32話 遺言書(シーマ視点)
翌朝、シーマはヴィナスのもとを訪れた。
いろいろ考えたいことがあり、一晩彼女を放置したのである。ヴィナスはシーマの部屋から、与えられた自室へ移されていた。
軽い軟禁状態だ。外出を許さず、行動も制限している。
彼女の部屋へ向かう途中、シーマは回廊の窓から差し込む陽光を浴びた。
部屋で、可憐な王女も同じ景色を眺めているかもしれない。
キラキラ輝く湖と色とりどりの野花が咲き乱れる草原、それらを囲む荘厳な山々。
少々浮かれ気味にシーマはドアをノックした。軽く、リズミカルに拳を打ちつける。これから待っている仕事はかなり重要だが、楽しい部類に入る。
邪悪な毒蛇の始末より、かわいい女の子とイチャイチャするほうがいい。シーマは強めに焚いた香が服にちゃんと染み込んでいるか、確認した。
「……シーマなの?」
ドアの向こうから、うわずった声が聞こえる。奥からパタパタと近づく足音は幼女のようだ。
ピタリ、ドアの前で止まる。おそらく髪を入念に整えているのだ。
用心深く、少しずつ開かれるドアの向こうに愛らしき姫が立っていた。
「ああ、シーマ! あなただったのね。どうして、昨晩は戻ってきてくれなかったの? 一人ぼっちで、どんなに心細かったことか……」
「申しわけありません、ヴィナス様。今は戦の真っ最中なのです。国王陛下を、あなたの大切なお父上を傷つけ、城を奪った悪漢を倒して、王城を取り戻さねばなりません。それにあなたの姉上、ディアナ殿下の行方も調べておりましたし……本当はずっとお側にいたいのですが……」
侍女たちの前では敬語で話す。
ヴィナスはシーマの腕の中に倒れこんだ。
華奢な身体は抜け殻みたいに軽い。壊れそうなその体を好き勝手に味わうのは、一仕事終わってからだ。
シーマは優しく受け止める。小ぶりな耳に口を近づけ、愛の言葉を囁こうとした。だが、
「アダムは? 私の従者は無事なのかしら? 時間の壁が現れたことを、ダニエル・ヴァルタンに知らせに行ったはずだけど……」
不快な名が彼女の口から飛び出し、恋愛ごっこを妨げた。
シーマの指示で、ヴィナスはアダムを壁へと送り出していた。壁には通れる場所があると、シーマは伝えていたのである。
シーマは笑顔の仮面を外した。
祭壇に供える生け贄の話など、わざわざしたくない。儀式で子羊の首をかっ切って血を振りまこうが、哀れんだりしないだろう。それは贖罪や信仰心を示すために必要な行為だからだ。
同じくアダムを生け贄に捧げたのは、世界を良へと導くために必要なことであった。
「アダム・ローズは亡くなりました」
シーマの腕の中、ヴィナスは呆然とした。彼女は何も知らない。
シーマがアダムに暗示をかけ、体に重しをつけて壁を渡らせたことも。そのせいで老人になってしまったことも。
表向きはダニエル・ヴァルタンと学匠シーバートへ向けて、内実はユゼフへ文を届けるために向かわせた。本当は、時間の壁に通れる場所なんかない。ディアナを約束の場所へ導くために、アダムを犠牲にしたのだ。
──死んだかどうかはわからぬが、長くは持たぬだろう。魔女の話だと、壁を無理して通った者は一年も持たなかったというから。
壁が消える一年後には、生きていないとシーマは思った。
時間の壁の存在も、この壮大な計画の一部である。壁の出現時期は通常、五~十年に一回。預言者たちが天体の動きを元に複雑な計算のうえ、導き出す。
預言者を取り込み、わざと嘘の預言をさせたのだ。数ヶ月ほど遅れて、出現することにしてもらった。クロノス国王はカワウとの講和条件であるディアナ王女とフェルナンド王子の婚約を進めるため、慌てて旅路につかせた。
