68話 イアン対オロチ①
イアンは湖底まで落ちず、岩壁にへばりついた。このまま壁を登って、水面へ上がれば助かる。呼吸は苦しいが、溺れたことは何度もあるし怖くなかった。
カオルが助けに来るなんて、思いもしなかったのである。自分一人でなんとかするつもりだった。
水中に下りてきたカオルはイアンの腕をつかみ、岩壁を蹴った。ゴボゴボッ……想定外の事態に吃驚し、イアンは水を吸い込んでしまった。
なんてことだ! なぜ、こいつは逃げてないのだ!?――呼吸困難は思考を停止させる。カオルの心理を考察する余裕もなく、イアンは成すがままになった。
カオルは沈みかけ、ふたたび岩壁を蹴る。二人分の体重で浮き上がるのは不可能だ。今度はイアンの腕を肩に回し、背負った。溺れかけのイアンはカオルにしがみつくことしかできない。
カオルは岩壁をよじ登り始めた。澄んだ水を赤い血が穢す。手が岩壁のせいで、傷ついている。
「にゃにゃにゃっ」
遠のく意識のなか、イアンはクロの鳴き声を聞いた。その直後に岩壁から陸へと押し上げられた。
――息が吸える!!
助かったのだ!
イアンは岸に倒れ込み、激しく咳き込んで水を吐いた。肺が新鮮な気体で満たされた後、ようやく状況を確認することができた。
カオルは先祖の刀とやらを構えて、ヒュドラを睨みつけている。刀の名は安綱だったか。
ヒュドラはこちらを視認しているものの、身をくねくねさせるだけで、すぐには襲ってこなかった。理由は回復のためだ。カオルがやったのだろう。頭を二つ失っていた。その二つの赤い切り口から、にょきにょきと新しい頭が生え始めている。
イアンが水中でもがいている短い間に、カオルが二頭も討ち取っていたのは意外だったし、早い復活にも目を疑う。
だが、脳が動き始めるとイアンは怒りに支配された。
――逃げろって言ったのに、なんで助けたんだ? 馬鹿め、馬鹿め、馬鹿め、馬鹿め!!!
罵声は心の中に留められた。大人になったからではない。気管に入り込んだ水のせいで、呼吸が苦しかったからである。
「なんで……助けた……? 逃げろって……」
やっとのことで声を振り絞った。すると、
「なんでか? 君が溺れて死にそうだったから。おれは弱い者を見捨てたりはしない」
背を向けたカオルから笑える答えが返ってきた。
「よわ……いもの……?」
──何言ってんだ、こいつは? 俺が弱い者、だと? 天狗の長を倒し、河童を素手でねじ伏せたこの俺が??
笑いそうになって、イアンは再度むせた。カオルは背を向けたままだ。
「そうだ、弱い。すぐ泣くし、一人では何もできない。一人で生きられもしないくせに、人に逃げろなんて言うな!」
カオルは本気でイアンを弱いと思っているらしかった。痛いところを突かれ、イアンは激昂しそうになった。
──ふざけるな! 弱いのはおまえのほうだろうが! 岩壁を自分でよじ登れば水面へ上がれたんだよ! 余計なことをするんじゃない!
折よく、咳き込んだので言葉は発射されなかった。
波が高くなる。キャンフィの……今はカオルの黒猫がイアンの肩に飛び乗った。
「にゃおおおおおおおーーーん! にゃんにゃんにゃおおおおーー! にゃーん!」
突然飛び乗られたあげく、耳元でニャアニャアやられたので、イアンは驚いてしまった。
黒猫は目の前のヒュドラを威嚇しているようだ。こんなに小さな体で好戦的なのは賞賛してやりたいところだが……
カオルが猫の言葉を説明した。
「アキラの言ってるのはテイラー家の始祖様のことだ。始祖様は別名虎王と呼ばれている。異界で王になるはずだった方だ」
カオルの言っている意味がイアンにはわからない。死んだ弟の名前やら始祖様やら、胸焼けしそうだ。あまりの異常事態に狂ったか?
イアンの困惑を察知して、カオルは補足する。
「あ、クロはアキラだ。どういうカラクリか、死んだアキラの魂がクロの中に入っている。泉の聖なる力のおかげで、俺にはアキラの言葉がわかるんだ」
補足説明を聞いて、イアンはいっそう、わけがわからなくなった。カオルにはわかっても、イアンに猫の言葉はわからない。
そうこうしているうちに地面が震えた。ヒュドラの口が割れ、真っ赤な舌が踊る。
「虎王とな?」
……しゃべった。
「そうだ! 我らは誇り高き虎王の末裔! 勝負せよ!」
カオルは叫んだ。
イアンは完全に引いていた。猫の言葉を訳したところからおかしかったが、化け物に宣戦布告までしたのである。
──どうかしてる……こいつ、自分の力量をわかってんのか?
