18話 暗号①
シーマが書いて、ヴィナス王女がサインした文──
胸に手を当て、大切な文がそこにあることをユゼフは何度も確認した。
五首城の主殿にて、手頃な部屋を探す。
広間から、そんなに離れていない執務室あたりが良さそうだと思った。仕事部屋なら、血や涙で汚れていないだろう。
安易な考えでユゼフは適当な部屋へ入った。頭のなかはグチャグチャで、良い部屋を熟考する余裕はない。頼りはインスピレーションだけである。それが思いのほかアタリだった。
ユゼフが入ったのは、バソリーが事務仕事に使っていた部屋と思われた。
石壁で囲まれた部屋には埃だらけの本棚が十台ほどと、これまた埃と蜘蛛の巣で覆われたソファと暖炉、それに机と椅子があった。
理想的に質素である。壁や床の傷みも少ない。椅子と机の埃を拭えば、銘木のツルリとした断面がのぞく。
ホッとしたユゼフは脱力し、椅子になだれ込んだ。
弛緩すること、少時。
すぐにピッと背筋を伸ばし、胸元から二通の文を取り出した。
制限時間は一時間だ。シーマが文に紛れ込ませた暗号を解読せねば。
一番気になるのは二通目。右上に記された日付のあとの時間だ。
「カモミールの月、十八日、十五時五十分」
日付を書いても、普通は時間まで記さない。それと、整然過ぎる文字に違和感があった。シーマは流麗な字を書くが、いつもより硬い感じがする。
ユゼフは文を逆さにしたり、透かして見たり、文字を指でなぞったり……同じ動きを何度も繰り返した。
手帳に何か書きつけては溜息を吐き、歩き回る。何かつかめそうで、なかなかつかめない。
止まると足が冷たくなってしまう。春とはいえ、夜になると石造りの城内は冷え込む。暖炉に火をくべたいぐらいだった。
突如、ドアをノックする音がし、ユゼフは慌てて文を胸元にしまった。暗号のことで頭がいっぱいだったから、気配に気づかなかったのだ。
「入るわ」
なかに入って来たのはディアナだった。
荷物は逃げる時に置いてきたため、相変わらず端女の装いである。地味な衣服は彼女の美しさを際立たせていた。
立ち上がろうとするユゼフをディアナは制止した。
「そのままでいいわ」
次に机をぐるりと回り、ユゼフの前に立つ。ユゼフは椅子から降り、ひざまずかねばならなかった。
「そのままでいいと言ったでしょ? 座って」
ユゼフは言われたとおりに座り直した。
ディアナは、一息吐いてから質問をスタートさせた。
「この気味の悪い城にいつまでいないと、いけないのかしら? 教えて?」
「ここは安全です。ヴィナス様がシーバート様と連絡を取り合っているので、もうしばらくはいるかと……」
「そのことだけど、アダムが届けた妹からの文、たしかにサインは妹のもので間違いなかった。でも、筆跡は別人だったわ。誰かにサインを強要された可能性はない?」
筆跡がちがう──誰よりも、ユゼフ自身が一番わかっていることだ。無意識に服の上から臣従礼の傷痕を触ってしまう。平静を装い答えた。
「ヴィナス様はショックで、筆も握れないほど憔悴しきっておられると、文には書かれてありましたが。身近な方が代筆されたのではないでしょうか?」
「そうだけど……何か気になるのよ……まあいいわ」
会話が途切れると、ディアナは目を伏せて髪を触ったり、手を後ろに組んでみたり、落ち着きのない動きをした。
──いったい、何をしに来たのか……
「お話は以上でしょうか?」
「……あの子と仲がいいのね?」
「??……あの子とは?」
「エリザに決まってるじゃない? あの子の前で服を脱いだりして」
「傷の手当てをしてもらっていたのです」
「他にもあるわ。二人でこそこそ話したり、脇腹を突っつきあって楽しそうに笑っていた」
ユゼフにはディアナの言わんとすることが、よくわからなかった。
エリザは気取らなく、男のようにさっぱりしているから気を使う必要がなかった。
体裁を整える必要がなく、楽だったのである。彼女といる時は自然体だったかもしれない。
