50話 奪われていく
(ユゼフ)
最初は何もなかった。
身一つで懸命に築き上げてきたのだ。居場所も生きがいも、家族も、全て──
それが今、音も立てず崩れ落ちようとしている。
ユゼフは冷たくなったモーヴの遺体の前にいた。
ここは夜明けの城(王城)の教会地下である。荘厳な礼拝堂の真下にこの遺体安置室はあった。遺体を引き取った騎士団がここへ運び入れたのだ。
幾つも並んだ冷たい石台の一つにモーヴは置かれていた。他に遺体は置かれていない。
血の気を失った皮膚はまるで作り物みたいだ。いつも赤かった唇も皮膚と同じ色をしている。固く閉じられた瞼はもう開かない。森の泉を思わせる青い瞳。あの穏やかで優しい瞳を見ることは二度と叶わないのだ。
美しい黒髪だけが生きていた頃と同じ様に艶めいて見えた。
涙は流さなかった。一滴も。
知らせを受けた時も全ての感情を封じこめ、ユゼフはただ、
「そうか、分かった」
事務的に答えただけだった。
冷たい人間だと罵られるのは構わない。そんなのはいつものことだ。
悲しいという感情が何なのか分からない。
身体の中心に大きな穴が空いてしまったかのような喪失感。これを悲しいというのか?
それとも業火で何度も焼かれるような苦痛のことか? 闇の底へ沈んでいくこの絶望感のことか?
排水の流れる音と鼠の駆ける音だけが聞こえる暗い地下室にて。従属するまで闇に閉じ込められていた頃の方がまだ良かったと思わせる、この気持ちのことか?
気持ちが高ぶる前にユゼフは考えるのを止めた。心をまた空っぽにする。
メシア教の埋葬は土葬か鳥葬である。
モーヴの身体が鳥や虫の餌食になるのは堪えられなかった。ならいっそ──
彼女を食べてしまおうか。
そうすれば彼女とずっと一緒にいられるのではないか。
そんな恐ろしい考えが浮かび、ユゼフは全身を強ばらせた。
だが、一度妄念に囚われるとなかなか逃れられない。頭から追い払おうとしても、こびり付いた錆のごとく離れていかなかった。
ユゼフの視線は色を失った顔から包帯の巻かれた細い首筋、胸元へと移っていった。
モーヴの乳は片手では掴み切れないぐらい豊かで、それに柔らかかった。
腹が膨らみ始めてからコルセットは緩い物に変えているが、仰向けに寝ていても大きな山は崩れていない。
ユゼフは触れようと手を伸ばし引っ込めた。きっと今は氷のように冷たいはず。
触れれば、今ギリギリの所で抑えている感情が爆発してしまうかもしれない。
胸から下へ視線は移動した。
大きく膨らんでいた腹はぺったんこだった。
せめて赤ん坊だけでもと。
取り出したそうだが、間に合わなかったのだ。男の子か女の子かは聞かなかった。
出産予定日より一ヶ月も過ぎていた。いつ産まれてもおかしくなかったのである。
毎日、大きくなった腹を撫でて「男がいい」「いや女だ」などと、じゃれ合いながら言い争ったものだ。
その全てが無駄だった気がして、ユゼフは拳を握り締めた。
──人間どもめ
何でそんな言葉が浮かんだのか。前世の自分の言葉なのかもしれなかった。
忌々しげに人形となったモーヴを睨み付ける。
全て消し去りたい。
全部消し去って無かったことにしたい。そうすれば、苦しみから解放される。邪悪な妄念からも。
城壁に囲まれた中央に主殿がある。それを挟み、東には騎士団を中心とする軍本部、西には祭事や行政を行う教会や知恵の館が置かれていた。
役人や学匠が集うこの場所は男臭い東側とはまるで雰囲気が異なっている。
ユゼフは教会の地下からもっそりと外へ出た。
外は地下とは違い、色に溢れている。眩しい、眩し過ぎた。
果樹園の一本道を籠を持った娘達が歩いている。近くの建物からは機織りの音がひっきりなしに聞こえてくるし、主殿の手前にあるパン屋の香ばしい匂いがここまで漂ってくる。
朝だった。
昨晩だ。屋敷が襲われたと連絡を受けたのは。知恵の館で財務書類の確認をしている時だった。ユゼフは一目散にモーヴが運び込まれた礼拝堂へ走った。
それから一晩、ずっとモーヴの側にいたのだ。時間が切り取られたかのように消えていた。
ユゼフに詳しい報告をしたのは、騎士団のジャン・グラニエだった。
この男が真っ先に現場へ駆けつけたのである。ツンと尖らせた口髭が特徴の抜け目ない男は、茫然自失のユゼフを前に淡々と報告した。
暴漢に押し入られ、強姦されそうになったモーヴは自分で首を切った──
アスター邸にいたカミーユ夫人、モーヴと一緒にいたユマ嬢は無事だったと。別に聞きたくもない情報まで。
「連中はただの暴漢を装ってますが……」
言いながら、グラニエが取り出したハンケチを見てユゼフは固まった。
紺地に橙色の腹をした可愛らしいアトリ。赤い月に柊の赤い実……
──このハンケチ、次会う時まで預かっとくわね。魚屋さん!
