44話 何かおかしい
(イアン)
身体が重い……
そう感じた瞬間、生臭さと甘ったるさを合わせた女の体臭がムッと鼻をついた。
頬をくすぐるのは髪の毛か、気付いて目を開けると、目の前に女がいた。
──イザベラ!
声を出す前に口を覆われる。
イザベラはイアンの上にまたがっていた。
自由を奪われた状態のまま、イザベラの顔が近づく。久しぶりに嗅ぐ女臭は胸焼けしそうだ。
イザベラはイアンの耳に唇を近付けた。
唇が触れてるのではないかと思うくらい近く、生暖かい吐息が吹きかかる。
『動かないで』
ゾクッとした。
すぐ後に「音」が聞こえてなければ、危うく変な気を起こしていた所だ。
シュシュシュシュッ……シュシュシュシュッ……
──何だろう。しきりに何かを擦るような……
『聞こえた?』
イザベラの唇がまた耳をくすぐる。イアンは返事のかわりに身をよじった。
床の間に貼った光の札が不規則に点滅している。もう効力は弱まっているのかもしれない。暗くなったり、薄ぼんやり明るくなったり……全く落ち着かなかった。これならいっそ真っ暗闇の方がマシだ。
『気になるから見に行くわ。イアンもついてきて』
いつもの強引さである。
押さえられていた口をやっと解放されたので、文句の一つも言ってやりたい気分だった。
隣のカオルは全く起きる気配がない。くっきりした睫毛を固く閉ざしているのは、暗くても分かる。半開きの口から形の良い歯が覗いていた。
一番奥で背を向けている忠兵衛もこちらを向かないので寝ているのだろう。
イアンは枕元のアルコを取った。
取る時に誤ってダモンに触れたが、こちらも起きる気配はない。
ズー……ズルピー……ズー、ズー……
ダモンのいびきを背に聞きながら、イアンとイザベラは部屋の外へ出た。
襖を開け、また別の座敷へと。ここから中廊下へ出て真っ直ぐ……突き当たりが食事をした囲炉裏の部屋につながっている。
奇妙な音は囲炉裏の部屋の方、恐らくは土間から聞こえてくる。
シュシュシュシュッシュシュシュシュッ……
規則的に、リズミカルに……さっきより休む間隔が短くなっている。
──一体何なんだ……
不気味過ぎる。
だが、聞いたことのある音だ。
どこかで──
──うぅーん……何の音だっけ?
思い出せないまま、囲炉裏の部屋の前まで来た。薄い襖を通じて異音は聞こえてくる。襖をほんの僅か震わせるほどに。音の源はこの部屋で間違いない。
イアンはイザベラと顔を見合わせ、襖に手をかけた。音が強くなるタイミングに合わせてスススッとずらす。羽虫がやっと通れるぐらいの隙間を二人して覗き込んだ。
板の間から降りた土間に婆さんの背中が見える。後ろを向いているため手元はよく見えない。が、前後に動く両肘の先から音は発生していた。
「しかしなぁ……ショウモン様の刀はいかんよ。ショウモン様の刀は……」
エデン語だしよく聞き取れないが、ショウモンがどうとか話している。婆さんの脇に立っているのは岳だ。
──ショウモン? 確かカオルの先祖の名前じゃ……ショウモン様の刀とはカオルが持たされた魔除けの刀のことか?
