15話 ラベンダーの花と愛しい人(サチ視点)
翌日、サチが訪ねたのはアスターの屋敷だった。今日は遅く登城すると聞いていたため、昼ごろ向かった。早過ぎず、遅過ぎない時間だ。
──娘を嫁にやってもいいと言っているんだ。訪問しても問題ないはず
アスターが入営してから、騎士団本部の団長室を訪ねる方法もあった。副団長のクリムトら取り巻き連中がいなければ、そうしていただろう。やめたのは取り巻きの前で、アスターを責めるのが難しかったからだ。
アスターの屋敷に着くと、サチは執事のシリンに取り次ぎを頼んだ。シリンは五年前、アスターに協力した元盗賊だそうだが、教養があり思慮深く育ちも悪そうには見えない。
アスターを呼びに行って、戻ってきたシリンは濃い髭の生えた顎を義手でポリポリ掻いた。それから、決まり悪そうにサチを見た。
「どうしたのか? アスターさんはなんて?」
「サチ、悪いが帰ってくれないか?」
二の句が継げないサチに構わず、シリンは続けた。
「アスター様は、追い返せとだけおっしゃった。言ったら聞かない人だから、今日は帰ってくれ。理由はわからんが、虫の居所が悪いらしい。また後日であれば、機嫌も直っているだろうから……」
「後日じゃ間に合わないんだ! 頼む! もう一度呼んでくれないか?」
剣術大会は二日後だ。前日では手遅れになる。懇願するサチに対し、シリンは大きな溜め息を吐いた。
「サチ、ダメなものはダメだ。どうか諦めてくれ」
「あきらめられない。人の命にかかわるんだ。頼む! シリン、あなたはいい人だろう? 五年前、魔国でのことを聞いている。魔物に食われそうになった仲間を庇って腕を失ったと。自分が重傷なのにもかかわらず、けがをした仲間の手当てを優先した。そんなあなたが理不尽な人殺しを黙って見てるのか?」
顎髭を弄るシリンの手が止まった。暗い瞳はしばらくサチを捉えて離さない。良い返事を望むサチは目をそらさず、シリンを見た。
「いい目をしている」
沈黙を破った一声がそれだった。シリンは熟練者が若輩をいたわるように、視線を和らげた。
「まっすぐで澄んだ目……清らかな源泉のようだ。きっと汚い物を見ず、真綿にくるまれて育てられたのだろう……」
恥ずかしくなって、サチは下を向いた。言うとおり、十二歳までは大切に育てられた。
──俺だって汚い物は見てきたさ。妹に暴力を振るう父や学院でのイジメ、五年前の謀反、アオバズクの城で見た幻、騎士団に入ってからのこと
人は自らの存在意義が脅かされそうになると憎む。そして、その存在意義のほとんどが欲望にまみれている。弱点を見抜き、忌憚なく意見するサチはどこへ行っても憎まれた。
貴族の学校に入学した時は、後ろ盾のない弱い立場だったから格好の餌食となったのだ。卑屈にならず堂々としていれば、彼らの憎しみはいっそう増した。
──けど、俺はお日様に背を向けるような人生を送りたくはないんだ。カオルだって変わった
イアンの謀反から一転、カオルは裏切り者と差別される側になった。弱い者の気持ちを知ったカオルは、サチに対する傲慢な態度を改めたのである。
「サチ・ジーンニア、オレは君ほど純粋で清らかな人を見たことがない。でも……」
シリンは硬い義手を反対の手で撫でた。
「でも、人というのは皆、歪んでいる。誰かを憎み、妬み、毒心を抱く。君のように正しくは生きていけない……」
サチは言葉を挟もうとしたが、余地はなかった。
「アスター様の判断は概ね間違っていない。オレはあの人に何度も救われてきた。正しいか正しくないかは別にして、家族、家臣、領民を守るため、最善な方法をあの人は選ぶ。だからオレはあの人に、アスター様について行こうと決めたんだ」
ヒヤリとした空気にのせられて、爽やかな香りが漂ってくる。両手一杯に花を抱えたユマの姿が、張り出し窓に見えた。
紫の細かい花々は、彼女によく合う香りを発していた……あれはラベンダーだ。
