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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第二部 イアン・ローズとは(後編)二章 神々の島エデン
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46話 これからどうするの

 突然、視界に被さってきたのは荒々しく吹き付ける水しぶきだ。


 うねりくる黒い怪物が体の自由を奪う。



 ──飲み込まれる!



 思った時には流された。

 

 怒涛。

 激流が押し寄せてくる。

 呼吸を止めようにも間に合わない。

 イアンの体は巻き取られ、渦の中へ落ちていった。



 ──く、苦しい……最後は溺れ死ぬのか



 漠然とそう思った。

何が起こったのか、自分が置かれた状況すら分かっていなかったが。

 苦しい、苦しいと体が勝手にもがいている。頭の中では諦めに近い感情が支配していた。それだけ水の力というのは圧倒的なのである。


 グイと痛いくらい腕を掴まれなければ、そのまま絶望の底へ沈んでいったろう。


 力強い手は自由を奪われたイアンにとって若干の恐怖をもたらした。が、それも刹那。イアンの体は水の外へ引っ張り上げられた。



「ゲホッ……ゲホッゲホッ……」



 激しくむせ込むイアンの背中を誰かがさすってくれている。


 目の前には大きな川が横たわっていた。



「やだ。川、出しちゃった」



 腰に手を当て照れ笑いするイザベラが見える。魔法の札の発動条件は術士が設定するが、地面に落ちただけで発動する設定にしていたのかもしれない。さっき、札を何枚も落としていたから──それが水魔法の札で川を作ってしまったのだろう。