女の掠れ声が耳の奥でこだまする。
麻袋を被った黒いマントのヘリオーティス。首には肉片をぶら下げている。
暁城で貰ったハンケチは上衣のポケットを幾ら探しても、見つからなかった。
五年前、鉄の城へ行く途中、うっかり落としたハンケチをヘリオーティスに拾われたのだ──
どれぐらいの間、ハンケチを凝視していたろう。
さすがに無表情は装ってられなかった。
覗き込むグラニエの視線に気付いた時、ユゼフの心は闇に覆われていた。誰であろうと、入り込む余地がないほどに。
悟ったのだ。
モーヴは自分のせいで……自分の業を代わりに背負って亡くなったのだと──
「暴漢の正体は恐らく……」
「ヘリオーティスでしょう」
言いかけたグラニエの言葉をユゼフは遮った。目を見開き、驚きの表情をしてみせるが、実際は大して驚いていない。このグラニエという男は。そう、何一つ見逃すまいと冷徹な瞳でユゼフを捉えている。
この男の前で素の自分を晒したくはなかった。
「一緒にいたダーラからお聞きになっているでしょう。このハンケチは五年前、暁城で戴いたもの。そして、ヘリオーティスに奪われた物なのです……」
ユゼフは俯きながら話した。
グラニエは速やかに口開く。
「できれば、もっと詳しい話をお聞かせ願えませんか? 彼らを追うために情報が必要なのです」
冷静な口調のグラニエに苛つきながら、ユゼフは言葉を発せられずにいた。口、喉周りの機能が感情の高ぶりに追いついていかなかったのである。
言葉を詰まらすユゼフに代わり、物申したのは従者のラセルタだった。
「グラニエ様、失礼を承知で発言することをお許しいただけないでしょうか……」
ユゼフはラセルタの言葉を聞くよう、グラニエに目で知らせた。ラセルタは涙を滲ませながら訴える。
「グラニエ様、余りに酷い出来事でユゼフ様も我々家臣も受け入れることすら出来ぬ状態なのです。まだ、我々は義務として聴取に応じられます。ですが、あなたがどんなに立派な方で事件の究明に心血注がれようとも、この有り様をご覧になって胸を痛められないのでしょうか? 平静を装うのがやっとなのです。突如、平穏な日常を奪われた時、あなたなら残酷な現実を何度も突きつけられたいですか? 傷を何度もほじくり返されたいですか? どうか、ユゼフ様の心中を察して頂きたいのです」
極めて感情的なこの抗議はグラニエの胸に響いたようだった。何が何でも尋問しようとしていた冷たい文官は引き下がった。
「……かしこまりました。家臣や使用人の方々から先に聴取させていただきます。何とお悔やみ申し上げればいいか……」
こうして、聴取に関してはラセルタのお陰でしばらくの猶予を与えられたのだった。
†† †† ††
「ユゼフ様……」
ラセルタの声が聞こえた。目に大きなクマを作っている。彼のことだから、教会の外でずっと待っていたのだろう。
「ラセルタ、ありったけの薪と藁を手配してくれ。あと縄も。ここへ持って来させるんだ」
硬質で冷たい声だというのは、ユゼフ自身も分かっている。いつも通りの機械的で人間味のない声。
ラセルタは「かしこまりました」とだけ返事をして、瞬く間に姿を消した。
ユゼフは空を見上げた。
薄い空色が目にしみる。
地平線の方に、はぐれ雲を見つけて少しホッとした。親雲からはぐれた後、太陽に追いやられた雲はぬぼぉと覇気のない漂い方をしている。
太陽はいやに刺激的だ。主張が強すぎる。雲を蹴散らす様は排他的でもある。闇に属する者全てを駆逐せんとす勢いはいかがなものか。
