表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第二部 イアン・ローズとは(後編)二章 神々の島エデン
388/914

70話 ある人の父の記憶

 カオル……信じてる。

 

 力尽きたイアンは湖底へ真っ逆様に落ちていった。やり切ったあとは集中力が切れ、ぼんやりしてしまう。

 これからどうするか? 誰かに助けてもらわねば、体は浮かないので、死ぬしかないのだが。現実感がなかった。

 水面はヒュドラの流した血で赤く汚れた。煙のごとく揺らめく血潮は、少しずつ下へ降りてきている。澄んだ湖底もやがて赤く染まるだろう。


 一つ、魂の綿毛が寂しく浮遊していた。


 ヒュドラが出現するまえに、湖全体を覆っていた綿毛は他には残っていなかった。

 天井には逃れていなかったし、湖底にもいないところをみると、完全に消えてしまったのである。

 不思議なのは光源を失っても洞内が明るいことだ。湖自体が発光している。ひょっとしたら、綿毛が溶け込んだせいかもしれなかった。


 ──そういや、泉の水ってどこにあるんだろう? まさか、ここが?


 どう考えても、ヒュドラがラスボスである。もう一つ、ヒュドラに準ずる気配も今は消えてしまっている。


 ──誰か倒した?


 アスターだろうか……しかし、相当数のオーガを相手にしたあと、短時間で別の化け物を倒すことなんてことが、できるのだろうか。

 

 ──まさか、サチとイザベラ?


 イアンの記憶だと、サチはてんで使えなかったはず。賢いし、なんでも器用にこなすのに戦いだけはダメだった。


 ──じゃ、イザベラ……?


 吹き出しそうになり、イアンは慌てて口を抑えた。


 ──いったい、なんなんだよ? あいつは?


 奔放、高慢。だが、気取らず、おおらか。欲望に従順なのはイアンと同じだ。好き嫌いがはっきりしているのは気持ち良い。女のくせに男より強いし、優位性まで主張してくる。が、けっして男らしいわけではなく、あくまで乙女。サチ・ジーンニアに夢中である。


 ──あいつなら化け物でも倒せそう


 サチも、とんでもないのに好かれたもんだと、イアンは苦笑いした。

 ……思考が飛んでしまった。イザべラのせいだ。


 ──てことは……やっぱり最後の敵がヒュドラか? だとしたら、ここの湖は……


 イアンは動揺し始めた。その証拠に指先の感覚がおかしくなっている。すべる指先で胸元に閉まってある小瓶を取り出した。


 ──マジか?……ここが不老不死の泉!?


 蓋を開ける手元が狂い、危うく落としそうになる。

 その時、音程の外れた不気味な音が鼓膜を打った。旋律という概念を長い紙に載せた場合、それをイヤってほど波打たせたような音だ。乗り物酔いしたみたいに気持ち悪くなる。加えて、地面が揺れ出した。


 ──落ち着け! 落ち着け、俺!


 小瓶を水で満たし、なんとか封をし、胸元にしまい、水面を見上げ……イアンは固まった。


 黒く巨大な塊が落ちてくる。

 たくさんの泡をごぼごぼ浮き上がらせ、赤黒い血のインクを撒き散らしながら……頭上を覆う巨魁。カオルがヒュドラを倒したのだ。


 イアンは必死に逃れようとした。もがいて、もがいて……陸では素早いのに、水の中ではナメクジと同じレベルになる。さらには、水抵抗と揺れが邪魔する。

 あの巨体の下になっては、いくら魔人といえども助かるまい。


 ──誰か……助け


 情けない叫びは渦潮がさらっていった。今度は足元から渦が巻き上がったのである。


 ゴボッ……ガハッ……

 イアンは思わず水を吸い込んでしまった。


 ──苦しい……


 グルグルグルグル……そのまま渦の中へと取り込まれる。

 色鮮やかな星が目に飛び込んできた。頭を鴨居にしこたまぶつけた時、見るアレだ。高身長だとこういうことはよくある。


 ──くそ……死ぬのか、俺は


 思えば、周りに迷惑ばかりかけて生きてきた。わがまま、乱暴、癇癪持ち。これで誰かに愛されようだなんて、そもそもおこがましかったのだ。カオルが言ったとおりの嫌われ者。誰にも愛されず悲しまれず、このまま朽ちていく。


 腹違いの弟、アダムの母親が息子を慈しむ姿を見て、イアンは心底羨ましいと思った。

 それを見たのはどこだったか──


 確かローズ城の玄関ホールだったかもしれない。別れを惜しむ親子の姿に、少年時代のイアンは嫉妬の眼差しを向けていた。

 アダムの母はそうっと髪を掻き分け、アダムの額に唇をつけた。まるで、壊れやすい宝飾品を扱うよう丁重に。でも、抱擁する時は目一杯ぎゅうっと抱き締めるのだ。

 彼女は義父がどこかで買った安い娼婦だ。派手な化粧をした下品で低劣な女。それが天女に見えた。


 イアンは腰元に手をやった。

 九歳の誕生日に(ヴィナス)が送ってくれた短剣がそこにあるはずだった。二十歳まで、毎年誕生日に贈られてきた匿名のプレゼント──精霊が送ってくれているのだと、ずっと思い込んでいた。なぜなら、その時イアンがほしい物、嬉しい物が必ず届いたからだ。


