15話 イアンは手紙を書く
(イアン)
船室へ戻った時には風呂上がりのような状態だった。つまり、ずぶ濡れ。上から下までそれこそドブネズミみたいに濡れそぼっている。
濡れて額に張り付いた髪をイアンはかき上げた。呆れ顔のサチと、何か言おうとするアスターが目に入る。
「黙っとけよ。クソジジイ」
言われる前に先手を打つに限る。
これで黙るような男でもないのだが……
上品な貴族口調はアスターを前に三日と持たなかった。今では日に一回やり合うのが日課となっている。
「自己陶酔は結構だが、ほどほどにしとけよ。これで風邪でも引いて肺炎にでもなったら永遠の笑い草だ。大馬鹿ジンジャーの最期は自己陶酔病でしたと……」
──ほーら、始まった
「あいにく俺は若いんでね。どっかの老いぼれとは違って。あ? ジジイ、大丈夫か? 船酔いでまたゲロ吐くなよ?」
「おまえみたいな野生の血が入った私生児と違うんでな。血筋がいいんで少々繊細なのだ」
「ぷ……血筋だと? 田舎の芋男爵風情が!」
「今は侯爵なんだがな」
「俺を殺したって嘘を吐いてな」
「いや、嘘は吐いてないぞ? 手柄はユゼフにやった。まあ、おまえに圧勝したのは私だが……今でも余裕で勝てる自信はあるし」
「お? やるか? ジジイ? 前みたいに俺は手加減しないからな?」
こんな感じで喧嘩が始まる。
そして、いつもうんざりした顔のサチが止めに入るのだ。
「いい加減にしろよ。二人とも。喧嘩の内容が低次元過ぎる」
「なぬっ!?」
「頼むよ、アスターさん。狭い船室で暴れたら船長にも迷惑がかかる。これは借りてる漁船なんだから。それにそうやって煽るからイアンも向きになるんだ」
今、三人が乗っているのは小型の漁船である。同乗者は船長だけで、身の回りのことは全て自分達でやらねばならなかった。
二段ベッドが部屋の半分を占める。船員が使っていた部屋だろう。それが三人の居場所だ。
グラリ、突然船が傾いた。
良いタイミングだったと言うべきか。
体勢を崩し三人とも床に倒れ込む。
こういう時、いち早く体勢を直すのはアスターだ。
「大丈夫か?」
まず、イアンの無事を確認してから、サチの方を見る。途端に居心地悪くなり、イアンはうつむいた。
「魔の海域に入ったかもしれん。渦潮に巻き込まれんといいのだが。む、床が濡れてるぞ。早く体を拭いて着替えろ」
アスターは肌触りの良い亜麻布をイアンへ投げてよこした。何故かやたらに世話を焼きたがる。それが鬱陶しくもあり、むず痒くもあるのだった。
例えば、部屋に二つしかベッドがないから、イアンは交代で床に寝るのだと思っていた。以前は床に寝るなど考えられなかったが、今では平気だ。王子と言われようが、自分に価値などないのは分かっている。
それが……
アスターが進んで床に寝たのである。
普段の傲慢な態度からは考えられない行いである。
「アスターさん、交代にしよう」
サチが言っても、頑として聞かない。
床がいいのだと。お前らはベッドで寝ろと。訳が分からなかった。
義父のハイリゲ・ローズは見栄っぱりの臆病者。虎の威をかる狐。絵に描いたような俗物だった。分かりやすいクズである。
アスターはそれ以上に傲慢で意地悪、自分勝手、利己的、冷酷無比の暴君。
……それなのに分からない。
揺れが収まっても、アスターは注意を払い続けた。
「いいか。もし船が沈没しようとも、グリフォンの入った魔瓶がある。これに乗っていけばエデンへ行ける」
グリフォンの話は初耳だ。イアンは大して驚かなかった。魔国にいた時のことを思い出したのである。
──魔瓶か。そういや、魔国にアスター達が侵入した時もグリフォンを使っていたな。身近によっぽど優秀な魔獣使いがいるのか
エゼキエル王配下の魔人がグリフォンを見たと言っていた。イアン自身も逃げる時に遠目から見ている。チラッと見たただけだから、詳しいことはよく分からなかった。
「だが、突然エデンへ押しかけても、テイラーは拒絶するだろう……そこで、だ。イアン」
「なんだよ?」
「やはり馬鹿だな、おまえ。全部言わんとダメか」
「は!?」
「アスターさん」
サチがまた間に入る。
「アスターさんはイアンに文を書いて欲しいんだ。テイラー卿へ。取りあえず理由はぼかして会いにきたと。伝えてほしい」
