27話 サチの心情(サチ視点)
後で追加した話です。
サチは存分に吐いた。
温泉から宿屋の裏手まで、なんとか持ったのはラッキーだった。下手すれば、整然と敷き詰められた石畳や、湯気を立ち昇らせる温泉を汚していた可能性だってある。
庭木の根元に、サチは思いっきりぶちまけた。吐瀉物は臭いし汚い。
幹を背に嘔吐を繰り返す。肩を上下させ、胴体をひくつかせる。胃の中身をすべて吐いてしまうまで、それは続いた。
昼も夜も賑やかなこの町では、酔っ払いが吐いていたとしても、足を止める人はいない。
「うわぁ……」と引く、または「嫌なもの見ちゃったな」と顔をしかめる程度である。誰もが足早に去っていく。都会の人間は冷たい。「大丈夫ですか?」と親切心から声をかける人がいないのは、せめてもの救いであった。
なぜなら、こう見えてサチは自尊心が高い。それに加えて超潔癖。
嘔吐するという恥ずべき行為を見られるだけでも屈辱なのに、声までかけられた日には悲惨過ぎて死にたくなる。
最悪な状況を引き起こした原因はわかっている。悪いのは自分自身だ。
卑しくも大食してしまった。絶食の直後は適度な水分、重湯、粥から始めるべきだった。胃がびっくりしてしまったのだ。
考えなくてもわかることだった。普段のサチならこんな愚かなことはしない。体も脳もちゃんと動いてはいなかった。
情けない──
控え目にするつもりが、結局平常運転になってしまった。表面上はなんでもないようにしていても、本当は入ってくる膨大な情報に対処できず、てんやわんやしている。水面下で懸命に足を動かす水鳥と同じだ。
サチが平静を装うのは見栄である。誰かに甘えたり、情けないことを言って助けを求めたりすることができない。
しばらくしたら、宿を発つのだろう。聞いた話では、休む余裕はないようだし。足手まといにはなりたくない──サチは思った。
移動中、誰かが自分を運んでくれていた。これまでさんざん迷惑をかけている。
思ってみると、なんと親切な人たちであろうか。あの傲岸不遜なアスターにしても、何を考えているかわからないクリープにしても、普通なら見捨ててもおかしくない状況下で助けてくれた。
意識のないサチを介護したところで、なんの価値もない。これがどこかの国の王子様だったら、話は別だが。今ここにいるサチ・ジーンニアはただの平民。何も持たず、言葉で感謝することしかできない。
──俺が役に立つとしたら、知恵を働かせることぐらいか
ユゼフはこのまま一緒に主国へ帰ろうと、言ってくれている。
──戻れば謀反人の家来だ。投獄されるのは間違いない
彼らが無価値のサチを助けたのは、純粋な善心からと思われた。ならば、それに応えなくてはならないだろう。
──あと、イザベラ
離れる時、一人でブツブツ言っていたが……
ユゼフの話だと、瀕死のサチの傷を癒やしてくれた。目覚めるまでの間、体を定期的に清めてくれたり、付き添って寝てくれたりもしたらしい。
──うぅ……恥ずかしい
吐瀉物に土をかけながら、サチは顔をほてらせた。彼女の父親を殺したのは自分だというのに、なぜそこまでしてくれたのだろう。魔国にいる時から、妙に馴れ馴れしかった……もしかして──
胸が疼き、呼吸が早くなる。気の高ぶりは体温と血圧を上昇させた。が、女性に縁がなかったため、芽生えた臆病心が浮ついた気持ちを戒める。
そんなわけないじゃないか、と。気位高く上昇志向も強い。美人で家柄も良い彼女がそんなわけ──
何も持たぬサチは思う。自分には好かれる要素はこれっぽっちもない。背だって低いし、顔立ちも異国人のように平べったい。長所は普通よりちょっとだけ賢いところだが、それも強気な性格に邪魔され、生かされていない。
サチは頭を振って、甘い妄念を振り払った。色恋は今、考えるべき課題ではない。
とにかく、彼らに感謝しなければ。恩を返さなくては──律儀なサチは動かぬ頭で必死に考えた。どうすれば恩返しできるか。
とくにユゼフ。ユゼフが求めるなら旅にも同行しよう。
汚物に土をかけ終わった。土が吐瀉物の酸っぱい臭いを隠すと、温泉地特有の腐臭が鼻をついた。腐った卵に似た腐臭は不快ではない。
──あとで温泉に入るのもいいかもしれない。いや……
温められた血流は、激流となって体内を駆け巡るだろう。また、血管や臓器に負担をかけることになる。
──たった今、過ちを犯したばかりだ。温泉は足だけにしよう。起きている状態に身体が慣れるまでは我慢だ。俺は同じ失敗を繰り返さないぞ? なに、夜の国にいる間なら、温泉に入る機会はいくらでもある
土まみれの手を見て、サチは後悔する。いつも正義を人に押しつけてしまう。自身の性格はよくわかっているのに。それで何度も失敗したというのに。
完璧だったはずが負けた。身の毛もよだつ機械兵士に追い立てられ、魔国まで逃げることになった。
学生時代のいじめ、イアンの家臣たちとうまくやっていけなかったこと──これらはサチの身上だけでなく、性格も起因している。
カオルやウィレムがイアンを裏切らなければ、形勢は持ち直した。彼らが裏切った原因の一つはサチにある。
身分差など気にもしない。正しい意見を述べるサチにイアンは耳を傾けた。それは嫉心や劣等感を刺激し、彼の家来たちを卑屈にさせたのである。サチは家来たちの声にも耳を傾け、もっと歩み寄るべきだった。
そう、サチに足りないのは寛容さだ。
助けてくれたユゼフやアスターに対して、もっと殊勝に振る舞うべきである。
──わかっているのに、どうしてできないんだろうな?
妹を恩師に預け、ローズ城へ向かう途中、あれだけ悔いたではないか。暗闇のなか、一人ぼっちで走り、同じく一人になったイアンのもとへ向かった。
その時、こう思ったのだ。素直で優しく、おおらかな人になろうと。否定すれば反発を招く。
ユゼフも言っていた。皆、脛に傷を持っている。正しい道を貫こうとしても、悪心が邪魔をする。至らないところを指摘して、責めるのはもうやめだ。攻撃ではなく受け入れよう。それが最大の防御となる。
赤い月光は優しい。太陽ほど刺激的ではない。太陽は闇に絡みつく雲すら蹴散らしてしまう。届く範囲に余すところなく、光のシャワーを浴びせてくる。無情に闇を追い払う。
闇を内包し、共存する月のほうが美しい。
この先、何が待っているかわからない。ユゼフもサチも、未来から来たカオルたちに命を狙われている。ユゼフが間違っている可能性もある。
だが、これだけは言える。彼らはサチを助けてくれた。
協力しよう。国へ帰るために、自分ができることの全部を出し切ろう。
サチは左腕の傷痕を触った。イアンは生きている。お互い、悪運強過ぎるだろと苦笑する。このしぶとさは生きていくのに必要なスキルだ。
──まだ、終わりじゃないぞ? イアン、君も彼らに助けられたんだろう?
傷に問いかければ、ズキズキと答える。今にも癇癪を起こしそうなイアンの赤い顔が浮かび、サチは微笑んだ。




