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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第一部 新しい王の誕生(後編)三章 眠り王子は目覚める
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50話 ない

 どこからどこまでが夢で現実か。ユゼフは彼女とキスをしていた。甘い香りがムンッと鼻腔をふさぎ、唇は彼女のものとなる。

 おぼろげにユゼフは思う。角や獣耳、尻尾だって隠せる。髪の色だって変えられる。緑から青へ、魔法薬で瞳の色を変えることだって、可能じゃないか。

 やっぱり、あなたはディアナ様ですか?──質問がまだ喉に引っかかっている。男をよく知るこの女が、清らかなディアナ様であるはずはないと、納得したのに。


 体の自由を奪われ、彼女の好きにされるのは気持ちよかった。不思議と恐怖はない。動かない体の感覚だけが先走り、ユゼフは快楽に身を沈めた。だから、唇の支配から解放された時、「待ってくれ」と思った。もっと、彼女に支配されたかったのだ。

 

 ──あ、離れていく


 彼女が離れた証拠に甘美な時間は散って、新鮮で冷たい空気が流れてくる。それは、ヴァルタン家へ連れて行かれる直前、抱き締めてくれた母が離れていく感覚に似ていた。


 ──行かないで……行かないでくれ!


 願いが叶ったのは一瞬。彼女は甘い香りと戻ってきた。フワリ……

 耳に熱い息を感じる。湿った囁きは、ユゼフをどん底に突き落とした。


『あなたをどうしようもないほど憎んでる……でも、同じくらい愛してる』


 夢はここまで。深い淵に落ちたユゼフを引き戻したのは、男の声だった。


「起きろ! 起きろ! ほら、起きろや!」


 太く張りのある声が唄うように繰り返す。リズミカルなその声は鼓膜を心地良く震わせ、ユゼフを枕にしがみつかせた。

 肉厚な手にペチペチ頬を叩かれる。そこまでされ、ようやくユゼフは目を開けた。

 長い睫毛に縁取られた大きな目がこちらを見ていた。高い鼻と厚い唇……仮面はつけていない。


「やっと起きたか? もうパーティーはお開きだ。とっとと城から出て行け」


 真鍮色の肌と派手な青い上衣から、それが応接係のアマルだとわかった。いやに乱暴な口調だ。気付くや否や、ユゼフは飛び起きた。


「ここは? ディアナ様は?」

「なにを寝ぼけてやがる? ここにいるのはアンタだけだ」

 

 ユゼフは部屋を見回した。ガランとした部屋には、アマルとユゼフの他は誰もいない。


 ──どういうことだ?


 頭がもげ落ちそうなくらい重い。必死に記憶を手繰り寄せる。

 アーベントロット卿がいると聞いた場所には、ディアナにそっくりな女がいて……ここでその女と……

 乳房に手を伸ばしたところまでは覚えている。その先は……そうだ、なにか怪しげな薬を飲まされたんだった。

 あの薬……睡眠薬だったのか──

 ユゼフはハッとして、ベッドの端に置いてあった上衣を調べた。


「……ない」


 内側のポケットに入っているはずの魔瓶が二本ともない……ユゼフは慌てて、ベッドの下やシーツの皺を伸ばして探し始めた。


「ない……ない……ない!……ない!……」


 その様子をアマルは呆れた顔で見ている。


「こりゃあ、うまくたらし込まれたな? よくあるんだよ。誘惑して油断したところで、金目の持ち物を盗む」


 ユゼフはもう一度、上衣のポケットを調べた。あるはずの物がない代わりに、知らない感触が指先を刺激する。紙だ……小さく折り畳まれた紙を開くと、そこには……


 ──戻らないで……戻ればあなたは死ぬ。秋桜の月、満月にまた同じ場所で


「ほら、早く服を着て出て行くんだ! 早く!」


 アマルがせかす。玄関で応対していた時と、まったく違う。物乞いを追い払うみたいにえげつない。

 ユゼフは紙をポケットに戻した。


「あの……あ、あ、アーベントロット卿にお会いすることは、できないだろうか? 彼女は特別招待客だと言っていた」


 服を着ながら尋ねる。動揺しているせいで、どもってしまう。アマルは大げさに溜め息をついた。


「あのな、伯爵にはその特別招待客しか会えねぇんだ。そういうルールなんだよ? アンタみたいな哀れな田舎者はゴマンといるし、オレも伯爵も、そんなのいちいち相手にしてられない」

「で、でも、アレがないと困るんだ。帰れないんだ……は、伯爵なら彼女のことをご存知だろうから……」

「それはお気の毒に。でも、オレの仕事は儚い夢から覚めた男どもをここから追い出すことだ。それに自分が悪ぃんだぜ? どうせ美人を目の前に舞い上がっちまったんだろう? さあ、服を着たら行った、行った! これ以上、留まろうとするなら衛兵を呼ぶぞ? 現実はアンタが見てた夢みたいに甘いもんじゃねぇ。過酷なんだ」


 ユゼフはせき立てられるまま、玄関へ行くしかなかった。背中を強く押されて扉の外に追いやられる。扉の回りには衛兵たちが集まって、誰も入れないように警備を固めていた。

 ユゼフは必死に懇願した。


「頼む! 最後にもう一度話を聞いてくれ! 彼女は部屋の鍵を持っていた。特別招待客なんだ。アーベントロット卿だって、自分の贔屓(ひいき)にしている客がコソ泥のような真似をしたとわかったら、名誉を傷つけられるだろう。だから……」

「だから?」


 アマルはうんざりした表情で扉に手をかけた。


「……だから、アーベントロット卿とお会いして、話を聞いていただきたい」

「だんだん、アンタが哀れになってきた……普段は情けをかけないんだが……」

 

 言葉とは正反対に嘲りの視線をユゼフに浴びせ、アマルは胸元へ手をやった。胸元から取り出したのは丸く平べったいものだ。キラリと光るそれを指で弾いた。

 薄闇のなか、赤い月を反射したそれは綺麗な半円を描いて落下した。

 ユゼフはそれを両手で受け取った。


「それでは、ご機嫌よう。またのお越しをお待ちしております。ユゼフ・ヴァルタン卿……」


 アマルは嫌味ったらしくにこやかに別れを告げ、扉を内側から閉めた。

 ユゼフは呆けて、立ち尽くした。

 赤い月は西に昇っている。天灯は打ち上げられておらず、昨晩より薄暗い。祭りの間は昼夜が逆転しているのか……

 魔瓶に入ったグリフォンがなければ帰れない。今頃、暁城ではユゼフがいないので、騒ぎになっているだろう。アキラがうまく、ごまかしてくれるといいのだが……

 人を小馬鹿にしたアマルの態度に、今さらながら腹が立ってきた。


 ──なにも、あそこまで態度を変えなくたっていいじゃないか


 宮殿の階段を下り、ユゼフは憤る。ふと、馬を厩舎に移動している馬屋番の姿が見えた。


 ──早馬なら二日で帰れるだろうか……


 邪悪な誘惑に心が動かされる。頑なな善心より、今は城主の不可解かつ無責任な態度に腹が立っている。アスターと共に貴族を襲った経験もユゼフを図太くさせていた。


 ──やるしかない


 ギュッと握りしめた手を開くと、金貨がキラキラ輝いた。

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