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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第一部 新しい王の誕生(後編)二章 マリク争奪戦
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13話 私にだけ教えてくれ

 部屋に入ったとたん、全身の力が抜けた。以前ここに滞在した際、使っていた部屋だ。ユゼフは深く長い溜め息を吐いた。

 質素で面白味のない仕事部屋は一か月前に掃除したが、悲しいことにもう埃が積もっている。

 すぐに窓を開け換気した。うまやから拝借した干し草を敷いて、ベッドの代わりにする。

 厩も屋上にあった。この城は主殿の屋上に居館と礼拝堂を載せ、そこを曲輪として用いる。特異な構造を持つ城である。


 ユゼフは干し草のベッドにサチを寝かせた。いい匂いのする干し草に身を沈めたサチは、気のせいか少し微笑んだように見えた。窓から入り込む西日に照らされ、頬が赤らんでいる。

 部屋まで一緒について来たマリクが、ユゼフの手に鼻を付けてきた。空腹なのかもしれない。肩にかけていたスリングから干し肉を取り出し、与えてやった。

 食料と水は限られている。少しずつ食べても、二日程度でなくなるだろう。ユゼフ自身は食べず、サチの隣で横になった。朝から何も食べていないのに、ちっとも腹は減っていない。

 今日一日、何度も危険な目に会い、一度は死にかけた。やっと安全圏に入ったが、緊張から抜け出せないでいる。

 

 ユゼフは右手をかざした。なんの変哲もないゴツゴツ骨ばった手がそこにある。浮き出た血管の細やかな振動を、ユゼフはなんとなく眺めた。

 手から出た青い炎は、幻だったのではないかと思えてくる。あんなことは生まれて初めてだった。文を見られるまえに燃やさねばと焦った。そうしたら、手から炎が出たのである。


 ──そうだ。おかしいのは目覚めてからだ……


 意識が戻った時、刺された傷が塞がっていただけではない。全身に力がみなぎっていた。

 体中を熱い血液が駆け巡り、いつもより人間や動物の精気が鮮明に感じられた。身体に大量の生命エネルギーを注入されたような、そんな感じだ。


 横たわっても落ち着かず、心臓が拡張と収縮をひっきりなしに繰り返す。頭の中もグチャグチャしていた。さまざまな情報が飛び交い、玉突きみたいに散らばる。線と線でつなぎ、ポケットに入れるには時間がかかりそうだった。

 だが、今は何も考えたくない。頭を空っぽにして眠りたい。深い眠りにひたすら身を任せたい……


 ユゼフのささやかな願いは、強くドアを叩く音と共に葬られた。

 規則的に鋭く二回、叩く音は力強い。女ではないのは明らかだ。ラセルタの叩き方とも違う。

 ユゼフはいっそのこと、知らぬ振りをしようかとも考えた。しばらく動かないでいると案の定、低く太い男の声が聞こえた。


「アスターだ。いるんだろう? 入るぞ」


 アスターはドアを開け、ズカズカ部屋の中に入ってきた。

 城内は広いので、居館の一階を寝泊まりに使っている。寝る部屋を決めてから、もう一度集まって居場所を報告しあっていた。明日の朝七時にまた集まり、今後の相談をする。

 周りは険しい岩山だ。山を越えてカワラヒワまで行く道のりは厳しい(目的地のアオバズクへ行く途中にカワラヒワを通る)し、休養も必要だった。


 幸運なことに五首城の造りは堅牢である。背面は崖で、正面は浅いながらも堀に守られている。跳ね橋を上げられた状態で、入り込むのは難しい。見張りを立て、城から出なければ、安全といってもいいだろう。食料の問題さえクリアできたら、しばらくここにいても、いいぐらいだった。


