31話 カオルとキャンフィ
眠かったので、イアンは早々に下がった。失礼にならないよう謝辞を伝え、エンゾのいる座敷をあとにする。忠兵衛は残り、閉めた襖から屈託のない笑い声が聞こえた。
賢臣というのは、ああいう人のことを言うのだな、とイアンは思う。
控えの間を出て、灯明を手に廊下を進んだ。等間隔に行灯が置いてあり、暗い廊下を照らしている。トーチより、柔らかい光はイアンの好みに合っていた。
真逆に進んでいたと気づいたのは、離れに着いてからである。自分で嫌になるほどの方向音痴だ。
――そういや、行きは行灯なんか、置いてなかったじゃないか? しょうがない……戻るか
踵を返した時、女の声が聞こえてきた。細く弱々しい声だ。よく知っている……
「イアン様をお守りしたい。せっかく生きて戻られたのに、また危険な場所へ行くなんて……」
「おまえは行くべきじゃない。イアンだってそんなこと望んじゃいない」
「あたしは死んだっていい。イアン様のおそばにいたいだけ」
キャンフィだ! 話している相手はカオルか。イアンは生命活動を最小限に抑え、襖に張り付いた。この襖の向こうにカオルとキャンフィがいる。
「じゃ、俺がイアンを説得するから」
「イアン様はあんたの言うことなんか、聞きやしないわ」
「説得できなければ、俺も蓬莱山へ行く。イアンが戻ると言うまで守るから」
「信用できるの?」
キャンフィが自分のことを気にしていたと知って、イアンの胸は高鳴った。カオルは、蓬莱山までついて行こうとするキャンフィを止めているのだ。
――そりゃ、そうだよ。キャンフィも一応兵士だけど、女の子だもん。俺だって止める。
カオルは止めても聞こうとしないキャンフィに苛立っている様子だった。押し問答を繰り返し、二人とも黙り込んだ。険悪な空気だ。
「にゃぁん」
猫の鳴き声が気まずい沈黙を破る。クロの鳴き声は癒しとなる。
キャンフィの溜息のあと、カオルは口を開いた。
「これは大切な弟の形見だ。この剣に誓おう」
弟の形見……イアンはおぼろげな記憶を呼び起こした。
カオルの弟のアキラとは一度だけ戦ったことがある。アスターのラヴァーほどではないが、大剣をよく使いこなしていた。
そういえば、致命傷を負ったアキラが倒れかけ、剣を落とした時、柄の部分にイヌワシの彫刻がされているのを見た。一瞬、王家のものでは?と思い、二度見したのだ。そうしたら、三つ首ではなく双頭だったので、「なんだ、まがい物か」と思ったのである。
――今から思えば、あれは王家の物だったんだな
「誓おう」
カオルの声がうわずっている。キャンフィを前にして、緊張しているようだ。
イアンはキャンフィの顔かたちを思い浮かべた。
まず、目を奪われるのは白に近い金髪。柔肌は甘い香りを漂わせる。髪と同じ色の睫毛を伏せ、笑顔を見せれば、そこら中に花が咲いてしまいそうなぐらい愛くるしい。なにより、イアンとお揃いの褐色の瞳だ。始めて彼女と出会った時の衝撃が蘇ってきた。こんなにも、美しい人をイアンは見たことがなかった。
「イアンを必ず説得すると誓う。もし説得できなければ守る。騎士の名にかけて……」
男にしては高音のカオルの声が思い出を邪魔する。襖一つ隔てた向こうで、キャンフィと見つめ合っているのかと思うと不快だった。
「アニュラスに宿りし聖霊よ。我が名、名誉、誇り、尊厳にかけて、家族、友人、愛する者すべてにかけて誓おう。命に代えてもイアンを守ると……」
──いや、おまえごときが俺を守るって? ふざけんなよ? キャンフィの前でカッコつけるなっての!
危うくイアンは襖を蹴飛ばしそうになった。ムカつくが、気づかれてはいけない。
「必ず、必ずよ……? イアン様が無事でなければ、あんたのこと許さないから」
キャンフィは鼻をすすっている。胸がキュンとして、イアンは襖から離れた。足音を立てず、廊下を逆戻りする。
どうして気づいてあげられなかったのか。砂浜で再会した時、彼女は泣いて駆け寄ろうとしていたではないか? いや、もっと以前から――
十二歳のころ、養父母の企みにより、イアンはキャンフィと引き離された。つらく、恐ろしい経験だった。自分を責め続けたし、何年経っても傷は癒えなかった。
だが、初恋を忘れようとしたイアンとは反対に、キャンフィは兵士としてローズ城に戻ってきたのだ。イアンはずっと彼女を無視し続けていた。
男が大多数の兵営で、彼女が性的な被害を受ける可能性もあった。イアンは上官に彼女の様子を逐一報告させ、目を光らせてもらっていた。また、なるべく自分の近辺を警護させるぐらいには、気にかけていた。
また離されるのでは……という懸念がイアンを臆病にさせていたのである。別人のように冷たくなったキャンフィが、自分を愛してくれるのか不安も抱いていた。
盗み聞きは倫理に反するが、聞いてよかったと思う。キャンフィの気持ちを確認することができた。カオルがキャンフィと付き合っていると言ったのは、真っ赤な嘘だった。
――思い返してみると、あいつ、まえからキャンフィのことが好きだったよな?
視線やしぐさ、表情などで、なんとなくわかるものである。カオルの嫉妬と羨望の入り混じった眼差しは、イアンの虚栄心を満足させていた。
――俺は逃げていただけだ。蓬莱山から戻ったら、自分の気持ちをちゃんと伝えよう
夢想はイアンを心地よい眠りへといざなう。廊下をぼぅっと浮かび上がらせる行灯が、余計に眠気を倍増させた。
なんとか、控えの間まで着いて安堵したところ、
「にゃぅん」
足下から鳴き声が聞こえ、イアンは飛び上がりそうになった。黒猫がこちらを見上げている。
「びっくりさせんなよ? くそ……ついて来てたのか」
カオルたちに感づかれなくても、五感の発達した猫にはわかってしまったようだ。
「あ、ついでだし、俺のいた客間まで案内してくれないか?」
「にゃん!」
試しに提案してみたところ、元気な返事が返ってきた。
クロは尻尾をピンと立て、先を歩き始める。言葉が伝わっているみたいだ。
「カオルより、おまえのほうが賢いな?」
「にゃ」
「おまえの飼い主の悪口を言うのは悪いけどさ、あいつはバカだよ」
「にゃー」
「俺のほうがバカだって? くっ……猫の分際で生意気言いやがる」
「んにゃ?」
なぜだか、猫と会話が成り立っている。酔っ払ったか。凄まじい睡魔はイアンの足をふらつかせた。
――おっかしいな? 一盃しか呑んでないはずだぞ? 眠すぎる。
普段のイアンにとって、盃一杯は水と同じである。酔おうはずがないのだ。食べ合わせが悪かったのか? 食べ慣れていないものを食べたから? あの素晴らしい焼きむすびのせいにはしたくない。そうだ、あいつのせいにしよう。
――カオルめ、卑怯な嘘をつきやがって! キャンフィのことは渡さないからな!
憤り、肩を怒らせることで、眠気を吹き飛ばそうと考えたが、思うようにいかなかった。異常な眠たさだ。
まだ思い当たることがある。昼間、小太郎と戦った時、能力を使った。むやみに力を使うべきではない……
耐えきれなくなり、イアンは膝をついた。
「……ダメだ……もぅ、一歩も歩……け、ない」
「にゃぅーー」
イアンは冷たい床に倒れた。




