27話 死人
戻る途中、ユゼフは岩影に隠れた。逃走する盗賊の集団を見かけたからである。彼らは敗残兵だ。
うなだれ、あからさまに落ち込んでいる者。恐怖のあまり、背後を気にしながら小走りで通り過ぎる者。頬を上気させ、何かに憤っている者。悲嘆にくれ、鼻を啜り嗚咽する者……
彼らはもう、敵ではなかった。
五首城に着くと、ユゼフはまずマリクに食事を与えた。
シーバートの伝書犬はクルンとした尻尾をしきりに振り、再会を喜んだ。
動物的勘で安全な場所に隠れていたのだろう。無傷で生き残ったのは幸運だった。この犬は、シーマのいるシーラズ城へ文を送る唯一の手段になる。
行きは初めての場所で付き添いがいたかもしれないが、戻りは必要ない。伝書犬はそのように訓練されている。
予想どおり、盗賊は一人も残っていなかった。
外に置かれたままの死体や黒い虫は灰になっている。かろうじて黒ずんだ骨格だけが残り、太陽の光に焼かれていた。
闇の者が陽光を憎悪するのは必然である。彼らが危険を犯してまでやって来たのには、相応の理由があるはずだ。
塔の影や射石砲の下など、光の届かない所に虫が集まっていたので、ユゼフは武器庫に残っていた潤滑油を撒き、引火した。
次に死体の残した物から身長に合った剣を見つける。盗品だろうが、腰に差せば、なんとなく見栄えが良くなった。
屋上を確認したら屋内だ。ユゼフは階下へと下りていった。
荷物を確認したかったのだ。微塵も疑わず、使っていた部屋のドアを開けた。今まで何事もなかったから、すっかり油断していたのである。
「わっ!!」
思わず声をあげたのは、真ん前に青黒く歪んだ顔があったからだ。
呻き声を上げ、飛び掛かってきたのは死人だった。
不意を突かれ、ユゼフは後ろに倒れこんだ。間一髪、持っていた剣で死人の頭部を貫き、事なきを得た。
が、安心はしていられない。真っ黒な眼窩と口からブワァッと大量の虫が放出される。
下がったところで間に合わず、腕に食い付かれた。虫は皮膚を食い破り体内に入り込もうとする。
ユゼフはバルコニーへ走った。
太陽の光を浴びても、皮下深く入り込んだ虫は猛進をやめない。ダガーで抉り出すという荒事を持ってして、ようやく決着をつけた。
刺激的に痛いうえ、血塗れになったが、恐怖は感じなかった。
機械的に消毒と止血を行い、休むことなく潜んでいる死人や虫を捜して、城内を隈なく歩き回った。
少し物色した形跡があるだけで、盗られた物はなさそうだった。盗賊たちは盗賊らしいことをする余裕もなく、撤退せざるを得なかったのだろう。
成果は虫の群れ三つと死体五体。そのころにはだいぶ慣れてきた。
死体を倒すときは頭部への直接攻撃より首を斬ったほうがいい。司令塔を失った死体は停止する。虫は頭部に集中するから、出てくるまえに鉄桶に入れて燃やしてしまえばよいのだ。
この方法で、虫が飛び散るというトラブルを回避できた。
城内の探索が終わると、ユゼフは地下室へ向かった。
虫がいたら火で応戦しようと左手に松明、右手に潤滑油の入った樽を抱える。
やはり、下りた瞬間に気配を感じた。
想定外なのは、階段の途中に老人が立っていたことだ。
「シーバート様……」
呼びかけてしまったことをユゼフは後悔した。シーバート……いや、死人は呻き声を上げ、向かってくる。
ユゼフは死人に松明を投げ付け、油を撒きながら、階段を一気に駆け上がるしかなかった。
明るい部屋まで戻り、金属製の跳ね上げ扉を勢い良く押さえつける。大急ぎでカンヌキをかけた。まだドキドキしている。
しばらくたって、床の隙間から煙が上がってきた。不安だが、石造りなので燃える物がなくなれば自然に鎮火するだろう。
談話室のステンドグラスから夕陽が差し込んでいるのを、横目に見る。
──まだ、やらねばならぬことがある
ユゼフはマリクに、その日二回目の食事を与えた。
手を洗い、自分用に使うと決めた部屋へ入り、文を書き始める。一通はいつもの自分の字で、もう一通は女性的な柔らかい字で書いた。
家庭教師から筆記のレッスンを受けるのが、苦痛で仕方なかったのを思い出す。こんな形で役に立とうとは……。
王女の傍に仕える際、手紙の代筆をする機会もあると、義母がユゼフに仕込んだのである。
ユゼフは兄たちのような騎士には向いていなかったので、剣や武術は形だけの教育だった。本当に必要なのは語学や歴史、行儀作法、楽器、衣服の着付けなどだ。それらは特に厳しく教え込まれた。
手紙を書き終えると、一通目にはヴァルタン家の紋章、冠の下に交差する剣の印章を封蝋に押し、もう一通はシーバートの荷物にあった王家の三つ首犬鷲の印章を使った。