「寝ていたのか?……具合でも悪いのか?」


 心配そうにのぞき込むアスターの顔色は、先ほどよりマシになっていた。若干、酒臭い。

 長い髭と暑苦しい顔を見ると、胸壁での騒動が思い起こされる。ギスギスした雰囲気のなか、暴走したアスターに対して、形容しがたい怒りが沸き上がってきた。

 ユゼフは怒りのままに、アスターをにらみつけた。


「なんの用だ?」

「話があると言っただろう?……寝たままでも構わん。楽にしてていい」


 アスターはユゼフを優しく気遣い、サチを挟んで腰を下ろした。


 ──そうだ、これなんだ! 洞窟で気絶して起きてから、ずっとこの人の態度が気持ち悪い……


 今までとは打って変わって親切というか、腫れ物に触るような接し方だ。ユゼフにとっては居心地悪かった。


「ご機嫌斜めの様子だな? まあ、仕方あるまい。密かに想いを寄せていた高嶺の花とあんな別れ方をしたのだから……」


 思いもしなかった言葉にユゼフは、心臓が飛び出そうになった。アスターはディアナのことを言っている。


「あれは良くなかったぞ? 皆のまえで、あのように取り乱しては……何も気づかないのは、ダーラぐらいのものだろう」


 ユゼフは顔から火が出る思いで、うつむいた。アスターは無遠慮に続ける。


「でも、早いうちに離れたのは良かった。いくらおまえが想いを寄せたところで、どうにかなる相手ではないし……」

「ち、ち、違う……殿下に対してそのような感情は……ない」


 穴があったら入りたかった。憐れみの視線が痛い。しかし……皆の態度がおかしいのは……たぶん、このことではない……


「若いころは叶わぬ相手に想いを寄せることもあろう。国に無事帰れて、爵位と城を取り戻すことができたら……おまえに私の娘をくれてやってもいい」


 ──なに言ってるんだ……この人?

 

 唐突な申し出に、ユゼフは面倒臭さしか感じなかった。アスターの娘はきっと、ガタイの良い類人猿みたいなのに違いない。 


「あの……せっかくだけど、遠慮させていただく……」

「おまえ、私の娘が不器量だと決めつけているな? 見たら腰を抜かすぞ? 二人とも美しくて評判の娘たちだ。特に、長女のモーヴの美しさで右に出る者はいない。王都で暮らすようになって、多くの貴族たちから求愛されるのではないかと気が気ではなかった。指など、絹糸を束ねたように細く長くて……」

「アスターさん、何しに来たの?」


 娘の自慢を始めたアスターにユゼフは苛立った。


「ああ、そうだった。大事な話をしに来たんだった」


 アスターは緩んでいた顔を引き締めた。


「単刀直入に言おう。シーマからの文の件だ。さっきは周りに皆がいたから話せなかっただろうが、本当はなんて書いてあった?」

「……さっき話したとおりだ」 

「おいおい、この私にも話せないことか? 誰か殺せと書いてきたとか?」

「アスターさん、いい加減にしろよ? 言ったとおりだって……」

「私にごまかしはきかない。本当のことを話せ」


 アスターはユゼフを鋭く見据え、腕組みをしている。切り立った岩山のように頑強な体からは、聞くまで絶対に動くまいという強い意志が感じ取れた。


「隠し事は良くないぞ? 信用を失う。ちゃんと話してくれなければ、シーマに関してあらぬ誤解を招く。命を狙われてまで従う意義があるのか……」

「隠し事をしてるのはそっちだろ?」

「なぬ!?」

「洞窟の中で目覚めてから、なにか変だ。レーベたちの態度がおかしいし、アスターさんも変に優しい……気を失ってる間に何があった?」


 アスターは性格に似合わず、眉を下げて困った顔をした。やはり、図星だ。


「あのな、あの時おまえは死にかけたのだよ。出血が止まらず呼吸が弱くなり、顔は紙のように真っ白だった……」


 アスターは目をそらし、二人の間で眠り続けるサチへ視線を落とした。サチは微かに口を開け、穏やかな寝息を立てている。成人しているとは思えないほど、顔立ちが幼い。

 アスターは乾かないように彼の口を閉じた。


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