婆さんはエデン語で岳に話しかけている。言葉は分からなくとも、うまくいかないことがあり苛立っているようだ。
……と、イザベラがイアンの腕を強くつかんだ。
気配を感じた婆さんが振り向く。
その顔を見てイアンは凍りついた。
隆々とつり上がった眉と耳まで裂けた口。瞳には爛々と赤い光をたたえ、裂けた口からは鋭い牙が幾つも覗いている。
鬼の形相とはこのことか。
出迎えてくれた時の優しい面影は露ほども残っていない。
婆さんの手元にあった包丁と研ぎ石がチラリと見えた。
『婆さんは俺達を襲うつもりだ』
背中を伝う汗が冷たい。
身体が自分の物ではないみたいだ。動けない。まるで置物にでもなってしまったかのように。
シュッ、シュッシュッシュッシュッシュッ……
婆さんが再び包丁研ぎを始めるまでイアンの硬直は続いた。
腕の痛み。
気付けば、イザベラの爪が腕に食い込んでいる。
『逃げるわよ』
また耳をくすぐられた。
イアンとイザベラはそぉっと襖から離れた。
一歩、二歩、三歩……音を立てないように、焦らずゆっくり、ゆっくり……中廊下を爪先立ちで歩く。ともすれば、婆さんの物凄い形相が脳裏を掠め、膝が震える。
何とか元の座敷までたどり着くと、襖を少しだけ開け、猫のごとく身を滑らせた。
「ニャー」
足元にヌルッとクロがまとわりつき、イアンは飛び上がりそうになった。
「なーに、ビビってるのよ」
イザベラがわざと体をぶつけてきた。
女の癖に筋肉がついているから、ぶつかられるとそれなりの重量感を感じる。イアンはよろめいて、足を一歩前に出した。
「ここを出ましょう」
耳腔を震わせたのは忠兵衛の声だ。
「何か妙です。こっそり出て行った方が良いでしょう」
忠兵衛は起きており、すぐにでも出れる態勢で待機していた。たった今、起こされたばかりのカオルは薄ぼんやりしているが。
「イアンってば、怖がっちゃって。膝、震えてなかった?」
イザベラが鼻でふふふんと笑ってくる。
──これだ、こいつのこういう所が可愛げないのだ
しょうもない所で色気を漂わせてくるくせに、男以上に優位性を主張してくる。相手を貶めて主導権を握ろうとする。
「べ、別に怖がってなんか……」
「不要なお喋りはしないでください。身支度を整えて、気付かれない内に早く……」
忠兵衛が口を挟む。
さっきより更に声は低い。
点滅していた光の札がいよいよ、死にかけの蛍みたいに弱々しい光を放っている。
イアン達は暗がりの中、ぎこちなく上衣を着てマントを羽織った。留め具を留める余裕などない。だらしない格好のまま障子を開けて外回廊へと。
「待って! ブーツは?」
止めたのはイザベラだ。
そういえば、ブーツは土間で脱いでいた。
「履き物はあらかじめ外回廊へ運んでおります」
忠兵衛が答え、ほとんど音を立てずに障子を開けた。外では小太郎がやきもきした様子で待ち構えている。雨戸を開け、
「イアン様、表には出てねぇが、閉じた所でどす黒い殺気を感じます。早く行きましょう」
イアンが慌ただしくブーツを履くのを手伝ってくれた。
見上げてみれば、夕刻あんなに瞬いていた星が一つも見えない。どんより深い闇が今にも空から落ちてきそうだ。
「早く早く早く!」
急かされるままに立ち上がり、
「馬は?」
イアンが尋ねた時……
バタン! ガン! ドシン!
凄まじい破壊音が開け放した障子の向こう、奥の襖から聞こえてきた。
「早く早く! カオル、何してるの! もう。グズ! ノロマ! 紐なんてそのままでいいから走るわよ!」
履くのに手間取っているカオルをイザベラが無遠慮に罵倒する。カオルは何か言い返そうと口だけ開けた状態のまま立ち上がった。
猿など高知脳の動物が雄同士で優位性を主張するのに似ている。カオルは完全に負けていた。イザベラは女だが。
イザベラを先頭に全員走り出した。
よりにもよって音と反対方向……つまり馬をつないだ薪置き場とは反対方向へ向かって。
「まぁてぇえええええええ!!!」
振り返ると、鬼の形相の婆さんが白髪を振り乱し向かってきた。
──怖い、怖すぎる
「逃げろぉおおおおおお!!」
イアンは思いっきり叫んでいた。
その後はもう脇目もふらず走り続ける。
暗闇の中、無我夢中で。
誰がついて来てるかなど考えず、ただ、ひたすら──
「馬は?……馬は……どうすんだよ?」
息を切らしながらカオルが尋ねた。
誰も答えない。
耳に入るのは風を切る音と激しい息遣いだけである。
「お待ちください!!」
唐突に忠兵衛が叫んだ。
それがなければ、坂道を転げ落ちる荷馬車のように走り続けていただろう。
咄嗟のことに駆け巡る血流は流れを抑えられずにいる。全身は熱くたぎり、間に合わない呼吸がヒューヒュー音を立てる。
急に止まったので、脈が暴れるのを押さえきれずにいた。