玄関先から見える庭園の中心にラベンダーの花畑がある。暑い季節、ラベンダーは上がり続ける気温に耐え、薫香を立ち昇らせていた。
サチと目が合うなり、ユマは嬉しそうにこちらへ向かってきた。今日は男装ではない。花と同じ紫色のガウンをまとっている。
サチは視線をシリンに戻した。目で訴えれば、目で応えられる。無言のやり取りは精神を消耗させる。シリンは頑として譲らなかった。
そうこうしているうちに、ユマが玄関までたどり着いた。開け放たれた扉から、より濃密な花の香りが流れ込んでくる。
「サチ! 見て! いい匂いでしょう? あなたに一つ差し上げるわ。上衣の内ポケットに入れて」
「お嬢様、今取り込み中です」
シリンが苦い顔で言う。サチはユマの機嫌良さに圧倒された。
「なによ? シリンたら怖い顔して。いいじゃない? サチはわたしの婚約者なんだから」
「では、お嬢様。サチはもう帰るので門まで送られては?」
「えっ! さっき来たのにもう帰るの? パパには会わないの?」
「ええ。急な用事を思い出したようでして。お送りください。サチも喜びます」
シリンの言葉を受けて、ユマはサチの腕に手を絡ませた。
──顔から火が出そうだ……熱い
初恋の相手と今、恋人同士みたいに腕を組んでいる。サチはうつむいて、従うしかなかった。
「じゃあ、行きましょう」
シリンは義手を上げた。
「サチ、またな」
†† †† ††
夢のような一時はあっという間だった。庭園の半ばまで来たとたん、ユマの顔から笑みが消えた。
「ねえ、サチ。あんた知ってるんでしょう?」
男のような低い声。つかまれた腕が痛い……爪でも立てられているのか。
「うちのクソ親父が、なにか企んでるんでしょ? でなければ、あんたみたいな家柄も地位もない奴、結婚相手に選ばないもの」
それでも、灰褐色の瞳で見つめられると、サチの顔は火照り、体は硬直した。
「言いなさいよ! あいつがなにを企んでいるかを」
人形のような愛くるしい顔がすぐ近くまで来て、責め立てる。サチは手におかしいくらい汗をかいているし、指も動かせない。心臓は喉から飛び出そうなぐらい忙しく打ち続けていた。
「俺はなにも知らない」
そう言うのがやっとだった。好かれたいから、彼女の前では口調を和らげる。
「嘘。あんたみたいに賢しい奴が気づかないはずないじゃない。言いなさいよ」
ユマはつかんだ腕をグイグイ引っ張った。
「本当になにも……送ってくれるのは、ここまででいい」
「ふん、なによ? なんでお姉様は宰相のユゼフで、わたしはあんたなのよ? 見た目も地位も歴然の差があるわ。いつもお姉様ばかり、いいとこ取りなんだから嫌になっちゃう」
どうして、こんなにも嫌われなくてはならないのか。胸が疼き、サチは彼女から離れた。荒れ狂っていた心臓もおとなしくなる。
「そんなに嫌なら、結婚の話は俺のほうから断る」
顔をそらし言う。サチはユマの目を見られなかった。しかし、少し間があってから、
「断る必要はないわ」
ユマは答えた。
「もっと、わたしに好かれる努力をしなさいよ」
「努力?」
「そうねぇ……私のために花をプレゼントしなさい。いい? 私が一番好きな花よ。それをたくさん、両手に持ちきれないくらい。そうしたら結婚してやってもいいわ」
「一番好きな花というのは?」
「ダメよ。教えたら試練の意味がなくなってしまうじゃない。クソ親父に聞いてもいいわよ? 絶対、知らないだろうけど」
サチの心臓は勢いを取り戻した。この試練を乗り越えれば、彼女は自分を受け入れてくれる。恋は成就するのだ。
「ヒントがほしい」
「……花畑島にあるかも」
悪戯っぽく笑うユマの小さな犬歯。サチは心臓をギュッとつかまれ、息苦しくなる。操り人形のごとくカクカクした動きで門まで歩いた。ちゃんと、別れを告げられたかも定かではない。
門を出たあとには、なんの目的でこの屋敷を訪れたか、サチはすっかり忘れていた。
来週から月─木まで週四回更新にします。
金土日は更新お休みします。




