70話 ある人の父の記憶
カオル……信じてる。
力尽きたイアンは湖底へ真っ逆様に落ちていった。やり切ったあとは集中力が切れ、ぼんやりしてしまう。
これからどうするか? 誰かに助けてもらわねば、体は浮かないので、死ぬしかないのだが。現実感がなかった。
水面はヒュドラの流した血で赤く汚れた。煙のごとく揺らめく血潮は、少しずつ下へ降りてきている。澄んだ湖底もやがて赤く染まるだろう。
一つ、魂の綿毛が寂しく浮遊していた。
ヒュドラが出現するまえに、湖全体を覆っていた綿毛は他には残っていなかった。
天井には逃れていなかったし、湖底にもいないところをみると、完全に消えてしまったのである。
不思議なのは光源を失っても洞内が明るいことだ。湖自体が発光している。ひょっとしたら、綿毛が溶け込んだせいかもしれなかった。
──そういや、泉の水ってどこにあるんだろう? まさか、ここが?
どう考えても、ヒュドラがラスボスである。もう一つ、ヒュドラに準ずる気配も今は消えてしまっている。
──誰か倒した?
アスターだろうか……しかし、相当数のオーガを相手にしたあと、短時間で別の化け物を倒すことなんてことが、できるのだろうか。
──まさか、サチとイザベラ?
イアンの記憶だと、サチはてんで使えなかったはず。賢いし、なんでも器用にこなすのに戦いだけはダメだった。
──じゃ、イザベラ……?
吹き出しそうになり、イアンは慌てて口を抑えた。
──いったい、なんなんだよ? あいつは?
奔放、高慢。だが、気取らず、おおらか。欲望に従順なのはイアンと同じだ。好き嫌いがはっきりしているのは気持ち良い。女のくせに男より強いし、優位性まで主張してくる。が、けっして男らしいわけではなく、あくまで乙女。サチ・ジーンニアに夢中である。
──あいつなら化け物でも倒せそう
サチも、とんでもないのに好かれたもんだと、イアンは苦笑いした。
……思考が飛んでしまった。イザべラのせいだ。
──てことは……やっぱり最後の敵がヒュドラか? だとしたら、ここの湖は……
イアンは動揺し始めた。その証拠に指先の感覚がおかしくなっている。すべる指先で胸元に閉まってある小瓶を取り出した。
──マジか?……ここが不老不死の泉!?
蓋を開ける手元が狂い、危うく落としそうになる。
その時、音程の外れた不気味な音が鼓膜を打った。旋律という概念を長い紙に載せた場合、それをイヤってほど波打たせたような音だ。乗り物酔いしたみたいに気持ち悪くなる。加えて、地面が揺れ出した。
──落ち着け! 落ち着け、俺!
小瓶を水で満たし、なんとか封をし、胸元にしまい、水面を見上げ……イアンは固まった。
黒く巨大な塊が落ちてくる。
たくさんの泡をごぼごぼ浮き上がらせ、赤黒い血のインクを撒き散らしながら……頭上を覆う巨魁。カオルがヒュドラを倒したのだ。
イアンは必死に逃れようとした。もがいて、もがいて……陸では素早いのに、水の中ではナメクジと同じレベルになる。さらには、水抵抗と揺れが邪魔する。
あの巨体の下になっては、いくら魔人といえども助かるまい。
──誰か……助け
情けない叫びは渦潮がさらっていった。今度は足元から渦が巻き上がったのである。
ゴボッ……ガハッ……
イアンは思わず水を吸い込んでしまった。
──苦しい……
グルグルグルグル……そのまま渦の中へと取り込まれる。
色鮮やかな星が目に飛び込んできた。頭を鴨居にしこたまぶつけた時、見るアレだ。高身長だとこういうことはよくある。
──くそ……死ぬのか、俺は
思えば、周りに迷惑ばかりかけて生きてきた。わがまま、乱暴、癇癪持ち。これで誰かに愛されようだなんて、そもそもおこがましかったのだ。カオルが言ったとおりの嫌われ者。誰にも愛されず悲しまれず、このまま朽ちていく。
腹違いの弟、アダムの母親が息子を慈しむ姿を見て、イアンは心底羨ましいと思った。
それを見たのはどこだったか──
確かローズ城の玄関ホールだったかもしれない。別れを惜しむ親子の姿に、少年時代のイアンは嫉妬の眼差しを向けていた。
アダムの母はそうっと髪を掻き分け、アダムの額に唇をつけた。まるで、壊れやすい宝飾品を扱うよう丁重に。でも、抱擁する時は目一杯ぎゅうっと抱き締めるのだ。
彼女は義父がどこかで買った安い娼婦だ。派手な化粧をした下品で低劣な女。それが天女に見えた。
イアンは腰元に手をやった。
九歳の誕生日に母が送ってくれた短剣がそこにあるはずだった。二十歳まで、毎年誕生日に贈られてきた匿名のプレゼント──精霊が送ってくれているのだと、ずっと思い込んでいた。なぜなら、その時イアンがほしい物、嬉しい物が必ず届いたからだ。