蓬莱山に来てからのカオルは、ずっと足手まといだった。岳の婆さんに襲われた時も、天狗に襲われた時だって怖じ気づいて震えていたじゃないか?
イアンが太郎と決闘して、安綱を取り戻してやったのである。カオルは何もできやしなかった。
それなのに、今は堂々と最強の異形と対峙している。イアンが溺れている間に、何かあったのは明白だった。
水蛇が笑い、高波が押し寄せた。
高身長のイアンでも腰まで浸かり、側壁まで流された。こういうのは、泳げない者にとって地味に危うい。泳げる者にとっては見過ごす案件かもしれないが。
カオルは頑然と刀を構えたまま、動こうとしなかった。
──おいっ! 俺は溺れそうなんだぞ! 主の一大事を無視するとは、どーゆーことだ!?
イアンは側壁に夢中でへばり付いた。
さっきは逃げろと言っておいて、今度は助けろと願う。矛盾していることぐらい、わかっている。カオルがもう家来ではないことに、イアンは気づいた。命令に従う必要はないし、イアンを助ける義理もない。
──キャンフィに頼まれたからだと言っていたな? でも、ここで戦うのは命がけだ。付き合ってもない女に頼まれたくらいで、そこまでやるか?
臆病者のカオルが戦おうとするのはなぜか? イアンの代わりにヒュドラがカオルに問うた。
「ふふふふ……面白い。して、虎王の末裔が何故に不死の水を欲しがるのじゃ? 我欲のためか?」
カオルは声を張り上げる。
「我欲のためではない。死んで蘇った弟に言われて目が覚めたんだ……サチ……いや、友への償い……国を変えようとする、そう友のためだ!」
──友……だと!?
イアンは自分のことを言われているのかと思った。まえの言葉はモゴモゴ言っていて聞き取れなかったが、イアンの他に当てはまる者はいないだろう。つまり、カオルは五年前の裏切りを悔いていて、それを償いたいと。
「友」という言葉は甘美だ。カオルは自発的に命を張ってまで、自分を助けようとしている。イアンの胸は熱くなった。陶酔極まれり。
こうなるとイアンは光を当てられた舞台のスターになってしまう。難しい言葉で言うと、膨張した自己愛──つまり、「自分大好き」が暴走してしまうのだ。観客が喜ぶセリフ。啖呵を切る。
「我が名は謀反人イアン・ローズ! 虚飾の王の落胤だが、亡き母のため、親友のため、義のために戦う!!」
次の波が来るまえにイアンは飛んだ!
何も考えていない。ただ目の前の敵だけを追っている。湖面をどう跳ねたかなど覚えてもいないし、もう一度やれと言われても、たぶんできないだろう。戦いの本能が目覚めると、別のイアンになる。
かつて魔王が愛した刀を振りかざし、強大な敵にも臆さず、命を呑み込もうとする大波も恐れない。単純な理由さえもらえれば、恐怖は勇気に変わる。
赤い薔薇が四つ咲いた。飛沫を上げ、水に沈むのは四つの頭。
刃が届かなかった五頭目にイアンは抱きついた。鋭い針を持つ蜂に引っ付かれているのだから、ヒュドラのほうは振り落とそうと必死である。揺れすぎて蛇の首に刃を立てるのは無理だった。
でも、揺らされるのは嫌いじゃない。きっと母もたくさん揺らしてくれたのだろう。高い高いも曲芸みたいに投げたのかもしれない。
──ヴィナス様は絶対にそんなことしないけどな
妄想は楽しい。ヒュドラの首から離れ、イアンはビョーンと側壁まで飛んだ。そして、壁を蹴り着地する。
──よし、聖職者になるのが無理なら曲芸師になろう
我ながら満足いく立ち回りであった。
「ふははははは。面白い、面白い。虎王の末裔に虚飾の王の落胤とな。泉の水を得るのに相応しいか、いざ勝負じゃ!」
ヒュドラは笑った。どうやら、これは心の中に直接届いている声のようだ。
残ったヒュドラの首が五つ、一様に口を開いた。
「ぎゃおおおおおおおおおおおお!!」
咆哮だ。ビリビリくる。刀を構えているから耳は塞げない。イアンは目をつぶり、皮膚が波打つほどの大音声に耐えた。
──威嚇しやがって……いい度胸してるじゃないか? たかだか水獣ごときが、この俺に楯突いたことを永遠に後悔させてやる
怒り燃料満タン。チャージ完了。一歩踏み出す。