「イアン様! ご無事でしたか!」



 忠兵衛と小太郎が駆け寄ってくる。

 二人ともずぶ濡れだ。ヌルヌルの粘液は洗い流されていた。



「少し水を飲んだが……大丈夫」



 イアンは掠れ声で答えた。

 背中をさする手が止まる。

 振り向くとカオルがいた。



「なんだ。カオルか」



 言いつつも、それがとても有り難いことに気付いた。


 カオルが溺れたイアンを助けてくれたのだ。


 裏切り、疑心、嫉妬……カオルとの間に出来た深い溝はもう二度と埋めることは出来ないと思っていた。それなのに昔と変わらず助けてくれたのだ。カオルは。


 イアンは嬉しかった。



「ありがとう」



 この自然に出た一言はカオルを驚かせた。


 イアンはこの五年間で学んでいたのである。

 それまで当たり前だったことがそうではない。人に何かしてもらうことはとても有り難いことなのだと。だが、イアン自身、変わったことに気付いていなかった。



「にゃおおおおん」



 クロが濡れるのも厭わず、カオルに身を擦り付けている。まるで「偉いぞカオル、偉いぞ」と言っているみたいに見えた。


 若干濡れているものの、クロが水中に入った形跡はなかった。素早く逃れたのだと思われる。


 バサバサッと上からダモンが降りてきて、イアンの肩に止まった。



 ──良かった。みんな無事だ。しかし……



 カオル、イザベラ、忠兵衛、小太郎……みんな泳げる。小太郎はイアンの旧国民の血を継がなかったらしい。



 ──カナヅチは俺だけか



 これは例によってイアンを不機嫌にさせた。

 成長しても変わらない所もある。

 いつでも場の中心でふんぞり返っていたイアンにとって、自分一人だけ出来ないのは屈辱であった。



「ノロマめ。お前のせいで追いつかれたんだぞ」



 イアンはカオルに八つ当たりした。

 イザベラに言いにくい分、矛先はカオルになる。



「邪魔立てするつもりはないと言ったが、ついて来るだけで邪魔なんだよ。お前もイザベラも」



 カオルの顔が険しくなっていく。

 こんな奴、助けない方が良かったと後悔していることだろう。イアンも何となく自分の言動がまずいことは分かっていたが、長年培われてきた傲慢さは押さえようもなかった。



「イアン様、いけませんよ。そんなことを言っては」


 忠兵衛にたしなめられなければ、まだ続けていた。



「互いに助け合わなければ、この先進むことは出来ませぬ……」



 イアンはうつむいた。

 忠兵衛の髷は濡れたせいで少々ほつれている。この正義感溢れる男に何か言われれば、口をつぐむしかない。



「あっ!! 見てよ!!」



 今にも始まりそうだった忠兵衛の説教はイザベラに中断された。


 指差す方に視線を移すと、川の中心で派手にしぶきが上がっている。白い飛沫に隠れ、顔が見えなくとも分かる。あれは婆さんだ。



「札の有効時間は?」



 すかさず聞いたのは忠兵衛だ。

 髷から滴る水滴が真っ直ぐ落ちる。

 この男は狼狽したり焦燥することがない。



「持って数分よ。どうしよう……まだ追うつもりだわ」


「では、再び持久走の再開ですな。カオル様、大丈夫ですか? 走れますか?」



 走れないと答えようが行くつもりだろう。

 戦うか走るか。

 選択肢は二択しかない。情けない若様を鼓舞するために問いかけた。だから、忠兵衛はカオルが頷いたかどうか見もしないのだ。



「さあ、行きますよ!!」



 忠兵衛の掛け声を合図に走り出した。

 刺々しい枝が手を伸ばす中を。一斉に。


 昼間の穏やかな風景は闇に塗りつぶされた。

 動物達は皆、穴蔵へ逃げ込み息を潜めている。感じられる気配は全て異形のものだ。

 

 禍々しい山奥で始まる持久走。

 婆さん一人に怯える軟弱者。

 下準備も計画もない愚か者。

 仲間の輪を乱す粗暴者。

 魑魅魍魎が蠢くこの山で生き残るには運だけが頼りかもしれない。

 

 この中で夜目が利かないのはカオルだけである。小太郎も少々怪しいが、周りの動きを敏感に感じ取ってついて来ている。

 忠兵衛とイザベラに関しては問題ない。

 昼間と全く同じ動きだ。


 イアンは皆の動きを注意深く見ていた。

 意識的ではない。

 幼い頃からリーダーをしている人間にとっては、当たり前のことなのである。



 ──カオルに注意しなければ



 夜目が利かないだけでなく一番足も遅い。誰かが気にかけてやらなければ、間違いなく置いていかれる。



「カオル、こっちだ!」



 イアンはカオルの後ろを走るようにし、常に方向を修正してやった。

 イアンの付き添いとしてついて来た忠兵衛と小太郎も、二人に合わせることとなる。イザベラだけが先頭を突っ走った。



「イザベラ様! 少々速度を落としてください。皆と離れてしまいます!」


 忠兵衛が伝えてようやく足を止めた。

 


「何よ? みんな遅すぎよ。追いつかれたらどうすんの?」



 驚異的な聴力を持つイアンには、かなり離れた所から不満げな声が聞こえた。

 

 それにしてもイザベラは足が速い。

 持久力も尋常じゃない。

 相当の距離を走ったのに、全く呼吸が乱れてないのだ。


 忠兵衛と小太郎はかなり鍛え上げている。イアンはもう人間じゃないし、この三人と比べて引けを取らないのは凄いことだ。

 


 ──一人になってもイザベラなら大丈夫そうだな

 

 これで行動がズレてなければ、いいのだが……

 


「あっ!!!」


 イアンは思わず大きな声を出してしまった。



「ティモールがいない!」



 すっかり忘れていた。

 一体、いつからか。


 こちらを振り返る忠兵衛と小太郎もハッとしているから忘れていたのだろう。



「ティムは小便に行くと言ったまま、戻って来なかったす」


 小太郎が困った顔で言った。



「すんません。あの後、すぐ婆さんが追っかけてきたから逃げるのに必死で……」



 今更戻る訳にいかないし、かと言ってこのまま捨て置くのも気が引ける。

 こういうのはイアンが最も嫌うことだ。仲間を見捨て、自分だけ逃げるなんていうことは。



「ティモール君なら大丈夫です」


 どんよりした空気を掻き払ったのは忠兵衛だった。



「どういう根拠があってそんなことを……」


「根拠も何も……彼は最初から分かってましたよ。出された雑炊も隠れて吐いてましたし、寝る時も服は着たままでした。用心していたのです。恐らく彼が去ったのは別件かと」



 イアンは唖然とした。

 ティモールをただの変人かと思っていたのだ。



「確かに、ティムは移動中もずっと気ぃ張ってますたね。常に背後を気にして。暗殺者みてぇだった。あの男が軽口叩くのはごまかしっつうか、偽装っす」


 小太郎も相槌を打つ。



「わし、大儀名分の殺し屋集団におったんでよう分かるんですわ。似た匂いのする奴。ティムには隙がなかったすからね」



 馬鹿はどっちだ?──イアンは思った。

 ティモールは馬鹿のふりをしてずっと警戒していたのだ。



 ピーヒョロヒョロ……ピーーーヒョロロロロ


 イアンの心の内を嘲笑うかのように鳥が鳴いている。聞いたことのない鳴き声だ。とても奇妙な……ぼんやりしている内に空が明るくなり始めた。


 曙が木の根元から忍び寄る。

 闇色だった枯れ木を朱色に染め上げる。

 