──ヴィナス様……母上
短剣はそこにはなかった。
忘れていた。さっき、それでヒュドラの口を刺したじゃないか。そのまま……
イアンは嗚咽した。いや、水の中で呼吸もできないのに、それを嗚咽と言うのかどうか。身体は水中の嵐に振り回されている。
──シオンは母上のもとへ参ります。ごめんなさい、泉の水を取ってこれなくて。シーマを助けられなくて……
星のチカチカが激しくなってきた。鬱陶しいほど瞬く星の中に綿毛がチラリ。先ほど浮かんでいた迷子の綿毛か──
とたんに視界が暗くなる。
†† †† †† ††
これは死んだ誰かの記憶──
城持ちでない貴族にとって、貴族社会は世知辛いものだ。騎士だ、英雄だと持て囃されても庶民と変わらぬ生活だったりする。いや、裕福な商人や豪農と比べればそれ以下。
見栄ばかり気にして虚栄心を膨らませる惨めな底辺。誇り? 忠義? そんなのは建て前だ。私はただ必死に家族を守りたかった──
出立のまえ、子供たちはいつもどおりだった。いや、一人だけ……
責める目を向ける長男の頭を男はクシャクシャ撫でた。その尖った耳に口を寄せる。
「ジャメル、そんな目をするな。弟たちが見ているぞ?」
ジャメルは唇を噛み、必死に堪えているようだった。ああ、この子は賢いから、すべお見通しなのだと男は察した。
これから激戦区へ向かうのだ。モズのソラン山脈へ。主国がモズの国境を犯している。
甲冑姿の男は脇に抱えた兜をかぶった。泣き顔を子供たちには見せられない。
(よく磨かれた兜に映り込んだ男の風貌はカワウ人だ。状況から察するに二十八年前の東南戦争※の時だろう──イアンは思った)
死ぬかもしれない。
だが、そんなことは口にしたくなかった。唯一の心残りは長男のジャメルである。
この子はひたむきで我慢強い性格だ。そして賢い。子供たちの中で一番騎士に向いている。家名くらいしかないが、継いでもらいたいと男は思っていた。
ただ一つ問題が。
ジャメルは亜人として生まれてきてしまった。
特徴は耳が尖っているだけだ。それでも亜人は亜人。差別の対象である。
周囲から耳を切ればいいと言われても、男は頑なに拒み続けていた。ジャメルの身体を傷つけたくなかったのだ。
後妻を娶らなかったのもこの子が原因。結婚すればこの子は……ジャメルは追いやられる、そう思ったのである。
男はそのことをとても後悔していた。
もし自分が死んだとき、残された子供たちはどうなるのか? 他の子たちはいい。おそらく、親戚が引き取ってくれるだろう。先の戦争で男はそこそこ勇名を馳せたから、無碍にできないはずだ。
でも、ジャメルは?
亜人だ。
引き取ってくれる家はないだろう。
亡くなった妻の実家にさえ、ジャメルは連れて行けなかった。血のつながった孫だというのに……
ジャメルは妻に一番似ていた。この子に特別思い入れがあるのは、そのせいかもしれない。
男はジャメルに囁いた。
「ジャメル、覚えているか? おまえが家出した時、言ったことを」
つやつやした黒い目が見開かれる。それに見入りながら男は思う。
ああ、似てる。愛したあの人に。
「……決して折れない剣とまばゆい水晶……」
「そうだ、おまえのことだよ」
幼い少年ははにかんだ。そう、それでいい。
別れる時、男は笑うんだよ。戦士になるのなら強くなれ。
おまえはこれから虐げられるかもしれない。屈辱を与えられるかもしれない。理不尽な暴力を振るわれることもあるかもしれない。
でも負けてはいけないよ。
生きるんだ。
何があっても。
人間らしく。
※アニュラス東南戦争……王立歴三〇〇年、独立後のモズの覇権を巡って主国とグリンデル、カワウの三国で争った戦争。主国から援軍が送られ、モズのソラン山脈は戦場となった。
設定集↓↓↓「アニュラスの歴史」をご参照ください。
https://book1.adouzi.eu.org/N8221GW/
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「イアン!! おいこら、イアン!!」
──誰だ?
なんだか獣臭い。鼓膜を叩くのは轟音だ。
ドドドドドドドドド……
──何の音だ?
薄目を開けると、鳥の顔があった。
──鳥っ!? 鳥人!?
ドドドドドドドドド……
「なにビビりてやがる。我なり。太郎なり」
──太郎!?……天狗の!?
イアンはようやく状況を把握した。天狗の太郎に抱きかかえられ、空を飛んでいる。
ドドドドドドドド……この音は?
滝だ。
ローズ城の塔より高い所から滝が流れ落ちていた。




