45話 お札の話
(イアン)
忠兵衛に制され全員止まる。
そこは木々が密集する奥地であった。
夢中で走ってきたので、一体山のどこらへんなのか皆目見当もつかない。
「お待ちください」
忠兵衛は繰り返した。
相当走ったのに呼吸は乱れていない。全員の視線が忠兵衛に集中した。
「相手は魔物といえど、婆さん一人です。ここは逃げずに戦うべきでは?」
その言葉でストンと憑き物が落ちた。
イアンは我に返る。
雰囲気の異様さにビビって逃げてしまったが、相手は婆さん一人だ。
そもそも魔物の巣窟と分かってこの山へ向かった。数匹程度の魔物に恐れを為すのは愚かしい。
「全くその通りよ。ここは戦うべきだわ」
真っ先に逃げたイザベラが平然と言ってのけたので、皆口をつぐんだ。
──こいつ、女じゃなかったらぶん殴ってるとこだ
イアンは顔をしかめる。
と、木々の合間からバサバサッとがさつな羽ばたきが聞こえてきた。
「コワイヨォ……コワイヨォ……」
ダモンだ。
「ごめん、ダモン。無事で良かった」
「ク、クルゥ……」
ダモンがイアンの肩に止まって一息つく間もなかった。
婆さんとは思えない猛烈な雄叫びに森が揺れた。離れた位置から徐々に木々がバタン、バタンとなぎ倒されていく。木にぶつかりながら、向かってきているのだ。
イアンはアルコを抜いた。
がっちり巻かれた柄糸が両手に馴染んだ途端、呼吸の乱れはなくなる。
背筋がピッと伸び、頭から爪先まで棒一本入ったようにシャンとする。
いつもそうだ。
父の形見と渡されたこの剣を握った瞬間、イアンの中の怯懦や迷いはなくなる。強い自分になれる。
イアンは渦巻く闇の向こうをキッと見据えた。
「ダモン、大丈夫だ」
妄念やら執念やら毒念やら、全てどこかへ追いやって一心に動きだけを追う。
見える。
ビュンビュン風を切って移動している。黒い塊となって砲弾のごとく木々をなぎ倒しながら……
──追えない速度ではない
イアンは一歩踏み出した。
待つより、自分から向かって行く方が性に合っている。俄かに走り出した。タガが外れれば、抑えつけるものは何もない。
イアンは一気に間合いを詰めた。
アルコを振り上げた時、胴はがら空きとなる。ほんの一瞬──
婆さんの武器は包丁だ。
二キュビット強(一メートル)あるアルコとイアンの高身長の前では圧倒的リーチ差がある。イアンとの間合いでは到底届かないはずだった。
そのまま婆さんの首へ狙いを定め──
「イアン様、いけません!!」
忠兵衛の声が届いた時はもう手遅れだった。
イアンの体に衝撃が走る。
肩を貫くのは鋭い痛み。
刃は届かず、イアンは後ろへ飛び退いた。肩に刺さっていた物がズルッと抜け、黒い飛沫を上げる。
後ろへ大きく飛び、地に踵を付けた後、揺らめく触手が見えた。婆さんが触手を伸ばしていたのである。痺れと痛みでイアンの踵は悲鳴を上げる。夢中で逃れたが、相当飛んだみたいだ。人外と思われる距離を。
──うう……どうしよう。皆に見られてしまった
その時、イザベラが光の札を幹に貼り、婆さんの全体像が微光に照らし出された。
顔全体に刻み込まれた皺の陰影は醜悪さを浮かび上がらせる。皺に紛れるほどの細い目。赤く発光する両眼は猛獣そのものだ。ヌラヌラ光る牙が糸を引いている。
何より目を引くのが腰から伸びる幾つもの触手である。粘液をまとい、ユラユラ踊る影は悪魔的であった。
イアンはそれまで暗闇だったことに気付き、胸を撫で下ろした。
──良かった。人間離れした跳躍は見られてない
「イアン様、おケガは大丈夫でしょうか??」
「ああ、たいしたことない」
リゲルの力で魔人として蘇ってから、傷は簡単に塞がる。貫かれた肩……恐らくこの程度であれば、一、二時間で完治するだろう。
心配そうにこちらを窺う忠兵衛を横目で見、イアンは刀を構え直した。
「ではイアン様、最後の詰めをお願いしてもよろしいでしょうか? 我々で触手をまず駆除いたします。その後で……」
説明途中に向かってきた触手を忠兵衛はなぎ払った。
「いいですね? イアン様は待機で」
イアンは頷いた。
次から次へ触手は伸びてくる。
カオルと小太郎も加わり、このグロテスクな軟体と対峙した。
斬れば噴出する大量の粘液。
速度はこの中で一番緩慢なカオルがようやくついていける程度だ。全て斬り落とせば、道は開けると思われた。だが……
斬っても、斬っても湧いてくる。
婆さんの腰から矢継ぎ早に。
粘り気のある粘液にまみれ、三人の動きは次第に鈍くなっていった。
待機しろと言われ頷いたからには、手を出したくても我慢するしかない。イアンのイラつきは限度を超えるギリギリの所まで達した。
知らない内に唇を歪め八重歯を出している。舌を伸ばせば、八重歯は張り付くぐらい乾いていた。
「そろそろ、わたしの出番かしら」
ひょいとイアンの横に並んだのはイザベラだった。意気揚々と胸を張っている。
──補佐するんなら、さっさとしろ』