「ああいう子が好きなのね? 彼女の前だと楽しそうに声を立てて笑ったりする。私の前では、いつもしかめっ面なくせして。子供のころ、意地悪して顔にパイを押し付けたこと、まだ根に持っているのかしら?」
──パイを押し付けられる以外にも、いろいろされたが……
ディアナは潤んだ深緑の瞳で、にらんでくる。
「エリザを女性として、好きだと思ったことはありません」
ユゼフは抑揚のない声で答えた。
ただ、変な誤解を解きたかっただけだ。少々、ムッとはした。だが、例によって感情を押し込める。
すると、ディアナの膨れっ面がしぼんだ。心なしか、顔が赤らんでいるようにも見える。前に組んだ両手の親指をせわしなく動かしつつ、彼女は口を開いた。
「あのぅ、シーバートからあなたへの態度を改めるよう進言があったわ」
ディアナがユゼフのことを「おまえ」ではなくて、「あなた」と呼ぶのは初めてのことだ。
そういえば、再会したシーバートはユゼフに敬語を使っていた。
理由として考えられるのは、父エステルと次兄サムエルが亡くなったことか。さらに長兄のダニエルまで亡くなった。
これでヴァルタン家の血を引く者は、一人だけになった。
国王の御前で爵位継承が正式に行われれば、ユゼフは侯爵として、主国の南西部全域を治めることになる。
大陸の領地は大きく分けて三つ。南西がヴァルタン家、東がシャルドン家、北をローズ家が統治していた。王領はシャルドン家とヴァルタン家の領地に挟まれている。
国王議会の一員であった父は屋敷を王都スイマーに置き、瀝青城に次兄サムエルを住まわせ統治を任せていた。
ユゼフが瀝青城に行ったのは二度程度だ。今は城もスイマーにある屋敷も、イアン・ローズに占拠されている。
むろん、急なことで現実感がない。宦官にならないで済むのはありがたいとしても、家を継ぐことについてはまだ考えられなかった。今、一番気になっているのは、シーマが何を伝えんとしているかだ。
「それでね、シーバートの話だと国内が大変な状態なので、カワウのフェルナンド王子との婚約は白紙に戻るそうよ?」
ディアナの声はうわずっていた。
「私の兄や弟たち、甥が皆亡くなったから、父が亡くなったときは、第一王女である私が王位を継がなくてはいけない。だから、国外からではなくて、国内の王族に近しい家と縁談を結ぶことになるだろうって。私が次期王位継承者だなんて、あまりに唐突過ぎて実感も湧かないのだけど……」
「ご家族のことは、誠に残念でした」
ユゼフは事務的に弔意を表した。
国王が亡くなったことはまだ知らせるなと、シーバートに口止めされている。
「私が女王になったとき、王配※が誰になるかって話……王家と血縁のある家はローズ家とヴァルタン家、シャルドン家……謀叛を起こしたローズ家は外されるから、血のつながりが深い順でいくとヴァルタン家が筆頭になる」
ディアナの瞳が俄然、熱を帯びてくる。艶のある目でじっと見つめられ、ユゼフは居心地悪くなった。
──王家と近しい家と縁談……ヴァルタン家が筆頭……
そんなこと、考えもしなかった。
──でも、国王が亡くなった今、縁談は誰が決めるのだろう? 遺言でも残してあるのだろうか? だとしても、諸侯が納得する内容でないと……
ユゼフは王位継承順位五十一番目だ。とはいっても、私生児。正嫡子であるシーマ・シャルドンがそれより後にくるか、前にくるかは、わからなかった。
──前に五十人いれば殺せばいい
──戦地で五十人の屍は数のうちに入らないよな?
──これは考え方なのだよ、ユゼフ・ヴァルタン?
──前にいる五十人を多いと感じるようだと、おまえは役にたてない
シーマの言葉が耳の奥でこだまする。
「五十人……」
思わず口に出して、ユゼフはピンときた。
「どうしたの?」
ディアナが眉をひそめる。
「殿下、お話の途中で申しわけないのですが、至急調べたいことがあるのです。話はあとでお聞きします。とりあえず、今はどうぞお引き取りください」
ユゼフは立ち上がり、埃まみれの本棚を調べ始めた。
※王配……女王の夫。