これで、ディアナとダニエル・ヴァルタンの留守中に壁が出現する。
英雄ダニエル・ヴァルタンの存在は、この計画の妨げになる。ディアナも然り。
ユゼフから聞いた話では、ディアナはヴィナスと違い、自己主張の激しい娘だ。計画の進行中に余計な口出しをされては困る。ヴィナスのように操作しやすい娘のほうがいい。
ややあって、呆然としていた小鳥が腕の中でさえずり始めた。
「なんですって!? あの、アダムが……私、本当に一人になってしまったわ。お母様も囚われてしまったし、お姉様も国外で戻ってこれない……」
ヴィナスは泣き崩れた。
「気をしっかりお持ちください。あなたには、このシーマがおります」
シーマはヴィナスの涙を指で拭った。
「美しいあなたに涙は似合いません。ケガと戦っておられる国王陛下のためにも、前向きになりましょう」
シーマの優しい言葉は乙女の胸に響くはず。ジッと見つめれば、ヴィナスは熱に浮かされたようにぼうっとして、見つめ返した。
「ヴィナス様にお手伝いしていただきたいことがございます」
シーマは彼女から目を離さず、話を切り出した。
「国王陛下の遺言を書き写してほしいのです。陛下はまだ意識のあるうちにと、遺言を残してくださったのですが、ケガのせいで手が震えてしまい、正式な文書としては残して置けないくらい字が歪んでしまいました。ご本人の前で内容を読み上げますので、清書していただけないでしょうか?」
ヴィナスは素直にうなずいた。
「それと、現在の状況を伝えるため、国外にいる学匠のシーバートへ文を書いていただきたいのです。」
「わかったわ」
シーマはヴィナスと仲良く腕を組み、国王がいる隣室へと向かった。
国王が泊まるというので、一番豪華な部屋を差し出している。壁にかかるタペストリー、絵画、カーペットや調度品、どれも一級品だ。しかしながら、無意味な気遣いだったかもしれない。
意識はあったものの、国王はベッドの上で瀕死の状態だった。
土色の肌に唇はひび割れ、目は酷く落ち窪んでいる。生気はほとんど失われていた。視力も失くしているだろうから、粗末な使用人部屋か牢獄でも事足りた。
その国王の前で、シーマは汚れた原本を読み上げていった。
「遺言者、鳥の王国国王クロノス・ガーデンブルグは次の通り遺言する。下記の財産、及び権限をすべて長子アレースに相続する。国庫内の財産、及び各地領主からの献納、鳥の王国全域、他国領有地内の国民、領主、聖職者に対する統治権、支配権、裁判権、議会発言権、及び決定権……王国軍、及び王都衛兵団と王騎士団の指揮権、王国内すべての教会の運営権、その他すべての国王が有する権限……」
シーマはヴィナスが間違えないよう、ゆっくりと読み上げていった。
「以下の財産、領有地であるカシャーン地方、チャルース地方、ギャンジャ地方……」
その間、国王はずっと一点を見ていた。
ヴィナスはときおり心配そうに父親の顔を窺っていたが、手を休めることはなかった。
「……長子アレースが亡くなった場合、この相続は次男アトラスに。アトラスが亡くなった場合は、三男エルメスに。エルメスが亡くなった場合は……息子すべてが亡くなった場合は孫である王子たちに。先に産まれた以下の順番に相続させる……」
そこでシーマは一息入れる。必死に書き取っているヴィナスをチラリと見た。
「すべての王子が亡くなった場合は、血縁の近い順にヴァルタン家、シャルドン家の当主に」
ローズ家は一番血縁が近かったが、謀反人を出したために除外されている。
「さらにそれも叶わぬ場合は、上記当主の子息、長子から順番に王位の継承を行うように。ガーデンブルグの名と血を絶やさないため、第一王女ディアナとの縁組を執り行う。ディアナに何かあった場合は、第二王女ヴィナスと……」