イアンは怒鳴りつけたいのをグッとこらえた。
「ふふふ。任せなさい。氷系の魔法で復活できないよう触手を凍らせればいいのよ。簡単だわ──夜気に宿る氷の精霊達よ……氷山に住む女神の御名において我、魔を滅するため使役する者なり……精霊を汚す者を罰したまえ……我に力を与えたまえ……」
イザベラはブツブツと口の中で呪文を唱え始めた。
「パゴメノス!!」
なにも起こらない。
「あれ? パゴメノス!! パゴメノス!!パゴメノスぅううう!!!」
やっぱり何も起こらない。
イザベラは愕然とした。
「なんでよ! なんで出てこないの!? 詠唱も間違ってないし、このわたしが失敗するなんてこと……そうだ、ブロンティ!……あれ? イクリクシー!!……パイロ!!」
間髪入れずに呪文を唱えようが、何一つ発動しない。最初は苛立っていたイザベラも焦り始めた。
「……どうしよう。魔法が使えない」
ケーケッケッケッケッ……
絶命前の鳥の鳴き声かと思いきや、婆さんの高笑いする声が聞こえた。
「どうやら食事に魔封じの霊薬を混ぜたみてぇだ!」
小太郎が触手と格闘しながら叫ぶ。
「えっ……嘘でしょ? あれ、毒は入ってなかった。誰か! 誰か、私の代わりに魔法を使える人はいないの?」
イアンは無言で首を振った。
魔国にいた頃、試してはみたがてんで駄目だったのだ。イザベラの視線が戦いの真っ最中である小太郎らへ向けられると、
「ワシも忠兵衛さんも使えねぇ!」
小太郎が叫んだ。
カオルは……というと、
「パイロ! パイロ! パイロ!」
唯一使える魔法を必死に唱えている。案の定、全く駄目らしい。
「どーすんのよ!?」
激高するイザベラに対し「こっちが聞きたい」とイアンは思った。
やはり後退するしかないか──
しかし、粘液まみれの小太郎達は俊敏に動けなくなってきている。触手は斬ってもキリがないし……
──くそっ。どうすりゃいいんだ
「はっ! あれがあったわ!」
何か思い出したイザベラが手をピシャリと叩いた。
迷妄に囚われていたイアンは光明を見るかのごとく、イザベラを見つめる。
イザベラが胸元から取り出したのは魔法札の束だった。
「さすが! わたしってばなんて用意がいいのかしら。もしものために数十種類の魔法を札に封じておいたの。これがあれば、魔法を使えるわ」
自画自賛はいつものご愛嬌だが。安堵したイアンにとってイザベラの鬱陶しさは気にならなかった。
「さ、氷の札、氷の札っと……えーと、これかな? これ? それともこれ?……」
「まさか……どれか分かんないのかよ……」
「ちょっと待って。これよ、そう、これこれ」
一枚取り出し、触手へ投げつけた。
ボワッ──
発現したのは氷ではなく、赤々と燃え上がる火焔だった。
忠兵衛が慌てて跳ね退く。ちょうど戦っている真横に落ちたのだ。
「あちちちちち……」
「忠兵衛! 大丈夫か?」
「軽い火傷を負いましたが、大丈夫です」
イアンはイザベラを睨みつけた。
「よ、良かったわ。ほらね。上手くいったでしょ? 今の内に逃げましょ」
炎はあっという間に婆さんの七割ほどを包み込んだ。
イアンはカオルと小太郎に目配せする。二人とも粘液を引っかぶってヌルヌルの状態である。
イアン達は一斉に走り出した。
「待ちなさい! こっちです!」
忠兵衛が磁石を確認しながら怒鳴った。
でなければ、いい加減な方向へがむしゃらに突き進んでいただろう。
忠兵衛を先頭に仕切り直す。
走りながらイアンは思う。
ずっと走ってるな、と。
頬に当たる風は心地良い。しなる筋肉も。足が空を切るのも。
だが、雄々しく戦うのではなく、逃げ回るのは格好悪い。走るのは気持ちいいが、逃げるのは嫌いである。
「待て……待ってくれ……」
後ろから息も絶え絶えのカオルの声が聞こえた。振り返れば、ヨレヨレの状態。足はもつれ、今にも倒れそうだ。
その更に後ろから、燃え盛る火塊が迫ってくる。
「うぎゃおおおおあああああああ!!」
婆さんだ……
絶叫しながら……
イザベラの魔術で火塊と化した婆さんが迫ってくる。
「カオル! 何してるっ!! 早くしろ! 鈍臭いなー! イライラする!」
イアンはカオルの腕をつかんだ。
そのまま腕を自分の肩に回す。カオルを引きずりながら走り出した。
カオルがムッと顔を歪ませようが、気にしない。カオルも状況が状況だけに大人しく従った。
「間に合わないわ! もう追いつかれる!」
泣きそうな声で叫び、イザベラが札を出した。手の震えを抑えられず、ポロポロ落としている。
「えーと、今度こそ! 凍れ!! クソババア!!」
数枚地面に叩きつけ、モワッと煙が立ち上った。
硝煙がキツめに臭う。
反射的にむせたイアンの足元が冷たくなった。
──水??
突然、視界に被さってきたのは荒々しく吹き付ける水しぶきだ。うねりくる黒い怪物が体の自由を奪う。
──飲み込まれる!
思った時には流された。




