76話 母と妹
ユゼフの胸には、言葉にできぬ思いが渦巻いていた。どのように答えればよかったのか、義母と今後どのように関わっていけばいいのか……わからない。
修道院を出て、市井へと馬を走らせる。
義母が本心を吐露したせいで、罪悪感に囚われてしまう。今まで通り、あの人は厳格なままでよかったのだ。そうすれば気分は落ち込まず、ディアナのことや自分の前世のことなど考えずに済んだのに……
しかし、どのみち残酷な現実を突きつけられることになった。
実家は三ヶ月半前と同じだった。
屋根の煉瓦は剥げたままだったし、土壁から藁がぽよぽよ出ているのも変わらない。雨漏りはまだ直していないと思われた。
ふたたび曇り始めた空をユゼフは見上げる。雨が頬を打った。砂粒みたいな雨は、粗末な土壁にたくさんの染みを残した。
ユゼフの実母、ルツは二ヶ月前に亡くなっていた。
肺炎をこじらせての病死だった。病弱で寝ていることが多かった母……
思い返せば、いつ死んでもおかしくなかった。せめて、そばに付き添ってやることができたら……
継父は母が亡くなった翌日、酔っ払って川に身を投げたという。
家にいたのは長女のナオミだけだった。数日前、二番目の妹のオルパは嫁に行ってしまった。
ユゼフの妹たちは二人とも器量良しだ。特に長女のナオミは母似で人目を引く。豊かな黒髪と瞳の漆黒に、血のつながったユゼフでも見入ってしまうほどだった。だが今、美々しい目は冷ややかにユゼフを捉え、花弁の唇は淡々と動いていた。
母が亡くなって、しばらくして内戦は終結した。その直後に王城から使いが来て、縁談の話を持ってきたそうだ。嫁ぎ先は、貧しいこの家からは想像もつかないほど大きな商家。同様にナオミも一週間後、嫁ぐ予定だという。
──シーマだな
ユゼフはすぐにピンときた。勝手なことをしてくれた。腹が立ったが、表には出さないようにした。
ナオミとの再会を純粋に喜びたかったのである。ところが……
「お兄ちゃん、オルパの所へ会いに行ったりしないでね。私の嫁ぎ先へもよ? 私たちに兄はいないことになっているから」
ナオミは冷淡だった。押し売りと相対する時のような顔をしている。大好きな兄が来たと、はしゃぐ無邪気な妹の面影はどこかへ行ってしまった。たったの数ヶ月でここまで変わるものなのか……。
「私たち、これからすべて忘れて新しい人生を歩みたいの。お兄ちゃんだってそうでしょ? 会えば、お互い困ることになるわ。会うのはこれきりにしましょう」
「なんで……」
「お母さんから手紙を預かってる。確認したら、さっさと帰って」
ユゼフの言葉を遮り、ナオミは封蝋の押された巻き紙を押しつけるように渡した。
なぜ、妹がこんなにもよそよそしいのか、ユゼフにはわからなかった。
末のオルパをユゼフが背負い、一緒に荷車を引いて魚を売っていた。お兄ちゃん、お兄ちゃんといつでも慕ってきた妹……ユゼフがこの家を出て行く時には、しがみついて離れなかった妹が……今はまるで他人のようだ。
ユゼフは納得できぬまま、手紙の封を開けた。
※※※※※※※
愛するユゼフヘ
あなたが王女様に付き添って、カワウへ行ってしまった翌日にこの手紙を書いています。
というのも、もう私は長くないから。最後に会った時、黙っていてごめんなさいね。
でも、これが別れだと、あなたを悲しませたくなかった。最後くらいは笑顔でお別れしたかったの。
旅先でシーバートから聞いたかしら? あなたの本当の正体を。三百年間、私たち一族は預言を口承で密かに伝えながら、ずっと命をつないできました。
古い歴史書はあなたに渡すよう、私がシーバートに託した物です。
旧歴三四五四年、王立歴三○三年に王が長き眠りから覚める……私たちがずっと伝えてきた預言の内容です。
そう、それはあなたのこと。ユゼフ、あなたの本当の名前はアニュラスただ一人の王、エゼキエル。私たちの希望なのです。
まだ、前世の記憶が蘇ってないから、すぐには信じられないでしょうけど。
国に帰ってきたらお逃げなさい。あなたは宦官にはならない。私たちのことは気にしなくていい。あなたを守るため、生まれたのだから。
シーバートは転生したあなたの、王の忠臣です。あともう一人、ティモールがいます。二人とも、あなたの力になってくれるでしょう。
もう、あなたは一人ではないわ。僕たちと共に世界を取り戻して。
