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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第二部 イアン・ローズとは(前編)二章 剣術大会
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29話 大切な懐中時計(ユゼフ視点)

 ごく、ごく小さな舌打ちが聞こえた。近くであっても、耳が良くなければ聞こえないほどの音だ。

 ユゼフが隣のシーマを見ると、ひどく不機嫌な顔をしている。予定通りにいかなかったからだろう。


 アスター対カオルの試合はアスターの勝利に終わった。真剣勝負に持ち込んだのはいいが、事故に見せかけて殺すのは失敗した。カオルは舌を噛んだだけで、試合終了となってしまった。

 シーマの左隣にいるはずのヴィナス王女、太后ミリアムはたまたま外していた。妊婦には長時間の着席はつらいらしい。


「アスターの奴、口ばっかだな」


 王女たちがいないのをいいことに、くだけた口調でシーマはぼやいた。すぐ背後で控えている小姓らには丸聞こえだが、気にも留めていない。


「仕方ありません。アスターのことだから、なにか考えがあるのかもしれませんし」


 ユゼフがそう答えたのは、仕損じたように見えなかったからだ。普通より視力がいいから、アスターの驚いた顔が見えた。なにかあったのだろう。それともなにか気づいたとか? アスターの目は地面を転がる(ブラザー)を追っていた──


「おまえはいつも冷静だね。あだ名のとおり、機械兵士オートマトンだ」

「冷やかすのはおやめください」


 ユゼフは真顔で答えた。嫌な予感がする。棄権しろと言ったのに、ティモールの阿呆も言うことを聞かなかったし……勝ち残ってしまったら、アスターと対戦することになってしまう。とても落ち着いてはいられなかった。


「どうしたのだ? さっきから、心ここにあらずといった様子だが?」

「心配なのです」

「サチのことか? 問題ない。一人では、なにもできないさ。それに、クリープがなんとかするだろう」


 忘れていた名を出され、ユゼフは半笑いした。


 ──例の爆発騒ぎにサチが関係していたと、やはり感づいていたのだな? クリープの名が出たということは、シーマの指示でサチは監禁されているのか。しかしながら、サチが上官のグラニエに助けを求め、グラニエが応じれば状況は変わるだろうけどな