「……分かった」
イアンはしぶしぶ引き受けた。
エンゾ・テイラーには世話になっている。確か、八年戦争が始まってから一年後だ。彼がローズに来たのは……戦地で負傷したことが原因だったと思われる。
まだ先代のレオンが存命中だった頃だ。父親や弟と仲違いしていたエンゾはエデンへ帰らず、ローズ城で剣術指南役を務めた。
イアンがまだ十三の時である。
父の形見と渡されたアルコがエデンの剣だったこともあり、エデンの剣術を学ぶことになった。エンゾがローズにいたのは五年間。先代レオンが亡くなり、エデンの領地を引き継ぐため国へ帰った。
──日々の鍛錬において最も大切なのは心構えである。道具を磨き、足元を整えよ。入念な準備は戦いを勝利へと導く。修練とは準備から始まるのである
こんなことを言っていた。
生真面目、実直。
ストイックで妥協を許さない。
欲やら驕慢※やらはエンゾの最も憎むものであった。
イアンはエンゾの前で、いつも猫を被っていたように思う。
剣に対する姿勢や戦い方を学ぶも、実のところエンゾという人間が苦手だった。
剣に関すること以外、基本ノータッチだったから、言動を批判されることはなかったのだが。何度かこっぴどく叱られたことはある。
剣が絡むと、だ。
確か手合わせ中に我を忘れて激昂してしまった時、それと真剣で遊んでいた時……あと、ユゼフの兄ダニエル・ヴァルタンに戦いを挑んだ時も……
──剣は命のやり取りをするもの。命を奪う、奪われる覚悟のない者が扱っていい代物ではない。遊びで剣を振り回す者に剣士としての資格はない
乗船前、アスターと真剣でやり合った時のことをイアンはフッと思い出した。喧嘩のきっかけは一体何だったか……
「この、クソじじいいいいいいっっ!!! くたばれええええーーー!」
「体ばっかデカいクソガキが! 返り討ちにしてやるっ!!!」
こんな調子でラヴァーとアルコは火花を散らしていたのだが。
騒然となった波止場には人だかりができた。
頭に血が上り、我を忘れるほどだった。どちらかが怪我するなり、死んでもおかしくない状態だったかもしれない。ちなみに喧嘩の原因はよく思い出せない。どうせ些細なことだ。
決死の覚悟の上、間に入ったサチのおかげでなんとか収まった。
──大丈夫か……アスターとエンゾ先生。絶対、上手くいかないだろ……
エンゾはアスターと正反対の性格である。
エデンに着くなり、海へ放り出される可能性だってある。
エンゾへの文は出来るだけ丁寧に書いた。
シーマのことは伏せ「折り入って相談したいことがある。恥を忍んで伺うので話だけでも聞いてほしい」と。
有り難いことに船はもう揺れなかった。
大体三十分くらいだろうか。
字は筆道の先生にも美しいと誉められたことがある。子供の頃から躾が悪いとよく言われたが、こういう所に育ちの良さが出ると思っている。
イアンは満足して書き上がったものを眺めた。
我ながらよく書けた。
文才には自信がある。
が、悦に入ってる所にまたアスターの横やりが入った。
「サチ、見ろよ。イアンのこの字……おまえ、オカマみたいな字を書くのな」
イアンの中で何かがプチッと切れた。
手元にあったインク壺をアスターに投げつける。
「ギャッ」という悲鳴とともにアスターの上衣に黒い染みが広がった。
アスターのダブレットは黄金色の上質なウールで仕立てられており、細かく家紋の花文様が編み込まれている。細かい模様を布地の段階で編み込むのは相当の手間を要するだろう。アスターは衣服や身の回りの小物にとことん凝る性質だった。
「貴様ッ!! 何をする!? 気に入っていた服によくもッッ!!」
顔を真っ赤にして猛り狂うアスターを前にイアンは淡い後悔を感じた。その一方で真っ直ぐ睨みつける。
「はい、今のはアスターさんが悪い。イアンも落ち着け。それ、すぐ洗濯すれば落ちるかもしれないから脱いで寄こしな」
冷めた口調のサチが間に入れば、二人とも冷静さを取り戻す。いつもこれの繰り返し。
ドアの向こうから、船長の声が聞こえた。
「雨、上がったどーー! エデンがもう見える!」
三人同時にバタッと立ち上がった。
※驕慢……驕り高ぶる態度




