上に跳ね上がる魚の腹が、とても旨そうに見えた。体が血を欲している。


 ──変な気持ちだな? 失血したからといって、血がほしくなるとは単純な体だ


 そうは思っても、本能的衝動は抑えられなかった。

 羽を広げた魚がしぶき上げ、たまたま手の届く位置まで来た時、サチは思わずつかみ取ってしまった。そのまま口へ入れ、頭からバリバリと食べてしまったのである。


 船尾にいたので、船頭には気づかれなかったが、近くにいるイアンには見られていた。

 イアンは恐れと好奇の入り混じった目で凝視している。

 サチも自分の行動にびっくりしていた。しかし、すぐにこれが合理的行動なのだと理解する。ダルくて重かった体に力がみなぎってきたからである。


 ──なに、シンプルなことだ。失血により、血に含まれる栄養素が不足していた。今、それを補ったのだ


 不可解な行動も理由がわかっていれば、問題ない。

 サチはイアンに言い訳した。


「これはだな、血を補っていたのだ」

「……血を?」

「そうだ。出血がひどいため、鉄やらその他の栄養素やらが不足し、全体的に不調だった。それを補っただけだ」

「そ、そうなのか……? なるほど」


 若干、引き気味ではあったが、イアンはそれで納得した。サチも自分の行動を十割理解したわけではない。論より証拠である。冷え切った体が熱を帯び、元気になった。

 口の周りを拭い、イアンから借りた香水で生臭さをごまかす。意気揚々とリンドバーグの軍船へ乗り込んだ。



 

 リンドバーグは船室ではなく、甲板で待っていた。

 ギリギリまで待たされたからだろう。柔和な丸い顔が四角く見えるほどのしかめ面だった。

 普段、穏やかな人にこんな顔をさせるとは相当である。ちょっとしたきっかけで、今にも爆発しそうだった。


 険しい顔のリンドバーグを見て、サチは付いてきて良かったと思った。

 イアンは高身長だから、必然的に相手を見下ろす形になる。いるだけで態度がデカいと捉えられかねないのだ。現にリンドバーグはイアンの姿を見ても、表情を和らげなかった。


 緊迫──


 張り詰めた空気をイアンが切り裂いた。

 イアンはこれまでの言動からは想像もつかないほど、しおらしい態度でリンドバーグの前に(ひざまず)き、頭を垂れた。うっすら涙まで浮かべている。


「まだ子供だったとはいえ、貴殿に酷い行いをしました。どんなに謝っても、傷つけられた誇りは取り戻せないかもしれません。愚かな私はありもしない噂を信じ、あなたへの行いを正当化しようとしました。卑劣な人間です。後ほど、自分が犯した罪を理解した時、心から戦慄いたしました。臆病で卑怯者の私は今の今まで、罪の深さにおびえ、貴殿の前に姿を現すことすらできなかったのです」


 流れ出る謝罪の言葉にサチは開いた口がふさがらなかった。イアンの人格が別人になっている。


「この機会にどうぞ、思う存分になじってください。私が貴殿にしたように蹴っていただいて構いません。それ以上の暴力にも耐える覚悟で、ここに参りました。けっして許されない罪を少しでも(あがな)わせてください。恥知らずな私に報復していただきたいのです」


 イアンはそこまで言うと、言葉を詰まらせた。涙が一滴、甲板にこぼれ落ちる。

 顔を上げ、役者が見せるような綺麗な泣き顔をリンドバーグに見せた。


「これは金銭だけでは解決できない問題です。お許しいただけるのなら、どんな罰でも受ける所存です」


 これが演技なのかどうか、サチには判別できなかった。

 演技だとしたら、巧みである。

 唇は小刻みに震え、涙は堪えきれず溢れてしまったかのように見える。

 普段から感情豊かなイアンだからこそ、謝罪するのも真に迫っていた。


 ──なかなかやるじゃないか?


