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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第二部 イアン・ローズとは(前編)二章 剣術大会
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15話 ラベンダーの花と愛しい人(サチ視点)

 翌日、サチが訪ねたのはアスターの屋敷だった。今日は遅く登城すると聞いていたため、昼ごろ向かった。早過ぎず、遅過ぎない時間だ。


 ──娘を嫁にやってもいいと言っているんだ。訪問しても問題ないはず


 アスターが入営してから、騎士団本部の団長室を訪ねる方法もあった。副団長のクリムトら取り巻き連中がいなければ、そうしていただろう。やめたのは取り巻きの前で、アスターを責めるのが難しかったからだ。


 アスターの屋敷に着くと、サチは執事のシリンに取り次ぎを頼んだ。シリンは五年前、アスターに協力した元盗賊だそうだが、教養があり思慮深く育ちも悪そうには見えない。

 アスターを呼びに行って、戻ってきたシリンは濃い髭の生えた顎を義手でポリポリ掻いた。それから、決まり悪そうにサチを見た。


「どうしたのか? アスターさんはなんて?」

「サチ、悪いが帰ってくれないか?」


 二の句が継げないサチに構わず、シリンは続けた。


「アスター様は、追い返せとだけおっしゃった。言ったら聞かない人だから、今日は帰ってくれ。理由はわからんが、虫の居所が悪いらしい。また後日であれば、機嫌も直っているだろうから……」

 

「後日じゃ間に合わないんだ! 頼む! もう一度呼んでくれないか?」


 剣術大会は二日後だ。前日では手遅れになる。懇願するサチに対し、シリンは大きな溜め息を吐いた。


「サチ、ダメなものはダメだ。どうか(あきら)めてくれ」


「あきらめられない。人の命にかかわるんだ。頼む! シリン、あなたはいい人だろう? 五年前、魔国でのことを聞いている。魔物に食われそうになった仲間を(かば)って腕を失ったと。自分が重傷なのにもかかわらず、けがをした仲間の手当てを優先した。そんなあなたが理不尽な人殺しを黙って見てるのか?」


 顎髭を(いじ)るシリンの手が止まった。暗い瞳はしばらくサチを捉えて離さない。良い返事を望むサチは目をそらさず、シリンを見た。


「いい目をしている」


 沈黙を破った一声がそれだった。シリンは熟練者が若輩をいたわるように、視線を和らげた。


「まっすぐで澄んだ目……清らかな源泉のようだ。きっと汚い物を見ず、真綿にくるまれて育てられたのだろう……」


 恥ずかしくなって、サチは下を向いた。言うとおり、十二歳までは大切に育てられた。


 ──俺だって汚い物は見てきたさ。妹に暴力を振るう父や学院でのイジメ、五年前の謀反、アオバズクの城で見た幻、騎士団に入ってからのこと


 人は自らの存在意義が脅かされそうになると憎む。そして、その存在意義のほとんどが欲望にまみれている。弱点を見抜き、忌憚(きたん)なく意見するサチはどこへ行っても憎まれた。

 貴族の学校に入学した時は、後ろ盾のない弱い立場だったから格好の餌食となったのだ。卑屈にならず堂々としていれば、彼らの憎しみはいっそう増した。


 ──けど、俺はお日様に背を向けるような人生を送りたくはないんだ。カオルだって変わった


 イアンの謀反から一転、カオルは裏切り者と差別される側になった。弱い者の気持ちを知ったカオルは、サチに対する傲慢な態度を改めたのである。


「サチ・ジーンニア、オレは君ほど純粋で清らかな人を見たことがない。でも……」


 シリンは硬い義手を反対の手で撫でた。


「でも、人というのは皆、歪んでいる。誰かを憎み、妬み、毒心を抱く。君のように正しくは生きていけない……」


 サチは言葉を挟もうとしたが、余地はなかった。


「アスター様の判断は(おおむ)ね間違っていない。オレはあの人に何度も救われてきた。正しいか正しくないかは別にして、家族、家臣、領民を守るため、最善な方法をあの人は選ぶ。だからオレはあの人に、アスター様について行こうと決めたんだ」


