16話 五首城
霧が晴れて、崖の上にボンヤリと黒ずんだ城が見えた。
だいたい山の中腹くらいだろうか。ポツンと建つ姿は見るからにおどろおどろしい。
いつから五首の城、五首城と呼ばれるようになったのか、定かではない。名前の由来には諸説あった。
高い城壁からニュッと飛び出る五つの塔が蛇の頭に似ているから、という説。ヒュドラをイメージしてしまうのはユゼフだけではないだろう。
または戦時中、カワウの名だたる騎士五人の首が、それぞれ塔のてっぺんに飾られたことを由来とする説。快楽殺人者の城主バソリーらしいエピソードである。
どちらにせよ、いわく付きの城だ。
山道は途中から石段に変わった。最初はなだらか。徐々に勾配がきつくなっていく。上へ行くにつれて緑も減り、空気も薄くなってきた。
年老いたシーバートと幼いレーベにとっては、厳しい道のりかもしれない。だが、彼ら魔法使いには、ほうきがある。こんな辺鄙な場所をユゼフが指定したのには、ちゃんとわけがあった。
「虫食い穴」だ。
廃城の近くにある虫食い穴はグリンデル王国へつながっている。シーマの指示では──
二ヶ月後の薔薇の月、グリンデル王国と魔の国、そして鳥の王国、三国を隔てる境界へディアナを連れて行けと。
早く行っても損ではないし、グリンデルへ行けば安全が確保できる。グリンデルの女王はディアナの伯母だ。
ひとけのない山奥の廃城は、隠れて待ち合わせるのにも適していた。
かつて、鳥の王国の支配下に置かれていた広大な山岳地はバソリー──ソラン侯爵に一任されていた。王を持たないモズの魔法使いたちは侵略者に反発し、たびたび一揆を起こしたという。
道沿いに十八キュビット(九メートル)置きの等間隔で、先の丸い棒が立っている。大人二人分の高さはあるだろうか。
これはバソリーが逆らった魔法使いたちを串刺しにした棒だ。棒の先が丸いのは受刑者の苦痛を長引かせるためである。直腸、または性器に差し込まれた先の丸い棒は受刑者自身の重みでゆっくりと全身を貫いた。
聞くもおぞましい話だが事実。ときおり、この棒に死んだ色のロープや布切れがぶら下がっているのを見て、ユゼフはギョッとした。ディアナが誤って触れてしまっては大変だ。
バソリーは苦しむ人々を沿道の花として飾ったのだ。塔に敵将の首を飾ったように、彼にとっては勲章であり、美しき芸術でもあった。苦しむ姿を楽しんだ後、息絶え、腐り、骨になってからもずっと飾り続けたのだろう。漂うのが花の香りではなくて、死臭だとしても。
これは彼の嗜虐趣味の一端だった。
逆らう者以外でも、農家の娘や子供をさらってきては死を望むまで痛めつけて殺した。城の地下には多種多様の拷問具が置かれていて、その使用方法も熟知していたという。
そして、特に美しい者を好んだ。
彼にとっての美は性的な意味も孕んでいて、暴力、死と結びついて初めて完成する。経過も芸術作品の一部なのだ。だから、彼はけっして手を抜かなかった。
この徹底した美への追求はある種の愛着行動でもある。貪欲に求め、完璧を目指すことによって、彼は自己を確立できたに違いない。
殺した後、食したり、部屋に飾るのも然り。見て楽しむというより、自己認知のためだ。
この反吐が出るほど最低な悪魔のことを冷静に分析してしまうのは、自らにも近しい部分があるからなのかもしれない、とユゼフは思う。
押し込めた憎悪が消えることはない。澱のように溜まっていく。いつか、禍々しい沈殿物が激しい暴力となって噴出することだって、ないとは言えないのだ。
ユゼフは崖の上の黒ずんだ廃城を見上げた。
この城が落ちたのは、グリンデルとカワウの戦争中だ。息子と兵半分をグリンデルへ援軍に向かわせている間、モズの国有軍に攻め入られたのである。
火を放たれた城は四分の一以上崩れ落ちた。黒ずんだ城壁はその時の名残であろう。
気味の悪いことに、城が落ちてもバソリーの遺体は見つからなかった。
鳥の王国内でもバソリーの悪名は知られていたので、悪魔に魂を売って魔族になったとか、地下の隠し部屋に異形となって身を潜めているのだとか、さまざまな怪談話が生まれた。