「そうだ! おもしろい話がある」


 シーマが突然明るい声を出した。いつもそうだ。パッと気持ちを切り替える。シーマは背後の小姓を呼び寄せ、耳打ちした。

 小姓が離れた直後にドッと拍手が湧き起こった。進行役のアマルが詩の朗詠を始めるらしい。

 (うた)が始まると、騒々しい観客席がピタリと静まった。




 新しき王の誕生に

 アニュラスよ

 星の数ほどある島々よ

 喜び歌うがいい


 天において 王を称えよ

 地において 王を称えよ


 潮が満ち 我らの心も応えた

 とどろけ、海と世界よ


 深淵が震える

 曇雲が大雨を降り注ぎ

 雷鳴が叫ぶ

 稲妻が見えたとき

 大地は揺れる


 道は光の向こう――

 かつて魔虫が這ったその道を

 我らは進む


 誰も知らぬ

 その軌跡を



 ピンと張った弦を奏でるように、一語一語が声帯から軽快に弾き出されていく。生きた言葉はリズミカルに跳ねて、楽しくダンスする。


「使えそうな男じゃないか」


 指でリズムを取りながら、シーマが楽しそうに言う。ユゼフは眉を曇らせた。


胡散臭(うさんくさ)い奴です」

「そうかな? 戦士を鼓舞したり、民衆を煽動したりするのには適役だ」

「信用できぬ流れ者ですよ」


 そうこうしているうちに、小姓が戻ってきた。ひざまずき差し出したのは、絹布にくるまれた金色の丸い物だ。シーマは受け取ると、無邪気に笑った。


「これがなにか、わかるか?」

「……時計ですか。グリンデル水晶が埋め込まれてますね」

「鈍い奴め。おまえ、見たことがあるはずだぞ?」


 シーマは鎖を手に巻き付け、ぐるぐる回して遊んだ。見るからに高価な物をぞんざいな扱いだ。それをユゼフへ投げて寄越した。渡された懐中時計をユゼフは注意深く調べる。


「王家の紋が入ってますが。イヌワシの……これは……王家のどなたの物ですか?」


 思わず出そうになったディアナの名を、ユゼフは慌てて呑み込んだ。

 灰色の瞳が悪戯っぽくのぞき込んでくる。透けそうなぐらい色素の薄い灰色の瞳が……ユゼフは揺らぐ感情を抑えきれず、シーマから目をそらした。


 ──まさか、ディアナ様の物か


 以前、勢いでディアナに渡してしまった粗末なお守りのことが頭をよぎる。太陽と花の咲いたシャリンバイ……


「これは昨日、アスターから返された物だ。家庭内トラブルと関係しているかもな? 倒れた飾り棚の中にあったそうだから」


 関係大ありだ。ユゼフの心配をよそにシーマは話し始めた。


「預かってすぐに返すつもりが、ずっと忘れていたんだと。こいつは棚の中で五年間眠り続けていたってわけだ」

「五年間?」

「そう、五年前だ。俺がこれをマリクの首輪に付けて壁を越えさせた。五首城へ文を届けるために」※

「……五首城へ!?」

「やっと思い出したか」


 シーマはケラケラと乾いた笑い声を立てた。ホッとしたものの、ユゼフにはシーマの言わんとすることが、わからない。


「これは陛下のお持ち物でしたか。しかし、陛下はその時まだ即位されておられませんでした。とすると、これはヴィナス様の……」

「ちがうよ。これはカオルから奪った物だ」

「カオルから? なぜカオルが王家の物を?」

「知るか。カオルの養母がディアナの乳母を勤めたとかで賜ったそうだが……そんなことより……」


 言いかけて、シーマは吹き出した。(こら)えきれずにクククと笑い声をもらす。


「見せたかったなぁ、おまえにも。時間の壁を渡らせると言ったらあいつ、死にそうな顔でこれを差し出したんだ」


 やっと、ユゼフは理解した。シーマは、イアンの家来だったカオルとウィレムを脅して楽しんでいたのだ。そういえば、帰国してから記憶の交換をした時、なんとなく見た覚えがある。


「あまり趣味がいいとは言えませんね。無抵抗な人間を不必要にいたぶるのは」


 シーマの顔から笑みが消えた。ユゼフは気にしない。機嫌を損ねるのはよくあることだ。


「これは俺たちにとって大切な物だ」

「……ええ」

「カオルのことなんかどうでもいい。この時計を持ったマリクが、壁を越えておまえに文を届けた。それが重要なんだ」

「文の指示通りにできませんでした。私には苦い思い出です」


 正当な王位継承者であるニーケ王子を確保できなかった。今ではグリンデルの王子である。有効なカードを一枚、グリンデルにやってしまった。


「それでも、俺にとっては大切な思い出だ。壁を隔てて数万スタディオン離れた所にいるおまえと繋がれたのだからな。あの時は本当に精神がズタボロだったから、おまえとの通信が励みになった。偶然、壁から出てきたマリクに会った時の喜びといったら……」


「私は言われたことをただ行っただけです」

「それが心の支えになったのだ。孤独な闘いだった。おまえがいなければ、確実に負けていたよ。これは絆の証だ。とてもとても大切な物だ」

「大げさですよ」


 ユゼフは本気では受け止めなかった。シーマがこういう物言いをするのは癖と言っていい。些細な出来事だって、劇的になってしまう。


「ぺぺ、この懐中時計はおまえが持っていてくれ」

「すでに短剣を賜っております」


 臣従の誓いを交わした時に、グリンデル水晶の入った短剣をもらっている。曰く付きの時計などほしくない。元の持ち主の顔がチラついてしまう。


「まあ、遠慮するな」


 ユゼフの手の中にあった懐中時計の上にシーマは手を重ねた。軽く触れられた手を、ユゼフはサッと引っ込める。心の中に入られるのが怖かったのだ。

 とはいえ、この五年でシーマが入り込んできたのは数回だけだった。それも、ちゃんとユゼフの許可をとってからだ。


 勝手に覗き見ないでほしいと、はっきり伝えてからシーマはやらなくなった。誰よりも信頼されている……その事実は、ますますユゼフを邁進(まいしん)させた。

 諸侯らに忌み嫌われようとも、シーマの描いた国へ少しずつ近づけるため、ひたむきに政務を片付けていった。そして、今も立ち止まることなく走り続けている。


「ありがたく、頂戴いたします」


 無理に押し戻さず、ユゼフは懐中時計を受け取った。昵懇(じっこん)の間柄といっても、礼儀ぐらいわきまえている。


 ──しかし、持っていたくないな。そうだ。カオルにこれも返そう


 ブラザーも手元に置きたくなかった。イアンもそうだが、アキラにもユゼフは負い目を感じていた。自分が関わったせいで死んだのではないか……そんな懸念がずっとまとわりついている。


「γブロック、トーナメントを開始します!」


 不意にアマルの声が青空を衝いた。闘技場はまた騒々しくなる。




※第一部前編82、83話「エデン犬」より


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