ヴィナスは手を止めた。自分の名前が出たから無理もない。
「これは、もしもの時の取り決めです。お気になさらぬよう」
不安を滲ませるヴィナスにシーマは、いつもの笑みを見せる。別にたいしたことじゃない、万が一の取り決めだ。国王は健在なのだから──そう、目で訴えつつ、圧を与える。
結局、ヴィナスは言われたとおり全部書いた。
「お父様、これはお父様の遺言を書き写したものです。こちらにご署名を」
ヴィナスが指し示す場所に、国王はおとなしくサインをした。
大量に投与した痛み止めのおかげで、国王は朦朧としている。シーマの言葉なんて、何一つ耳に入っていない。夢見心地のまま、目も通さず、サインしたのである。
「次はシーバートへの文です」
今度はシーマの部屋へ移動した。
順調なのはここまで。部屋に着き、椅子に腰掛けるなり、ヴィナスは駄々をこね始めた。
「ねえ、シーマ、私とっても疲れたわ。お願い、休ませてちょうだい……」
「あともう少しで終わるよ。そうしたら、ご褒美に甘い物でも食べよう」
侍女は下がらせている。
シーマはひざまずき、彼女の手を取った。指を絡ませ、熱を帯びてきたそれに口付けする。
それでも、彼女は首を縦に振ろうとはしなかった。
「もう、いや……限界よ。閉じ込められて生活するのも、自分の城に戻れないのも、家族に会えないのも……イアンと直接話すことはできないの? 私、まだイアンの起こしたことが信じられない……」
ヴィナスの母はイアンの母の妹……つまり、謀反を起こしたイアンはヴィナスの従兄弟だ。
ヴィナスは幼いころから、イアンを兄のように慕っていた。くわえて、国外に出した侍従のアダムはイアンの弟だ。彼女はもともとローズ側の人間なのである。
シーマが第一王女のディアナにこだわるのは、ここであった。
ディアナとヴィナスは腹違い。ディアナの亡くなった母は、グリンデルの女王の妹だ。
王位を継ぐにあたって、謀反人の一族とつながりがあっては世間体が悪い。
「ねぇ、シーマ……遺言書の作成や学匠への手紙って、そんなに急がねばならないものなの? 私はあなたが部屋に来た時、慰めてくれるものとばかり思っていたのに……もう、何もしたくないわ」
ヴィナスは褐色の目に涙を湛え、訴えてくる。さっさと仕事を終わらせたかったが、シーマは焦る気持ちをグッと押さえ込んだ。
ここでへそを曲げられては困る。彼女には、こちら側にいてもらわねば。
「ヴィナス、あなたの気持ちをわかっているつもりだったけど……すまない、国王陛下のために、やらなければならないことがたくさんあって……せかしてしまったね? あなたからしたら、事務的な仕事をする余裕なんてないのに……どうすれば、あなたの苦しみを和らげることができる? 俺が代わりに負うことができればいいのだけど……」
シーマはヴィナスの手をギュッと握った。真顔になり、視線を交わす。
シーマの灰色の瞳とヴィナスの褐色の瞳──ぶつかり合い、絡まり合う。衝突した自我と自我が互いの中へ入り、溶けて混じり合う。どちらかが、どちらかを食らうのだ。
ヴィナスの体から力が抜けていった。
「シーマ、あなたは……」
「もう、何も言わなくていい」
シーマはヴィナスを抱き寄せる。
カタツムリは恋矢を相手に突き刺しながら交尾する。自らの優位性を主張するために、相手を屈服させるために、傷つけながら愛し合うのだ。
互いに命懸け。恋とはそういうものだ。
シーマは笑顔の仮面を取った。
それから、荒々しく扇情的に、強圧的に──キスをした。