身の毛がよだつ話も、今のユゼフにとってはどうでもいいことだ。人が寄り付かないような幽霊屋敷のほうが安全である。むしろ、怪談話がありがたいぐらいだ。
──あともう少しだ
頬をほてらせ、石段を上るディアナヘユゼフは手を差し伸べた。疲れて、拷問具の棒をつかもうとしていたからである。
驚いたのだろう。
深緑の目を大きく見開き、頬の赤みが増す。
ディアナはいったん躊躇してから、ユゼフの手を握った。小さくしなやかな手は尊い。絶対に汚してはいけないものだ。力を入れすぎたら壊れてしまうから、そっと──
降りろと言われたことを、まだ気にしているのか。ディアナはそっぽを向いて、ユゼフの顔を見ようとはしない。おかげで膨れっ面を堪能することができた。
柔らかそうな頬は発育途上の証。尖った鼻や目尻は暴力性の表れ。花弁を思わせる唇は心をざわつかせる。深緑の瞳に自分が映れば、息が止まるぐらいの多幸感が押し寄せてくる。
ディアナは見られていることに気づき、うつむいてしまった。解けるように手が離れていく。
「ディアナ様、背中に乗られますか?」
ユゼフが尋ねても首を横に振るばかりだ。もうちょっと触れていたいと願うのは、贅沢なのだろうか。
この異常な事態を脱したら、元通りになる。彼女は高慢なお姫様に逆戻りだ。ユゼフを虐げるに違いないだろう。さらには男であることまで失う。
罪悪感を抱く一方で、彼女の不遇を楽しむ自分もいる。これは自己嫌悪と性的悦楽とセットであった。
愛欲に飢えているのだ。交尾期の獣がそうであるように。
そんなことをユゼフが考えていると、獣の鳴き声が聞こえてきた。
石段の頂上、つまり城近くに獣が一頭いる。
物欲しそうに吠えるのは食事前だからなのか。黄金色のフワフワした毛と薄汚い欲望は結びつかない。甘ったれた表情は野良と思えないが……
犬??
愛らしいエデン犬が、不気味な石段をジャンプする。血の染み込んだ呪われた石段をスキップしているみたいに、浮かれ調子で駆け下りてきた。天真爛漫なペットとは、あまりに不釣り合いな場所だ。
あれは……シーバート様の伝書犬のマリク――
丸まった尻尾を左右に振り、口角を最大限に上げ、喜びを表現する。裂けた口から桃色の舌がのぞいていた。真っ黒な目は愛玩動物の最大の武器である。
ユゼフを認識すると、かわいらしい犬は興奮気味に吠えた。この犬はユゼフにもよく懐いている。しかし……シーバートは今回の旅にマリクを連れてこなかった。主国に置いてきたはずだ。
──まさか、時間の壁を通った??
飛びつくマリクを遠慮なしに撫で回しながら、ユゼフは違和感を覚えた。
マリクは時間の影響を受けていない。
通常なら時に流されず通った場合、時間の粒子が体に流れ込み、アダムのように老いてしまう。
マリクの目は黒々として若々しく、目やにもない。毛並みも艶があり、撫でた時の筋肉にも弾力があった。
──どういうことだろう?
考えてもわからないので、とりあえず、マリクは時間の壁を通れる……ということだけ認識した。要するにマリクを使えば、難なく壁の向こうとやり取りができるわけだ。
わずかに射し込む光明を見た気がした。
マリクの案内で、ユゼフたちは五首城へと歩を進めた。
「かわいい犬だなぁ! ユゼフの犬なのか?」
石段を歩き始めてから、無言だったエリザが陽気な声を出した。陰鬱な道のせいで沈んでいたのだろう。不揃いな歯を見せて笑う。
ディアナも犬に手を伸ばしてきた。人懐っこく見えるので無理もないが、マリクが警戒していることにユゼフは気づいた。見た目が愛らしいからといって、誰にでも愛想を振りまくわけではない。
──大丈夫だ、受け入れろ
そう伝え、マリクの眉間をスッと撫でる。強張った筋肉は簡単に弛緩し、マリクはディアナに身を任せた。
「かわいいわ。とっても……」
マリクの黄金色の毛が小さな手を包み込む。汚れなき白い手を。
無邪気な犬のおかげで、急な石段も少しだけ楽になった。




