63話 ユゼフが去ったあと(ディアナ視点)
ユゼフが去ったあと、ディアナは勢いよく吐いた。
ガウン※は目も当てられぬ状態。絨毯には吐瀉物の水溜まりができる。辺り一帯を漂うのは、酸っぱい胃酸の匂いだ。それを嗅いでまた気持ち悪くなる。
「すぐに片付けさせます。陛下はこのまま、お待ちください」
こんな時でもミリヤは落ち着き払っていた。ササッとディアナの顔をハンケチで拭い、扉のほうへ向かう。途中で立ち止まり、転がっているお守りに手を伸ばした。
「ふれないで!!」
ディアナの叫びに、ミリヤはビクッと体を縮こまらせた。
「かしこまりました……」
ギギギ……
扉が寂しげな音を立てる。パタパタと足音が遠ざかる間、ディアナは必死に吐き気をこらえた。
足音が完全に消えてから、一歩進む。視線の先にあるのは、鈍い光を放つ真鍮のお守りだった。
他の女の手で汚されたくなかったのだ。大切な、大切な物だから……
──どうして、どうして?……お腹に赤ん坊さえいなければ、彼の申し出を受け入れたのに……本当に愚かだわ。愛する人が共に行こうと言ってくれたのに……
腹を殴りたい衝動にかられる。誤ってできてしまった子だ。産みたくない。
産んでしまえば、売女と罵られ、王位の奪還どころではなくなる。この事実をシーマ側に知られれば、裁判で争うにせよ、あちら側の有利に働くだろう。
──産んだら殺さねばならない。成長するまえに流れてほしいものだ
そんなことを考えていると、幸せそうなヴィナスの姿がフッと浮かび上がってきた。シーマの子が入った腹を愛おしそうに撫でる姿が……
ディアナは二年以上、シーマと性交していなかった。結婚したばかりのころは子作りに励む時期もあったが、せいぜい一年も続かなかったのだ。その間、シーマはヴィナスに夢中だったと思われる。
ディアナが望まぬ妊娠に苦しむ一方で、ヴィナスは人から奪った幸せを堪能している。祝福される妹の存在は激しい憎悪を生んだ。
──たしか、何日かまえに産まれたみたいだけど……ヴィナスもろとも、死んでしまえば良かったのに
自分を裏切って、憎い男と睦まじい様子を見せつける。そんな妹を許すことはできなかった。
──あの子も私と同じ目に合わせなければ、割に合わないわ。せいぜい短い間、王妃の座を楽しむことね
ミリヤが下女を連れてきたころには、ディアナはだいぶ落ち着いていた。
「ユゼフの甘言に惑わされなかったので、ホッとしました」
ミリヤはディアナの体を拭きながら言った。
「陛下が正当な王位継承者であるという主張を、あの男は退けたかったのです。気のある素振りを見せて誘惑し、グリンデルへ追いやるつもりだったのですよ」
「わざわざ言われなくても、わかってるわ。ただ、少し……ユゼフがこちらに寝返るのではないかと、期待してただけ」
「陛下……ユゼフは頑固な男ですし、シーマとは深いつながりがあります。こちら側につくことは、絶対にないでしょう」
控えめなように見えて、知ったような口をきく。
「どうして、おまえにそんなことがわかるの?」
ミリヤは答えず、ごまかしのつもりか、ディアナに着せたコルセットの紐を強く引っ張った。
「なによ? 言いなさいよ」
「………ユゼフの体に臣従礼の痕がありました」
ユゼフの体に──ミリヤに彼を奪われたことを思い出し、ディアナの胸はキュウッと締めつけられた。
「魔族のやり方です。体に契約のしるしを残すのですよ。自らに呪いをかけるのです。シーマを裏切れば、ユゼフは死にます。シーマが死んでも同様に」
「嘘でしょ!?」
ディアナは思わず振り返った。背後でミリヤはコルセットの紐を結んでいる。
「嘘ではありません」
「……なんてことなの……」
