35話 青い炎
視界を閉ざしてから、ユゼフの記憶はとぎれた。
自分であり、自分でない何者かに意識を乗っ取られてしまったのである。だが、完全に我を失ったわけではない。睡眠時のように時間が飛ぶのではなく、限定的な自我は残っていた。
その証拠に血の匂いや、精気の動き、命が断たれる瞬間の気持ち悪さなどは感じている。ただ、感覚だけが暴走し、動作の記憶が抜けてしまっているのだった。
「ユゼフ! 何をしてるのだ! 早く来い!」
がなり立てるアスターの声で我に返った時、ユゼフは血だまりの中にいた。
目の前にあるのは積み重なる首のない死体だ──悪い夢でも見ているのかと思った。死体のそばで、茫然と突っ立つファロフとユゼフは目が合った。
「ば、ばけもの……」
瞳が揺れる。ファロフはそう呟いた。
──ばけもの?? 誰のことを言っているのだ?
混濁した意識のなか、考えることはできなかった。笛の音を聞いて駆けつけた傭兵たちが、目と鼻の先まで迫っている。
「早く早く早く早く早く!!」
アスターに急かされ、ユゼフはぼんやりしたまま、梯子まで走った。走るというより壕を滑り降りた。アスターに続き、梯子を上り始める。
「アスター!!」
ユゼフが梯子を半分くらい上ると、声が聞こえた。
見下ろせば、ファロフが壕の下まで来ている。声を出さずに「オレは仲間だ」とファロフの唇が動いた直後、下は傭兵で埋め尽くされた。
「ユゼフ様、早く!」
ラセルタがユゼフのペースに合わせ、城壁を這う。
傭兵たちが、ひと繋ぎによじ登ってきた。梯子を早く片付けなくては、追いつかれてしまう──ユゼフは足をつかまれた。体勢を崩し、ひきずり下ろされそうになる。左手が滑って、梯子から離れてしまった。
空になった左手に力を込めたのは無意識だった。身を守ろうと、本能が先走ったのか。手から青い炎が吹き出した。まだ、夢の中にいるような心地だ。炎はあっという間に広がった。
内壁を下りていたアスターは慌てて飛び降り、てっぺんにいたユゼフも内側に移動した。その間に、つかまれた足は自由になっていた。
城内の地面までは十キュビット(五メートル)ほど。難なく飛び降りて着地するには高すぎる。
炎に包まれた縄梯子は瞬く間に灰へと変わる。ユゼフが着地するのと、灰になった縄梯子が崩れ落ちるのと同時だった。
高所から飛び降りて平気な顔で立ち上がったユゼフに対し、どよめきが起こった。城壁の内側にいた衛兵たちが、驚きと好奇の目を向けている。彼らの中心にいる立派な口髭の男が、ユゼフに歩み寄った。一人だけ紋章の描かれたサーコートを甲冑の上に着ていない。
「衛兵隊長のヨアヒム・ブリーゲルと申します。今のは魔術ですかな? パイロの赤い炎しか見たことがないもので……貴公のお名前を伺いたい」
「ユゼフ・ヴァルタンと申します」
衛兵隊長はうなずき、近くに立つアスターに気づいた。軽く体を仰け反らせたあと、決まり悪そうな顔になる。青い炎が強烈過ぎたため、アスターを無視して、ユゼフに声をかけてしまったのである。どう見ても、ガラの悪い髭オヤジのほうが偉そうだ。
生真面目な衛兵隊長は、アスターに向き直った。
「大変失礼いたしました。お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「ダリアン・アスターだ」
アスターが名乗ると、騒然となった。「アスター様!」「あのアスター様だと?」……興奮した衛兵たちは口々に“アスター”を復唱した。グリンデルでは得られなかった反応だ。
「静かに! 静かに!」
声を荒らげ、隊長ブリーゲルは衛兵たちを静まらせた。
「アスター様、お待ちしておりました。お会いできて恐悦至極にございます。まさか、我が国でお目にかかれるとは……」
アスターの武功は、カワラヒワにまで届いていたようだ。
貴族社会ではないモズや敵国カワウ、グリンデルではお呼びでなかったのが、憧憬の眼差しを向けられる。
「お話は聞いております。お連れの方々もご一緒に……ささ、こちらへ……ご案内致します」
頬を紅潮させたブリーゲルが先立って歩き始める。
城壁を越えた向こうは、まるで別世界だった。
城内は、所々に設置された灯籠のおかげでとても明るい。建物の多くは、以前に本で読んだエデン式の構造で造られていた。エデンは外海の国、日の本の文化を受け継いでおり、独特の空気感がある。
整然とした石畳を歩き、緩やかな螺旋状の段々を登っていくと、高台に立派な瓦屋根の御殿が見える。途中には家々が立ち並び、小さな町を形成していた。
色鮮やかなドレスをまとった娘たちがユゼフたちに気づき、にこやかにお辞儀した。木剣を持って走り回る子供たちもいる。鶏の鳴き声が聞こえる家畜小屋は生活感があり、鍛冶屋からは剣身を鎚で打つ音がひっきりなしに聞こえてくる。
生き生きと生活する人々に穏やかな灯りが落ちていた。
ユゼフは一歩下がり、アスターを先に行かせた。リーダーはアスターだし、何者でもないユゼフたちとは違い、名前も知られている。立てるのが自然の流れだ。
「アスター、ケガしてる……」
アスターに付き従うダーラが心配した。よく見ると、アスターは肩から血を流している。普通に歩いているから、見落としていたのである。虚勢を張って、無理をしているのかもしれなかった。
「大丈夫だ。たいしたことあるまい」
「でも……」
衛兵隊長が慌てて口を挟んだ。
「気づかず、申しわけございません。御殿に向かう途中、診療所がありますので……」
アスターは無愛想に片手を上げ、気遣いは不要だと意思表示した。
──まったく……素直に手当てしてもらえよな?
異様な興奮状態を脱したユゼフは苦々しく思う。
けがをしたのはアスターだけか。幸い、診療所には寄ってくれた。血をダラダラ流したまま、御殿に入るのは無礼だと思ったのだろう。
ユゼフたちも返り血を拭いて、身嗜みを整える。イザベラとエリザは着替えるため、先に連れて行かれた。
アスターが手当てを受けている間、櫓から下りてきたアキラと合流した。クリープとアキラは剣を交換し、ユゼフはなんの引っかかりもなく、笑うことができた。
「ごめんな、兄が先回りしてたんだ。父に頼んで、追い払ってからのほうがよかったか……」
「いいや、大丈夫。アスターさんが、けがをしたけど軽傷だ」
「あの場所で待機させるのも危険だし、家出した身ですぐに父を説得する自信もなく……本当に申しわけない……」
「気にしなくていいよ」
アキラが兄のカオルのことで、負い目を感じているのが、かわいそうだった。
──なにも、気にすることなんかないのにな? むしろ、こんな立派な城に受け入れてもらえて、こちらが申しわけないぐらいだ。アスターさんのけが?……さっき、血の入った小瓶をこっそり渡しておいたから問題ないだろう。なに、刺された斬られたが日常の人だ。放っておいても、死にはしない。
こんなふうにユゼフは思うのだった。




