24話 シーバート
追いかけて来ようが、真っ暗闇だ。アナンたちは手間取るに違いない。その点、ユゼフは慣れていた。闇は友達だ。
階段を下りた所に松明が置いてあったので、それを持って先へ進む。これはシーバートが置いていった物かもしれない。虫は追って来なかった。
大広間へと続く廊下の途中、人の気配を感じ、ユゼフは立ち止まった。
「誰だ?」
「……ぼくです。レーベです」
松明をかざすと、左目を腫らしたレーベが浮かびあがった。小憎たらしいレーベであっても、今は会えたことに安堵の溜め息を吐く。
「どこから入った?」
「今は使われていない下水管を通りました。排出溝は濠側にあるんですが、うまく足を引っかけて数キュビット移動すれば、飛び移れたんです」
なるほど、とユゼフは理解した。レーベの体格なら狭い下水管も通れたのだろう。
「そのケガはどうした?」
「賊にやられました……油断してたんですよ。影から戦いの様子を窺っていたら、見つかって……くそっ、あの髭親父め!……あいつらにこちらの人数を知られてしまいました。早く逃げなくては! シーバート様と王女様はどちらに?」
「シーバート様は王女様と地下の隠し通路から逃げている」
「では、急ぎましょう」
ユゼフとレーベは大広間を抜け、談話室に入った。談話室にはテーブルが三台。テーブルの周りに椅子は数脚しかなく、あとは壁際に並べられていた。
松明の火が埃と蜘蛛の巣に燃え移らないよう、注意しながら移動する。
ユゼフは松明をレーベに預け、一番奥のテーブル下に屈みこんだ。ここに地下へ通ずる扉がある。
小さな出っ張りを頼りに力を入れた。ちゃんと閉まってなかったのだろう。留め金の音は聞こえなかった。
刹那、邪悪な気配がピークに達した。
扉は予想に反して軽く、勢いよく跳ね上がる。ユゼフが覗きこもうとするや否や、黒い塊が飛び出した。同時に聞こえてきたのはディアナの悲鳴だ。
「ディアナ様!」
黒い塊は部屋の中央に大きく広がった。数えきれないほどの人影が、透明な球の中をグルグル暴れ回っている。
レーベから松明を奪い取り、かざしたところ、影の集合体は変形した。螺旋を描いて、小型の竜巻のごとくクルクルと回る。規則性のある渦巻きは美しく、どこかで見たような気もした。
目を奪われる光景は、あっという間に消えてしまった。
「ディアナ様!……今、確かにディアナ様の声が……」
我を失ったユゼフは、ディアナの残り香を求めて部屋を歩き回った。
「下から呻き声が聞こえました! 地下に誰かいるかもしれません。行きましょう!」
レーベが言う。
部屋には誰もいなかった。煙のようにスッと消えてしまったのだ。ディアナの気配も、邪悪な気配も──今はなんの気配も感じなかった。
レーベの言うとおり、地下を探したほうがいいのかもしれない。
階段を下りた先は、バソリーが設えた拷問室になっている。
松明に照らされた室内は意外に広く、上の談話室と同じくらいあった。
壁には金槌や杭、ニッパー、金切り鋏、ペンチなどの道具に加え、あまり見たことのない紐付きのフォークだとか、針金付きの鞭、貞操帯がぶら下がっていた。奥には一見寝台のような物が何台か……それと樽もある。
数年前までこの場所で、ここにある道具を使って、拷問が常時行われていたのだ。
不気味だったが、恐ろしいとは思わなかった。ユゼフは恐怖する余裕もないほど、狼狽していたのである。
呻き声が近くで聞こえる。壁にもたれかかり、苦しそうに息をするシーバートの姿が見えた。
「シーバート様!」
レーベが駆け寄った。
「ケガをされたのですか? 今、手当てします」
シーバートは確認しようとするレーベを手で遮った。
「……傷は深い。わしはもう助からんじゃろう……レーベ、顔をどうした? 殴られたのか?」
「僕は大丈夫です。それより血を止めないと……」
レーベは肩がけのポーチから包帯を取り出した。
「顔がそんなに腫れて……痛かったろうに……ユゼフ殿、申しわけない。殿下は攫われてしまった。わしの力不足じゃ。面目ない……」
ユゼフは放心した。
頭のなかでは、ディアナの「行かないで」と叫ぶ声がこだまする。シーマとの誓いや「王女を守れ」と命令された時の情景がグルグル駆け巡った。
「何をぼんやりしてるんだ! 手伝えよ!」
レーベが怒鳴った。
シーバートの腹から血は流れており、ユゼフの足元まで血溜まりが広がっていた。包帯が足りず、レーベは手で圧迫して止血しようとしている。
ユゼフは松明を壁に立てかけた。レーベの手を退け、傷の程度を調べる。
溝落ちにプルーンぐらいの楕円形の穴がぽっかり空いている。左右の脇腹と臍の上、下腹部にも……
シーバートの腹は穴だらけで、そこから大量の血液が吹き出し続けているのだった。
「どうすれば……」
ユゼフは抑揚のない声でつぶやいた。今度はレーベがユゼフを後ろに押し退ける。
「シーバート様、必ずお助けします! お願いだから死なないで……」
「もういいんじゃ、もう……レーベ、わしの持っていた書物や杖はおまえに譲ろう。国に帰ったら、わしの自宅の書斎にある書物、魔術に使う道具、薬品をすべて受け取るがいい。もしもの時のために、遺言書を妻が預かっているから……それとユゼフ……」
レーベは声を上げて泣き始めた。シーバートはユゼフに近くへ寄るよう促し、胸元から本を取り出した。
「これはあなたの母上からお預かりしたものです」
「義母が?」
思いもよらない言葉に、ユゼフは変な声を出してしまった。
両手にすっぽり入る本には「歴史書」を意味する古代語が、金文字で刻み込まれている。
義母の冷たい横顔を思い出したが、どういう魂胆でシーバートに本を預けたのか、まったく見えてこなかった。
「レーベ、すぐ近くに秘密の通路がある。そこから逃げなさい。わしは、ユゼフ殿に話さなくてはならないことがある。ユゼフ殿、レーベを入り口まで案内してやってください。ここで待っておりますから」
シーバートは、かろうじて聞き取れるぐらいの掠れ声で言った。
レーベは首を横に振り続けた。かわいげのない悪童も、親代わりの老匠の前ではただの少年になる。
シーバートが「行きなさい」と芯の通った声で繰り返し、ようやくレーベは離れた。
ほんの数歩先に鉄の処女はあった。背を壁に張り付けた鉄の人形は、来訪者を待ち構えていたかのようだった。陰影により、微笑んだ顔に見える。
留め具を外すと、パカッと開いた。中は空洞になっていて、内壁にはたくさんの尖った釘が埋め込まれている。
人形の中に入って、奥を押した所が扉だ。ユゼフは泣いているレーベをそこに押し込んだ。
すぐにシーバートの所へ戻る。
シーバートは眠るように意識を失っていた。
「シーバート様、シーバート様……」
何度か呼びかけ、やっとシーバートは目を開けた。
口を動かしているが、言葉を聞き取るのは至難の業だ。ユゼフはシーバートの口元に耳を寄せた。
「……あなたは……ない……」
その後は何を言っているか聞き取れなかった。
ストンと落ちた言葉は無情だ。消化できない言葉は、取れないシコリとなってユゼフの胸に残った。
何もかもを否定する、これまでの自分を消し去ろうとする残酷な言葉──
ユゼフが驚いている間に、シーバートの呼吸は止まった。