「それを見たのは五年前、主国へ帰るまえです。ユゼフはシーマの命で陛下のことを守っていたのかと」
「わかってる……わかってるわよ」
宰相に任命された時、微笑んだユゼフの顔は忘れられない。あの時、ディアナは欺かれたと思ったのだ。愛していたのに、彼は出世のためディアナを利用した。
ディアナはふたたび嘔吐しそうになり、うつむいた。
「……んぐ……ミリヤ、もう耐えられない。産婆を呼んできてちょうだい。こんな不自由な体と、とっととサヨナラしたいの」
ほぼ着付けは終わり、ミリヤは乱れた髪を直しているところだった。
産婆を呼んで堕胎する。ディアナの恐ろしい提案に、ミリヤの手はいったん止まる。
「……そのまえに客人を待たせております」
「客人? 誰よ? また騎士団から抜けてきたとか?」
「いいえ。魔女のリゲルです」
「魔女の……リゲルですって!?」
──そうだ、忘れもしない。五年前
ディアナとユゼフを引き離し、壁を通ってシーマのもとへ連れて行った女だ。
「なんの用なの? あの女が?? シーマの家来ではないの?」
「王室付魔術師だから今はそうなります。ですが、神出鬼没で……五年前、ディアナ様を王城へ連れて行ったあと、一度も姿を現してないのです」
「でも、シーマの命で私に壁を越えさせたわ」
「リゲルは長くガーデンブルグ王家に仕えている魔女です。私もリゲルから教育を受けました。あの時はシーマの命に従ったというより、陛下を……ディアナ様を助けるために壁を渡ったのかと思われます」
「つまり、私たちの仲間になり得るってこと?」
「ええ」
ミリヤはうなずき、ディアナの髪から手を放した。吐く前より綺麗に結い上げられているのを、ディアナは触って確認した。
汚れた絨毯は片づけられ、床も綺麗に拭き終わっている。
「わかったわ。じゃ、連れてきてちょうだい」
※※※※※※※※
リゲルはディアナを前にしても、ひざまずこうとはしなかった。
輝く金髪に分厚い唇。大きな垂れ目と赤い唇は、ともすれば幼い印象を受ける。右手にだけ黒い手袋をはめているのが、妙にアンバランスだ。
顔立ちは愛らしいのに、怪しい雰囲気を醸し出しているのは表情のせいだろうか。リゲルは口の片端を吊り上げ、皮肉めいた笑みを見せた。
「久しぶりねぇ……女王サマ」
数年来の友人と出会ったような気安さだ。ディアナはイラついた。
「陛下、お気になさらないでください。リゲルはああいう女なのです」
ミリヤが耳打ちする。ディアナは動揺を息と一緒に呑み込んで、平静を装った。
「久しぶりね。リゲル……で、あなたがここに来たのは、どういった理由からかしら?」
「言わなくても、わかるじゃろう? そろそろお困りかなーって思って、来たわけ」
「どういうこと?」
「エンゾの子を身ごもってるじゃろ? 力を貸してやってもいいぞ」
「なんで……」
最も秘密にしておきたいことを胡散臭い魔女に指摘され、ディアナは言葉を詰まらせた。
「なんで知ってるの?って、言いたいんじゃろう? わし、なんでも知っとるわ。あんたとユゼフ・ヴァルタンが恋仲だってこともね」
「黙りなさい! これ以上、無礼な態度を取るなら、命はないと思いなさい! どういうつもりで、私に協力するつもりなの?」
ユゼフのことを言われると、ディアナは動揺を隠せなくなった。
──なんでよ? なんで知ってるの??
「まあ、わしが三千年くらいまえから生きてる魔女だからじゃろうなぁ。三千年前といったら、旧国民の祖先と亜人がこの大陸にやって来たころじゃ。だから、だいたいのことはわかるんじゃよ。時間の壁を使えば、時間移動もできるしな」
──まさか、心まで読めるとか、言うんじゃないでしょうね?