終わったあと、ユゼフはそのまま床へ倒れ込み、睡魔に身を任せた。酷く疲れていた。
夢を見た。
ユゼフはまだ子供で、いつものように路上で魚を売っていた。
空は青く自由だ。頬に当たる空気がひんやりとして気持ちいい。
釣り銭を渡すのがあまりにも早いので、合っているか確認する客を笑い飛ばした。早く売り切って家に帰り、寝たきりの母の顔を見たい。妹二人は台車の横でままごとをしている。
心の中は空と同じく晴れ晴れとしていて、何のわだかまりもない。笑みが自然にこぼれた。
そこで急に画面が変わる。
ユゼフは玉座の間にいた。玉座には誰か座っていて、大勢の諸侯、家臣たちが跪いている。ユゼフは玉座の後ろから俯瞰しているのだ。
王の後ろ姿には妙な親近感を覚えた。シャリンバイの草冠を載せた深青色の長髪、そして尖った耳の──
「おまえは何がしたい?」
突然、親友の声が耳に響く。
そう、陰気なユゼフにも一人だけ親友と呼べる人がいた。サチ・ジーンニア──シーマの他に話せる友達は、彼だけだったといっても過言ではない。小柄で幼い顔付きをした見た目とは裏腹に、サチは冷徹であった。
「逃げるなよ? あきらめるのは逃げることと同じだ」
しかし、辺りを見回してもサチの姿はなく、ユゼフは貧民窟にいた。
道は糞尿で汚れ、嫌な臭いがする。古びた家々の扉はどこも固く閉ざされ、灰色の空が重く垂れ下がっていた。
腕のない男が悲しげに歌っている。生きているのか死んでいるのか、老人が地面に伏してピクリともしない。
ボロを纏った亜人の子供たち……盗んだ財布を持った子を先頭に走り去っていく。路地裏では喧嘩が始まり、酔っ払いが道端で吐いていた。
この情景は見た覚えがある。
「少しでいい、ほんの少しでいいんだ」
今度はシーマの声が聞こえた。
「少しの知恵と度胸と、たった一本の劍があれば世界を変えられる」
シーマの言葉が終わると同時に、ユゼフは暗闇へ真っ逆さまに落ちていった。
果実の甘い香りが漂ってきて、闇から一転、まばゆい光に目を細める。ユゼフはディアナと抱き合っていた。二人は何も身に付けていない。彼女の唇がユゼフの唇に触れると、貪るように吸い合った。悦楽の波が押し寄せ、それが頂点に達したら、また暗闇へと落ちていく。
※※※※※※※
鳥の声が聞こえる。
目を開けると、ユゼフは固く冷たい床で寝ていた。
体のあちこちが痛い。
ガリガリ聞こえるのは、マリクだ。ドアの外側から引っ掻いている。雨戸の隙間に朝日が差し込んでいた。
ユゼフはよだれを拭い、ドアを開けた。
腹を減らしたマリクが吠えながら飛び付いてくる。
「わかった、わかった。今やるから」
ユゼフはマリクに朝食を与えた。
それから、自分が丸一日、何も飲食していなかったことに気づいた。
食糧は少しだけ残っている。固いパンとチーズと、あとは木の実が少し。空腹ではなくても、口に入れる。
──それにしても、なんて夢だ
食べながら、さっきの夢を思い出して苦笑いした。
ディアナに文を書かせた時、抱き付かれて正直嬉しかった。その後、勢いで別れ際に大切なお守りを渡してしまったのである。
──結局、キスはどこが正解だったのだろう?
あの様子なら、唇にしても良かったと少し後悔した。これからは、いつ死んでもおかしくないのだから。
ユゼフはもう魚売りではないし、ディアナは町娘ではないから愛し合うことはできない。
彼女が自分に対してどんな感情を持とうが、関係ない……そう思わなくてはならなかった。
ディアナを約束の場所へ時間通りに送り届けること。それさえできれば、彼女が自分を憎もうが愛そうがどうでもいいのだと。
食後、ユゼフは地下へ行った。火はもう消えている。
煙を外に出してから、シーバートの遺体を引き取った。
最悪なことに遺体は生焼けで、まだ少し動いていた。そのため、頭部を刺し、虫の生き残りを退治せねばならなかった。
一人、遺体を持って階段を上る。これはかなりの重労働だった。背負えばいくらか楽なのだが、したくない。
結果、遺体の足を持って引き摺る形になった。階段のヘリに擦られ、遺体の焦げた部分が削れても気にはしてられない。
──レーベがこれを見たら激怒するだろうな
シーバートの遺体を燃やして骨だけにし、城内にあった手頃な箱にしまった。
これで五首城での仕事は終わり。
ユゼフは身仕度を始めた。
──まず、文を持たせたマリクを送り出そう。次に山を下ってカワウへ向かう
カワウへ戻って何をするのか?
ディアナの婚約者と会うのだ。
おそらくは盗賊の雇い主、コルモランとつながる──フェルナンド王子と。