 朝が来た。



「夜が明けて来ますたね」



 小太郎が安堵の表情を浮かべる。

 普段、無愛想な人間が気の抜けた顔をすれば、こちらも無防備になる。イアンもほぉっと息を吐いた。


 

「もう蓬莱の魔女(婆さん)は追って来ないでしょう。あれは夜行性ですから。ですが……」



 忠兵衛が言いかけた時、イザベラが戻って来るのに気付いた。



「ですが……イアン様もひょっとしてお気付きではないですか?」


「気配か?」


「ええ……」



 言われてみれば、昨日は全く感じなかった魔物の気配が今はビリビリするほど感じられる。朝日が上がろうというのに……



 ──どういうことだ?



「なーに立ち止まって話し込んでるのよ?」



 イザベラが頬を膨らませながら近づいた。相変わらず緊張感がない。

 


「気配が……」


「気配ぃい? あ、そう言えば瘴気が漂ってるわね。忠兵衛さんや小太は吸って大丈夫かしら?」


「私は何度か魔物討伐の経験があるので大丈夫です」


「わしも多分大丈夫っす(イアン様の血引いてるし)」



 イザベラは「うん」と頷き、小太郎と忠兵衛の返答に満足した。次にイザベラの視線はいまだに呼吸を整えているカオルへ移った。



「あなたが一番足手まといなのよねぇ。息がゼェゼェしてるの、瘴気のせいじゃない? 忠兵衛さんか小太に連れ帰ってもらった方が……」


「俺は帰らない!」


「いや、あなたの意志と関係なく帰ってもらいたいの。死なれたらエンゾ様に顔向けできないし、かといってこの先、守ってあげられる保障もないのよ」


「にゃー」



 クロが鳴きながら駆け寄ってきた。

 絶句するカオルの足にまとわりつく。


 イザベラの言い方は自尊心を傷つける。配慮も何もないのだ。



「それに……あっ! あなた、あの刀はどうしたの!?」



 イザベラはカオルの背中に昨日まであった刀がないことに気付いた。



 ──確か蒼馬……魔除けの刀とか何とか



 イアンは昨日の始祖様自慢を思い出した。わざわざエンゾがカオルに持たせた刀だ。



「さっきの屋敷に置いてきてしまった……」


 カオルの返答はイザベラを激昂させた。



「馬鹿っ!! あれがずっと魔物を近づけさせなかったのよ! 忘れてくるってどういうこと!? これからどうやって泉の所まで行くのよ?? 魔物だらけよ?」



 カオルに掴みかからん勢いのイザベラを忠兵衛が抑えた。



「ふざけないで!! 魔法も使えないし、これからどうすんのよ? 剣だけで戦うの!? 数多(あまた)の魔物相手に?」



 髪を振り乱し、怒り狂うイザベラは先ほどの婆さんに相通ずるものがあった。

 年を取ったらあの婆さんのようになる。間違いない……イアンは思った。



「イザベラ様、どうか落ち着いてください。仲間割れしてる場合ではないですぞ」


「これをどうやって落ち着けって言うのよ? 周りを見てみなさい! 私達、詰んだわ」



 イザベラの言う通りだった。

 気づくと、沢山の気配に囲まれている。


 魔の気配だ。


 ──何匹だろう……一、二、三……



 イアンは途中まで数えて止めようと思った。三十はいる……

 魔物が三十に人間五人。魔法も封じられ、かなう訳がない。

 

 邪悪な囲みはジリジリと距離を詰めてくる。陽光は朱から橙へ。辺りはすっかり朝の色へ変わっているというのに。

 木々の合間から覗く朝日が笑っていた。

 


 ──不快だ



 太陽に嘲笑されるぐらいならいっそ闇の方がいい。イアンがそう思った時、目の前が暗くなった。


 グラグラグラグラ……

 黒い瘴気が太陽を覆い隠す。


 闇、再び。

 絶体絶命──

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[良い点] 妖怪だらけですねぇ(;´д`)
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