 ヒヤリとした空気にのせられて、爽やかな香りが漂ってくる。両手一杯に花を抱えたユマの姿が、張り出し窓に見えた。

 紫の細かい花々は、彼女によく合う香りを発していた……あれはラベンダーだ。

 玄関先から見える庭園の中心にラベンダーの花畑がある。暑い季節、ラベンダーは上がり続ける気温に耐え、薫香を立ち昇らせていた。

 サチと目が合うなり、ユマは嬉しそうにこちらへ向かってきた。今日は男装ではない。花と同じ紫色のガウンをまとっている。


 サチは視線をシリンに戻した。目で訴えれば、目で応えられる。無言のやり取りは精神を消耗させる。シリンは頑として譲らなかった。

 そうこうしているうちに、ユマが玄関までたどり着いた。開け放たれた扉から、より濃密な花の香りが流れ込んでくる。


「サチ! 見て! いい匂いでしょう? あなたに一つ差し上げるわ。上衣の内ポケットに入れて」

「お嬢様、今取り込み中です」


 シリンが苦い顔で言う。サチはユマの機嫌良さに圧倒された。


「なによ? シリンたら怖い顔して。いいじゃない? サチはわたしの婚約者なんだから」

「では、お嬢様。サチはもう帰るので門まで送られては?」

「えっ! さっき来たのにもう帰るの? パパには会わないの?」

「ええ。急な用事を思い出したようでして。お送りください。サチも喜びます」


 シリンの言葉を受けて、ユマはサチの腕に手を絡ませた。


 ──顔から火が出そうだ……熱い


 初恋の相手と今、恋人同士みたいに腕を組んでいる。サチはうつむいて、従うしかなかった。


「じゃあ、行きましょう」


 シリンは義手を上げた。


「サチ、またな」




 ††  ††  ††



 夢のような一時はあっという間だった。庭園の半ばまで来たとたん、ユマの顔から笑みが消えた。


「ねえ、サチ。あんた知ってるんでしょう?」


 男のような低い声。つかまれた腕が痛い……爪でも立てられているのか。


「うちのクソ親父が、なにか企んでるんでしょ? でなければ、あんたみたいな家柄も地位もない奴、結婚相手に選ばないもの」


 それでも、灰褐色の瞳で見つめられると、サチの顔は火照り、体は硬直した。


「言いなさいよ! あいつがなにを企んでいるかを」


 人形のような愛くるしい顔がすぐ近くまで来て、責め立てる。サチは手におかしいくらい汗をかいているし、指も動かせない。心臓は喉から飛び出そうなぐらい忙しく打ち続けていた。


「俺はなにも知らない」


 そう言うのがやっとだった。好かれたいから、彼女の前では口調を和らげる。


「嘘。あんたみたいに(さか)しい奴が気づかないはずないじゃない。言いなさいよ」


 ユマはつかんだ腕をグイグイ引っ張った。


「本当になにも……送ってくれるのは、ここまででいい」

「ふん、なによ? なんでお姉様は宰相のユゼフで、わたしはあんたなのよ? 見た目も地位も歴然の差があるわ。いつもお姉様ばかり、いいとこ取りなんだから嫌になっちゃう」


 どうして、こんなにも嫌われなくてはならないのか。胸が(うず)き、サチは彼女から離れた。荒れ狂っていた心臓もおとなしくなる。


「そんなに嫌なら、結婚の話は俺のほうから断る」


 顔をそらし言う。サチはユマの目を見られなかった。しかし、少し間があってから、


「断る必要はないわ」


 ユマは答えた。


「もっと、わたしに好かれる努力をしなさいよ」

「努力?」


「そうねぇ……私のために花をプレゼントしなさい。いい? 私が一番好きな花よ。それをたくさん、両手に持ちきれないくらい。そうしたら結婚してやってもいいわ」


「一番好きな花というのは?」

「ダメよ。教えたら試練の意味がなくなってしまうじゃない。クソ親父に聞いてもいいわよ? 絶対、知らないだろうけど」


 サチの心臓は勢いを取り戻した。この試練を乗り越えれば、彼女は自分を受け入れてくれる。恋は成就するのだ。


「ヒントがほしい」

「……花畑島にあるかも」


 悪戯っぽく笑うユマの小さな犬歯。サチは心臓をギュッとつかまれ、息苦しくなる。操り人形のごとくカクカクした動きで門まで歩いた。ちゃんと、別れを告げられたかも定かではない。

 門を出たあとには、なんの目的でこの屋敷を訪れたか、サチはすっかり忘れていた。


来週から月─木まで週四回更新にします。

金土日は更新お休みします。

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