65話 キスのあと②
――イアンと合流せねば
サチは顔を上げた。イザベラは湖に手を浸している。
「……何してる?」
「見て。澄んでる。ここが水源地なんだわ。飲んでも平気よ」
そういえば、さっきイザベラの水を全部飲んでしまった。自分の水筒は空だし、ここで補充するか──水を啜るイザベラを見て、サチは思った。
湖は底まではっきり見通せるほど澄んでいる。水源地なら、悪いものも入り込んでないだろう。
サチはなんの抵抗もなく、水をすくって飲んだ。
「うまい!」
「ね? 大陸ではめずらしい軟水よ」
「それに甘味がある」
「水筒にも入れましょう」
サチとイザベラは存分に飲んだあと、水筒を満たした。
綿帽子に触らないよう気をつけながら……誤って一つ、中に入ってしまったが、不思議なことに跡形もなく消えてしまった。
──消えるのか?……まあ、魂の断片っぽいし、不安定な存在だ。実体のある物ではないから、気にしなくても大丈夫かな
一連の作業を終え、恋人同士のように笑みを交わしあう。
そこで、ここへ来た本来の目的を思い出した。
「そういや、不老不死の泉って……まさか、ここじゃないよな?」
「まさか!? だってこの水、雀涙川へ流れてるじゃない? あっちの奥からも外へ流れ出ているようだし」
「だよな? それだったら、わざわざ洞窟へ取りに行く必要ないしな?」
「……え……あ……ええええええ!!!???」
「どうした??」
突然、イザベラが変な声を出したので、サチは狼狽えた。
「あの、あのね、私、魔術使い果たして、すっかり消耗してたの。寒かったし……それが今、体もぽかぽかして、すごく元気になってる!!」
「なんだと!?」
言われてみれば、サチの体も楽になっている。昨晩は熊のねぐらで、ろくに寝てなかったし、激闘のあとで疲労していた。それが、たっぷり寝た翌日みたいに体が軽くなっている。
「魂の綿帽子が関係してるのかな? これが溶け込んでいるせいで、生命力を与えられるとか……」
「でも、この綿、すぐ消えちゃうわよ? それに雀涙川の水は飲んでみても、なんともならなかったし」
「外気に触れると良くないとか、時間が経つと駄目とか、いろいろあるのかもしれない」
「じゃあ、水源に近ければ近いほど効果があるってことじゃない?」
「そうなるが……」
「わかった」
イザベラは言うなり、腰袋やスリング、剣を外し始めた。
「何してる??」
「泳いで探してくるわ」
平然と言い放つイザベラにサチは驚いた。
「だって、水源に近いのがきっと不老不死の水なんでしょ。湧き出てる場所を探しに行ってくる」
「広いのにどうやって探すんだ? それに一人じゃ危険過ぎる」
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃない」
押し問答をし、険悪な雰囲気になってきた。魔国にいたころからそうだが、イザベラはこれと決めたら、絶対に譲らないときがある。
「なによ? 泳げもしないくせに、つべこべ言わないでよ?」
彼女に対して特別な感情がなければ、不快なだけで受け流していただろう。だが、気持ちは大きく変わっていた。
この一言は少なからずサチを傷つけた。
遠回しに旧国民であることを蔑まれたと思ったのだ。魔人ということを隠していたため、いっそう響いた。
「どうしてそんなことを言うんだ?」
「あなたが頑固だからよ」
「じゃあ、例えば俺が人間ではなく、河童のような異形だったらどうだ? 今みたいに差別するのか?」
「は? 私、別に差別的な意味合いで言ったんじゃないわよ?」
そうだった。彼女は異形に対していつも自然だった。蔑んだり差別などしない。わかっていたのに……。サチは過剰に反応し過ぎていた。
──たぶん、彼女に受け入れてもらいたいのだ。自分のすべてを