 ──ヴィナス様……母上


 短剣はそこにはなかった。

 忘れていた。さっき、それでヒュドラの口を刺したじゃないか。そのまま……


 イアンは嗚咽した。いや、水の中で呼吸もできないのに、それを嗚咽と言うのかどうか。身体は水中の嵐に振り回されている。


 ──シオンは母上のもとへ参ります。ごめんなさい、泉の水を取ってこれなくて。シーマを助けられなくて……


 星のチカチカが激しくなってきた。鬱陶しいほど瞬く星の中に綿毛がチラリ。先ほど浮かんでいた迷子の綿毛か──

 とたんに視界が暗くなる。





 ††  ††  †† ††


 これは死んだ誰かの記憶──



 城持ちでない貴族にとって、貴族社会は世知辛いものだ。騎士だ、英雄だと持て囃されても庶民と変わらぬ生活だったりする。いや、裕福な商人や豪農と比べればそれ以下。

 見栄ばかり気にして虚栄心を膨らませる惨めな底辺。誇り? 忠義? そんなのは建て前だ。私はただ必死に家族を守りたかった──


 出立のまえ、子供たちはいつもどおりだった。いや、一人だけ……

 責める目を向ける長男の頭を男はクシャクシャ撫でた。その尖った耳に口を寄せる。


「ジャメル、そんな目をするな。弟たちが見ているぞ?」


 ジャメルは唇を噛み、必死に堪えているようだった。ああ、この子は賢いから、すべお見通しなのだと男は察した。


 これから激戦区へ向かうのだ。モズのソラン山脈へ。主国がモズの国境を犯している。

 甲冑姿の男は脇に抱えた兜をかぶった。泣き顔を子供たちには見せられない。

 

(よく磨かれた兜に映り込んだ男の風貌はカワウ人だ。状況から察するに二十八年前の東南戦争※の時だろう──イアンは思った)


 死ぬかもしれない。

 だが、そんなことは口にしたくなかった。唯一の心残りは長男のジャメルである。

 この子はひたむきで我慢強い性格だ。そして賢い。子供たちの中で一番騎士に向いている。家名くらいしかないが、継いでもらいたいと男は思っていた。

 

 ただ一つ問題が。

 ジャメルは亜人として生まれてきてしまった。

 特徴は耳が尖っているだけだ。それでも亜人は亜人。差別の対象である。

 周囲から耳を切ればいいと言われても、男は頑なに拒み続けていた。ジャメルの身体を傷つけたくなかったのだ。

 後妻を(めと)らなかったのもこの子が原因。結婚すればこの子は……ジャメルは追いやられる、そう思ったのである。

 男はそのことをとても後悔していた。


 もし自分が死んだとき、残された子供たちはどうなるのか? 他の子たちはいい。おそらく、親戚が引き取ってくれるだろう。先の戦争で男はそこそこ勇名を馳せたから、無碍(むげ)にできないはずだ。

 でも、ジャメルは?

 亜人だ。


 引き取ってくれる家はないだろう。

 亡くなった妻の実家にさえ、ジャメルは連れて行けなかった。血のつながった孫だというのに……

 ジャメルは妻に一番似ていた。この子に特別思い入れがあるのは、そのせいかもしれない。

 男はジャメルに囁いた。


「ジャメル、覚えているか? おまえが家出した時、言ったことを」


 つやつやした黒い目が見開かれる。それに見入りながら男は思う。

 ああ、似てる。愛したあの人に。

 

「……決して折れない剣とまばゆい水晶……」

「そうだ、おまえのことだよ」


 幼い少年は()にかんだ。そう、それでいい。

 別れる時、男は笑うんだよ。戦士になるのなら強くなれ。

 おまえはこれから虐げられるかもしれない。屈辱を与えられるかもしれない。理不尽な暴力を振るわれることもあるかもしれない。

 

 でも負けてはいけないよ。

 生きるんだ。

 何があっても。

 人間らしく。


 


※アニュラス東南戦争……王立歴三〇〇年、独立後のモズの覇権を巡って主国とグリンデル、カワウの三国で争った戦争。主国から援軍が送られ、モズのソラン山脈は戦場となった。


設定集↓↓↓「アニュラスの歴史」をご参照ください。

https://book1.adouzi.eu.org/N8221GW/




 ††  ††  ††  ††


「イアン!! おいこら、イアン!!」


 ──誰だ?


 なんだか獣臭い。鼓膜を叩くのは轟音だ。

 ドドドドドドドドド……


 ──何の音だ?


 薄目を開けると、鳥の顔があった。


 ──鳥っ!? 鳥人!?


 ドドドドドドドドド……


「なにビビりてやがる。我なり。太郎なり」


 ──太郎!?……天狗の!?


 イアンはようやく状況を把握した。天狗の太郎に抱きかかえられ、空を飛んでいる。

 ドドドドドドドド……この音は?


 滝だ。

 ローズ城の塔より高い所から滝が流れ落ちていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不明な点がありましたら、設定集をご確認ください↓

ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる設定集

cont_access.php?citi_cont_id=495471511&size=200 ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
[良い点] イザベラは男疑惑なんですね(´ω`)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