 ひょっとして謝り慣れているのか? 幼いころより、問題ばかり起こし続けていて、何度も謝罪している。それでか?──あやうく、感情移入しそうになってしまう。

 サチは小さくホッと息を吐いた。安堵までいかないものの、一息つけるぐらいには緊張が解けた。このまま出しゃばらず、イアンに任せてもいいかもしれない。

 驚いていたリンドバーグは、やがて優しい表情になり、もらい泣きまでし始めた。お人好しだ。


「私も君に酷いことを言ってしまった……その、髪のことを……」

「……この髪色のせいで、両親に愛してもらえませんでした」

「そうなのか……傷つけることを言って悪かった」

「淋しくて、親に構ってもらうために悪いことをするようになりました……これは言い訳ではないです。どんな理由があるにせよ、あなた様のようなお優しく立派な方に、やってはいけないことをしました」

「わかった。君の気持ちはよくわかった。金のことはどうでもいい。謝ってくれて嬉しかった。サチ、君にも感謝する」

 

 リンドバーグは後ろで見守っていたサチに視線を移した。


「ここで我々が交戦すれば、お互い無駄に兵を失っていた。私のほうが兵数は不利だから、命を失っていた可能性だってある。君は私の誇りを回復させただけでなく、命の恩人だよ。心から感謝する」


 サチは苦笑いした。


「そんな大げさな……」


 魚を食ったおかげか、腹の傷が塞がってきたような気がする。サチはわだかまりなく微笑むことができた。

 涙を拭い、立ち上がったイアンは、


「リンドバーグ卿、お願いがあります。短剣をお借りできないでしょうか?」


 不意に申し出た。

 リンドバーグに誠意を見せるため、サチたちは丸腰である。武器はいっさい身に付けていない。

 リンドバーグの顔色が変わった。


「短剣を? なんのために? まさか自らを傷つけるのではあるまいな?」

「いえ。髪を切らせていただきたいのです」


 イアンは貴族の多くがそうするように赤毛を長く伸ばしていた。伸ばすのには何年もかかっただろう。丁寧に編みこまれた赤毛は腰まで垂れている。

 イアンは大きな目でリンドバーグを見つめ、はっきりとした口調で、


「言葉で謝罪するだけでは足りません。せめて、髪を切ることで償わせていただきたいのです」


 と言った。

 リンドバーグは渋っていたものの、イアンの決意の固さを感じたのだろう。ダガーを渡した。


 ダガーを受け取ったイアンは、なんの躊躇いもなく、背中に手を回した。そして、腰の辺りまであった赤毛を襟足付近で、バッサリ切り落としてしまったのである。

 一瞬で終わった。

 想像だにしなかったイアンの言動に、サチは少なからず感心していた。謝罪の態度も然り。思っていたより、イアンは成長しているのかもしれない。


「この髪の毛はイアン、君の謝罪の証として大事に保管しておこう」


 燃えるような赤毛を渡されたリンドバーグは、二枚重ねの絹布に優しくくるんだ。

 (登場人物)


サチ・ジーンニア……イアン・ローズに仕える。ユゼフの親友。まっすぐで、後ろ暗いところがない性格。


イアン・ローズ……名家ローズ家の長男。謀叛を起こす。ユゼフの従兄弟。赤毛で激しい気性。


カオル・ヴァレリアン……イアンの家来。壁の向こう、盗賊の頭領、アキラの兄。ヴァレリアン家へ養子に入ったらしい。美男子。


リンドバーグ……アニュラス東沿岸を守る貴族。クロノス国王側(シーマの方)につく。昔、イアンにされたことを根に持っている。


ヴィナス王女……鳥の王国第二王女。ディアナとは腹違いでローズと血縁がある。イアンは従兄弟。


ガラク・サーシズ……イアンをそそのかして謀反を起こさせる。シーマの間者。未成年の王子たちを暗殺する。


シーマ・シャルドン……謀叛により、王城を追われた国王を匿い、王連合軍を率いる。謀反人イアンと対立する。

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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる設定集

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― 新着の感想 ―
[良い点] イアンの真に迫った謝罪も、迫真の演技のようで、どこかおかしいですね。 腹を切ったサチが、魚を食べて回復したエピソードを見るに、彼も亜人なのでは?、と勘繰ってしまいました。
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