あなたの母、そして忠実なる僕ルツより。
※※※※※※※
手紙を読み終えると、家の外に気配を感じた。
「さあ、早く出て行ってよ! お母さんが死ぬ時に、外国へ行っていた人なんか兄ではないわ。そして、もう二度と顔を見せないで!」
ナオミがせき立てる。外の気配も気になるが、ユゼフはなんとかナオミと和解したかった。
「ま、ま、待てよ。おまえが怒るのはわかる。でも……」
「出て行って!」
例によって、ユゼフは言葉が出なくなる。大人になったからといって、どもりは完全には治らないのだ。
「もうちがうのよ、私たち。お兄ちゃんは貴族様。私たちは平民。剣を差して上等な服を着て……お兄ちゃんのような人が家に来れば、あらぬ噂を立てられるわ。迷惑だから、私たちに会おうとするのはやめて」
「わかった。会いに来るときの服装は気をつけることにする……」
「そういう問題じゃない」
三十分くらいユゼフとナオミは押し問答を繰り返した。
しだいにナオミが泣きそうな顔になってきたので、ユゼフは何も言えなくなってしまった。
「……出て行って」
目を潤ませ、声を絞り出すナオミを前にユゼフは背を向けるしかなかった。
こんな別れ方はしたくなかった。
「また、会いに来るから……」
「会いに来ないで」
最後にそれだけ言葉を交わし、ユゼフは粗末な土壁で囲われた家をあとにした。
家を出て、少し歩いてから立ち止まる。雨は止んでいる。
ユゼフは地面に視線を落として、彼を待った。砂状の土に落ちた雨は、点々と黒い跡を残している。
姿を現したのはトサカ頭、ティモール・ムストロだった。
ティモールは現れると、即座にユゼフの足下に跪いた。
今となっては、ユゼフは驚かなかった。壁の向こうで、未来から来たティモールとは会っている。ユゼフが動じなかったので、
「シーバートから聞いているのですね?」
と、ティモールは安堵したようだった。
「ティモール……」
「ティムでいいです。前世でもそう呼ばれてました」
「……ティム、おまえに頼みがある」
「なんなりとお申し付けください」
ラセルタとは違う。眼光の鋭さは数多の修羅を知っている。何人も斬っている盗賊や傭兵以上に凄みがある。ユゼフの比にならないほど、戦歴を重ねているのだろう。自分より、経験も実力もある男を見下ろし、ユゼフの思考は停止した。
言い淀んでいたところ、ティモールは勝手に語りだした。
「じつは、幼いころから王を守るのがおまえの宿命なのだと、厳しく躾けられまして……結果、親に反抗し、家出しておりました。そのせいで、おそばにお仕えするのが遅くなってしまったのです。前世の記憶が少しずつ蘇ってきたのは、ごく最近のことなんすよね」
ただならぬオーラに気圧されていたというのに、当の本人の口調はあっけらかんとしていた。町の不良がしゃべっているのと変わらない。拍子抜けしたユゼフは、尖ったとさか頭に注目した。
「それで、そんな頭なの?」
「……う。えぇ、まぁ」
「家出してどこにいた?」
「騎士団の偵察部隊、旧霧蛇隊に」
「それは都合がいい」
霧蛇隊といえば、シーマの間者、幼い王子たちを皆殺しにしたガラク・サーシズと同じ隊だ。戦後、解体され、偵察部隊に吸収されたと思われる。
「では、騎士団にいるカオル・ヴァレリアン、ウィレム・ゲイン、ジェフリー・バンディに近づき、探れ」
ティモールは返事をしなかった。非難がましい目で、ユゼフを見てくる。
「返事は?」
「……あの、俺は陛下のおそばでお護りするために、出てきたんですが……」
「そばには、ラセルタがいるから大丈夫だ」
「え!? あのガキですか? 役に立たないでしょうがよ!?」
夜明けの城で、ラセルタと歩いていたのをどこからか見ていたのか。ティモールは荒々しい口調で反発してきた。
「つべこべ言うな! これはティム、おまえにしかできない大事な役目だ。ひいては、俺の命を守ることにもつながる」
不満そうなティモールを、ユゼフは見据える。
「当面は俺とのつながりを誰にも知られないようにしろ。おまえは敵側についてもらう」
家族を失ったユゼフには、かつてのような迷いがなかった。あるのは強い思いと固い決意だけだ。
ティモールはしぶしぶうなずいた。
「かしこまりました。陛下のお望み通りに……」
王の威厳をなんとか示すことができた。ユゼフはため息を我慢し、胸を反らした。