ディアナはリゲルをひたすら、にらむことしかできなかった。
「わしがあんたに協力する理由? 単におもしろいからっていうのもあるけど……このゲームには女王の駒が二つ必要なんじゃ。グリンデルのナスターシャと、主国のディアナとな?」
「ふざけないで! 私はおまえのゲームの駒になんかなるもんですか!」
「時間を移動すれば、安全に出産できる。誰にもバレずに」
青すぎる瞳でリゲルはディアナの顔色をうかがう。ディアナは、振り上げた拳を下ろせなくなってしまった。
「ディアナ様、リゲルの話を聞きましょう。必ずや助けになるはずです」
横でミリヤがささやく。ディアナは腹をくくった。
「わかったわ。どういうことか説明して」
「まず、腹の子の父親、エデンのエンゾ・テイラーに文を書け。その伝手でエンゾの双子の弟を紹介してもらうのじゃよ。名をリュカ・アナンという。カワラヒワ(夜の国)のラール地方を治める侯爵じゃ。過去のアナンの所で安全に出産したあと、この時間に戻ってくればよかろう。子供はアナンに養育させればいい」
「アナンに断られたら、どうなるの?」
「その時はその時じゃな。また、時間の壁を通って戻る。その場合は、子の父であるエンゾの世話になるしかないじゃろう。身重でエデンまで行くのはキツかろうが」
「ちょっと待って。今、頭の中でまとめる」
わざわざ過去へ行かなくても、最初からエンゾの世話になる手もある。夜の国かエデンか。どちらが自分にとって良い場所か? ディアナは懸命にイメージしようとした。エデンは行くには遠すぎる。しかし、夜の国へ行って、アナンに断られた場合は二度手間になってしまう。
たしか、エンゾには子がいなかった。真面目、実直なエンゾのことだから、ディアナとの結婚を望むかもしれない。
──もし、そうなったら……私はエンゾの……田舎貴族の妻になるってこと?……いいえ、シーマとの婚姻を解消してないから、正式な結婚はできない。身分を隠したまま婚姻を結べば、妾。ただの情婦よ。
顔からサァーと熱が引いていくのを、ディアナは感じた。リゲルはディアナの様子などお構いなしに、話を続ける。
「一つ注意点がある。もし、一年過ぎて壁が消えてしまったら、次に戻れるのは十二年後じゃ。わしが自由に行き来できるのは、壁が現れてる間だけじゃからな。例えば二十五年前に移動した場合、次に壁が現れるのは十二年後……八年後……現在……あ、言い忘れてたけど、さっき壁が現れたぞ」
「え!? 時間の壁が!?」
その時、扉の向こうから兵士の狼狽した声が聞こえた。
「女王陛下に申し上げます! 一大事でございます!」
「なにごとだ? 申してみよ」
「時間の壁が現れました!」
仰天するディアナに対し、リゲルは楽しげに笑い声を立てる。
「ケタケタ……だから言ったじゃろうが。さあ、どうする? 王子を産めば駒になる。あんたが死んだ時の保険じゃ。不義の子であっても、ガーデンブルグの血を引くのじゃからな。妹のほうが一歩リードしてるぞ?」
「私に不義の子を産めというのね。好きでもない男の子供を」
「ああ、そうじゃ。そうしたほうがあんたの有利に働くはず。なぁに、心配ない。ほんの数時間で戻って来れるよ。こっちの時間ではな。ピッタリには無理じゃ。これがなかなか、微調整が難しい」
ディアナはしばし思考した。お腹の子供に愛情はない。だが、妊娠して三か月は経っている。中絶は月数が多ければ多いほど危険を伴う。妊娠できない体になるかもしれないし、死ぬ可能性だってある。
もしくは、産んでから赤ん坊を殺す……これはできれば、やりたくない方法だった。
この世で最も無垢で愛されるべき存在を手にかける、どんなに冷酷な人間であっても、躊躇するだろう。妊娠してから、ディアナを悩ませる一つの幻影があった。
産声を上げる赤ん坊へ魔の手を伸ばす。産まれたばかり……その名のとおり赤子。赤子のイメージは弟のニーケだろうか。
ほんの少し力を入れるだけで、砂糖菓子のように崩れてしまう脆い存在。守られることが前提だから自衛する術を持たない。その儚い者を手にかける。自身では支えられない頭部の下で肉に隠れる首をつかむ。
ギュッと力を入れれば、柔らかい骨はクネッと曲がる。泣き声は止まり、赤ん坊は氷のごとく冷たくなる。
ディアナはこの悪夢に何度もうなされた。無慈悲な未来は、確実にディアナを苛んでいる。
「聞いてもいい? もし二十五年前に戻って、一年経ってしまった時は? 壁が消えて戻れなくなった場合、次に戻れるのは十二年後よね? 十二年後、私は十二歳年取った状態で、この時代に戻るの?」
ディアナの質問に、リゲルはまた笑い声を立てた。
「わしの見た目を見りゃ、わかるだろうよ。壁を通る時に好きなだけ若返らせてやるよぉ。あんたが一番いい状態の時にな」
「信じられない。そんなこと、可能なの?」
「時間の粒子を身体に取り込む。通常であれば時間が早送りされて、老人になってしまうが、わしはそれを逆流させることができる」
──時間の壁を使えば、永遠に美しくいられる……
そこまで聞くと、ディアナの心は決まった。
「わかった。今からエンゾ・テイラーに文を書くわ。バレないように、過去で出産することにする。だけど、子供は育てないし、産んだらすぐに帰る」
※ガウン……ドレスのこと。日常で婦人が身に付ける着衣。