「頼む……行かないでくれ。君のことが心配なんだ」
素直な気持ちの吐露はイザベラを思いとどまらせた。サチはイザベラを見つめ、彼女は潤んだ瞳で視線を返す。
「一つ、確認したいことがあるんだ」
サチは彼女が単語を消化できるように一言一句、区切って話した。
「五年前、魔国へついて来た理由だ。君はイアンのことが好きだと思ってたんだ。だからついて来たんだと」
「ちがう。イアンのことは好きじゃない」
イザベラは即答した。サチの胸は高鳴り、どこからか教会の鐘の音まで聞こえてくる気がする。
──てことは……彼女は俺のために魔国まで
甘い罪悪感。
どんなに理性的な人間でも、恋すれば狂う。イザベラの態度如何によっては、サチは完全に彼女の物となっていた。
「ニーケ様のためよ」
この言葉さえなければ。
「ガーデンブルグの血を守るのが私の使命。まえも言ったけど私、ディアナ様のガーディアンなの。ディアナ様はアフロディーテ女王の生まれ変わり。ガーディアンと言うのはね、光の使徒の御前で主従の契約を結んだ者のことよ。魔族の契約とは似て非なるものだわ」
混乱。悲嘆。憎悪。サチの心は山頂から突き落とされた。自分でも、なぜそんなにショックを受けたのかわからない。ただ、“アフロディーテ”と“ガーディアン”という言葉が耳の奥でこだまする。
サチは肉体から離れ、自分とイザベラを見ていた。
──あ、この感じ、以前も……
記憶は曖昧だが、自分の中の別人格に身体を乗っ取られると、こうなる。サチは二回経験していた。一回目は五年前の教会にて。妹のマリィが暴漢に襲われた時。二回目は数ヶ月前、騎士団の地下でファットビーストに襲われた時。
どちらも記憶は抜けている。
──そうか、この状態はもう一人の自分との境界が曖昧な状態なんだな? だから、記憶がない。たぶん、こうやって外側から自分を見ている記憶も、元に戻ったら失われるんだ。
今、サチの体を占領しているのは、もう一人の自分――サウルだ。
尊大なサウルは静かに口を開いた。
「ガーデンブルグはアニュラスを混乱に陥れた邪な蛮族である。これを絶やさねば、アニュラスの平和は有り得ぬ」
「……何を……言っているの??」
「エゼキエルは闇へ落ちた。妖精族や鳥人にアニュラスは治められぬ。覇権は常に移り変わるもの。ガーデンブルグと同じく、異界から来た我らグリンデル一族こそが覇者として相応しい」
「グリンデル!?」
イザベラは素っ頓狂な声をあげた。あまりに突拍子のない話を始められ、困惑している。訝しむ視線など気にせず、サウルは続けた。
「余はこのアニュラスを統べるサウルである。光の民と闇の民の申し子。天を操るグリンデルの悪夢だ」
「サチ? あなたはサチ・ジーンニアよ? 変な水のせいで何か乗り移ってる? お願い、目を覚まして!」
「おまえはたしか……」
サウルが言いかけた時、轟音が洞を揺らした。天井から砂が落ちる。地震だ。自分の体から離れたサチは、彼らの様子を見て揺れを察知した。
バランスを崩したサウルが、イザベラの胸に突っ伏している。
──俺なのに……なんてことを!
恥ずかしいような、嬉しいような、残念なような……外側から自分を見るというのは奇妙な体験である。
湖面は不自然に波打っていた。揺れが収まった後、不穏な空気が訪れる。
「何か来る……逃げましょう」
イザベラはそのままサウルを胸に抱きかかえた。
「私が、あなたが、何者かなんて小さなことよ。だって、私はあなたをこんなにも愛してる」
湖面が膨れ上がる。
言い終わるのと、水獣と化した湖が襲いかかるのとどちらが早かったか。激流が岬を飲み込む寸前、サチは自分の体に戻った。
高波は大きく口を開け、今にもサチを飲み込まんとしている。できるのは体を固くすることぐらいだ。イアンとカオルは無事か、脳裏をかすめた瞬間、サチは意識を失った。