──無垢の命を奪い続けるのなら、太陽だろうが消してしまおう。愛する者を奪うのなら、報復しよう。俺からこの国を奪うのなら、壁を作ろう。
「ユゼフ様、お持ちいたしました」
ラセルタの声で我に返った。
心配そうに覗き込む顔はまだ少年のようだ。成長が緩やかなのは亜人だからか。
ラセルタの背後には荷車が見える。荷車に藁と薪を山と載せて人夫に運ばせてきた。
「足りるでしょうか?」
「充分だ。あとはもういい。俺一人でやる」
人夫を下がらせ、ユゼフは薪を組み始めた。
ラセルタはぼんやりその様子を眺めている。軍本部のある東と違い、西は人が少ない。時折立ち止まる人もいるが、大抵通り過ぎていった。
「ユゼフ様、まさか……」
ラセルタは言いかけて言葉を飲み込んだ。
「何だ?」
「いえ。何かお手伝いしましょうか?」
「小枝がほしい」
「かしこまりました」
ユゼフは手際よく組み立てていった。
こういった技術は平民の時に学んだものである。ユゼフは快活な子供だった。器用に何でもこなし、学校へ行かなくても読み書き出来たし、友達もたくさんいた。ヴァルタン家へ迎え入れられる前までは。
薪を互い違いに交差させ、長方形の箱を作る。人一人入るぐらいの。その下に藁を敷き詰め、隙間に小枝を差し込んだ。
「出来た」
額に吹き出た汗を拭う。
もう太陽は頭上高く昇っている。さっき見たはぐれ雲は空に溶けてしまっていた。
得体の知れない爽快感は、ムクムク頭をもたげる嗜虐性のせいだろう。困惑した表情のラセルタを尻目にユゼフは教会の地下へ再び降りていった。
そこにいるモーヴそっくりの人形──抜け殻となったモーヴを抱き上げる。
──以外と軽いじゃないか
魂が抜けているからなのか、赤ん坊がいないからなのか……モーヴの身体はとても軽く感じた。
こんな風に彼女を抱きかかえることなど一度もなかった。生きている時だったら、その温もりを一身で感じられたであろう。でも今は……
ただの冷たい肉塊だ。
明るい太陽の下へ晒すのは余りにも無情だった。陽光を跳ね返すほどの目映さは失われている。
薪で作った粗末な棺の中へユゼフはモーヴを寝かせた。
赤い炎でなければ。青い炎は邪悪だから……。
ユゼフは火打ち石を打ち始めた。
教会からチェンバロの音色が聞こえ始めた。
ちょうど朝礼拝の時間だ。人がわらわら集まり始めた。足を止める誰もが驚愕、あるいは嫌悪し、逃げるように去っていく。
このアニュラスで火葬は禁忌である。
一部、邪教の信者や外海、異界の迷い人らの間でされることはあっても、忌避される風習なのだ。
カッカッカッカッ……
掻き消されそうなぐらい石の音は軽い。
火種は簡単に出来た。
綿にくるみ、息を吹きかければボワッと燃え上がる。それを薪の棺に放り投げれば──
誰かの悲鳴が聞こえた。
ユゼフは気にも止めない。赤い炎はゴゥっと音を立て、一気にモーヴを包み込んだ。
見物人が集まってくる。誰もが驚き怯える。口に手を当て、息を飲む。悲鳴や悪口を投げつけてくる者も。
人々を支配するのは恐怖、嫌悪──
──愚か者どもめ
燃え立つ炎を瞳に映しながら、ユゼフは思う。
──ヘリオーティス
お前達が顔を隠すなら、こちらも仮面を被るとしようか。
この話の後、レーベ視点のエピソードをカットしました。だいぶ後で重要になってくるエピソードなので。よろしかったら↓↓
https://book1.adouzi.eu.org/n8133hr/53/
https://book1.adouzi.eu.org/n8133hr/54/




