50話 ない
どこからどこまでが夢で現実か。ユゼフは彼女とキスをしていた。甘い香りがムンッと鼻腔をふさぎ、唇は彼女のものとなる。
おぼろげにユゼフは思う。角や獣耳、尻尾だって隠せる。髪の色だって変えられる。緑から青へ、魔法薬で瞳の色を変えることだって、可能じゃないか。
やっぱり、あなたはディアナ様ですか?──質問がまだ喉に引っかかっている。男をよく知るこの女が、清らかなディアナ様であるはずはないと、納得したのに。
体の自由を奪われ、彼女の好きにされるのは気持ちよかった。不思議と恐怖はない。動かない体の感覚だけが先走り、ユゼフは快楽に身を沈めた。だから、唇の支配から解放された時、「待ってくれ」と思った。もっと、彼女に支配されたかったのだ。
──あ、離れていく
彼女が離れた証拠に甘美な時間は散って、新鮮で冷たい空気が流れてくる。それは、ヴァルタン家へ連れて行かれる直前、抱き締めてくれた母が離れていく感覚に似ていた。
──行かないで……行かないでくれ!
願いが叶ったのは一瞬。彼女は甘い香りと戻ってきた。フワリ……
耳に熱い息を感じる。湿った囁きは、ユゼフをどん底に突き落とした。
『あなたをどうしようもないほど憎んでる……でも、同じくらい愛してる』
夢はここまで。深い淵に落ちたユゼフを引き戻したのは、男の声だった。
「起きろ! 起きろ! ほら、起きろや!」
太く張りのある声が唄うように繰り返す。リズミカルなその声は鼓膜を心地良く震わせ、ユゼフを枕にしがみつかせた。
肉厚な手にペチペチ頬を叩かれる。そこまでされ、ようやくユゼフは目を開けた。
長い睫毛に縁取られた大きな目がこちらを見ていた。高い鼻と厚い唇……仮面はつけていない。
「やっと起きたか? もうパーティーはお開きだ。とっとと城から出て行け」
真鍮色の肌と派手な青い上衣から、それが応接係のアマルだとわかった。いやに乱暴な口調だ。気付くや否や、ユゼフは飛び起きた。
「ここは? ディアナ様は?」
「なにを寝ぼけてやがる? ここにいるのはアンタだけだ」
ユゼフは部屋を見回した。ガランとした部屋には、アマルとユゼフの他は誰もいない。
──どういうことだ?
頭がもげ落ちそうなくらい重い。必死に記憶を手繰り寄せる。
アーベントロット卿がいると聞いた場所には、ディアナにそっくりな女がいて……ここでその女と……
乳房に手を伸ばしたところまでは覚えている。その先は……そうだ、なにか怪しげな薬を飲まされたんだった。
あの薬……睡眠薬だったのか──
ユゼフはハッとして、ベッドの端に置いてあった上衣を調べた。
「……ない」
内側のポケットに入っているはずの魔瓶が二本ともない……ユゼフは慌てて、ベッドの下やシーツの皺を伸ばして探し始めた。
「ない……ない……ない!……ない!……」
その様子をアマルは呆れた顔で見ている。
「こりゃあ、うまくたらし込まれたな? よくあるんだよ。誘惑して油断したところで、金目の持ち物を盗む」
ユゼフはもう一度、上衣のポケットを調べた。あるはずの物がない代わりに、知らない感触が指先を刺激する。紙だ……小さく折り畳まれた紙を開くと、そこには……
──戻らないで……戻ればあなたは死ぬ。秋桜の月、満月にまた同じ場所で
「ほら、早く服を着て出て行くんだ! 早く!」
アマルがせかす。玄関で応対していた時と、まったく違う。物乞いを追い払うみたいにえげつない。
ユゼフは紙をポケットに戻した。
「あの……あ、あ、アーベントロット卿にお会いすることは、できないだろうか? 彼女は特別招待客だと言っていた」
服を着ながら尋ねる。動揺しているせいで、どもってしまう。アマルは大げさに溜め息をついた。
「あのな、伯爵にはその特別招待客しか会えねぇんだ。そういうルールなんだよ? アンタみたいな哀れな田舎者はゴマンといるし、オレも伯爵も、そんなのいちいち相手にしてられない」
「で、でも、アレがないと困るんだ。帰れないんだ……は、伯爵なら彼女のことをご存知だろうから……」
「それはお気の毒に。でも、オレの仕事は儚い夢から覚めた男どもをここから追い出すことだ。それに自分が悪ぃんだぜ? どうせ美人を目の前に舞い上がっちまったんだろう? さあ、服を着たら行った、行った! これ以上、留まろうとするなら衛兵を呼ぶぞ? 現実はアンタが見てた夢みたいに甘いもんじゃねぇ。過酷なんだ」
ユゼフはせき立てられるまま、玄関へ行くしかなかった。背中を強く押されて扉の外に追いやられる。扉の回りには衛兵たちが集まって、誰も入れないように警備を固めていた。
ユゼフは必死に懇願した。
「頼む! 最後にもう一度話を聞いてくれ! 彼女は部屋の鍵を持っていた。特別招待客なんだ。アーベントロット卿だって、自分の贔屓にしている客がコソ泥のような真似をしたとわかったら、名誉を傷つけられるだろう。だから……」
「だから?」
アマルはうんざりした表情で扉に手をかけた。
「……だから、アーベントロット卿とお会いして、話を聞いていただきたい」
「だんだん、アンタが哀れになってきた……普段は情けをかけないんだが……」
言葉とは正反対に嘲りの視線をユゼフに浴びせ、アマルは胸元へ手をやった。胸元から取り出したのは丸く平べったいものだ。キラリと光るそれを指で弾いた。
薄闇のなか、赤い月を反射したそれは綺麗な半円を描いて落下した。
ユゼフはそれを両手で受け取った。
「それでは、ご機嫌よう。またのお越しをお待ちしております。ユゼフ・ヴァルタン卿……」
アマルは嫌味ったらしくにこやかに別れを告げ、扉を内側から閉めた。
ユゼフは呆けて、立ち尽くした。
赤い月は西に昇っている。天灯は打ち上げられておらず、昨晩より薄暗い。祭りの間は昼夜が逆転しているのか……
魔瓶に入ったグリフォンがなければ帰れない。今頃、暁城ではユゼフがいないので、騒ぎになっているだろう。アキラがうまく、ごまかしてくれるといいのだが……
人を小馬鹿にしたアマルの態度に、今さらながら腹が立ってきた。
──なにも、あそこまで態度を変えなくたっていいじゃないか
宮殿の階段を下り、ユゼフは憤る。ふと、馬を厩舎に移動している馬屋番の姿が見えた。
──早馬なら二日で帰れるだろうか……
邪悪な誘惑に心が動かされる。頑なな善心より、今は城主の不可解かつ無責任な態度に腹が立っている。アスターと共に貴族を襲った経験もユゼフを図太くさせていた。
──やるしかない
ギュッと握りしめた手を開くと、金貨がキラキラ輝いた。




