122話 浮遊する記憶(アスター視点)
「よし! 逃げるぞ!」
アスターは出口へ走った。部屋の半分はすでに溶けている。扉を開けた先の階段が二段ほど消えていた。
「急げ!」
怒鳴って、飛び降りた。ラセルタ、サチを背負ったクリープ、イザベラがあとに続いた。
溶ける速度はどんどん増していく。溶けたあと、残るのは白い綿のような物体だ。駆け下り、外へ出るころには、塔の外壁の九割がふわふわ浮かぶ綿に変わっていた。
アスターは背後を気にしながら走った。ラセルタの声が追いかけてくる。
「アスターさん、イアン・ローズはどうするんですか?」
「探している余裕などない! 見ろ!」
振り向いて指差す。そこには驚きの光景が広がっていた。
脱出して数秒で、塔の上半分は綺麗になくなってしまった。部屋の中にあった家具の残骸まで、煙みたいに消えている。音もなく、綿毛と入れ替わっていた。
誰かが石盤に描いた絵なら納得できるが、実在していたと思われる立体が、いとも簡単に消えてしまうのは衝撃だった。最初から存在していなかったのでは?……と疑念すら抱いてしまう。
「巻き込まれるのはごめんだ。行くぞ!」
中庭を突っ切り、城門まで時間はかからなかった。裏口から出なかったのは、そちら方面が謎の綿だらけだったからだ。主殿も他の塔も皆、綿毛の餌食となった。
アスターは夢中で走り抜けた。城のみならず、外から入り込んだ物まで綿毛は呑み込んで溶かしていく。首をなくした死体、棒きれ、鳥の羽根……髪の毛から石ころに至るまで……何もかも。
跳ね橋を渡りきったアスターとラセルタは、クリープとイザベラが追いつくのを待った。
橋の向こう側、彼らの背後には大量の綿毛が迫ってきている。城はほとんど原形を留めていなかった。
──ラセルタの言うとおり、城全体が化け物だったのだ。魔甲虫がこの化け物の意識の分身で、それを倒したために消えようとしている……
それは千切れた穂綿のようにも見えるし、タンポポの綿毛にも、大粒の雪にも見える。
儚い物体はアスターのそばまで飛ばされてきた。
ふわり、地面に舞い降りるやいなや、溶けて消える。アスターは飛んできたもう一つに触れてみた。
刹那、周囲の景色が変わる。
アスターは賑やかな町なかにいた。煉瓦で造られた古びた家々が道路沿いに建つ。行商人の荷車が騒々しい音を立て、通り過ぎて行った。道端には野良猫を追いかける少女、半裸の老人が汗を拭い、痰を吐いている。
幼子の手を引いて歩く頬被りの母親が見えた。母親は道ばたの小さな屋台に気を取られ、立ち止まる。
魚を売る屋台だ。十歳くらいの少年が大声で呼び込みをしていた。
「おばさん! 安くしとくよ!」
歯を見せて笑う少年の髪は青く、耳は尖っている。右目尻にほくろがあり、顔立ちには見覚えがあった。
──あれは……ユゼフだ……
映像は一瞬だけで、アスターはすぐさま現実に引き戻された。白い綿は次から次に飛んでくる。
ふわり……今度はアスターの肩に当たって消えた。
土壁に色の剥げた屋根……アスターがいたのは、粗末な民家の前だった。
夏……なのだろうか。戸は開け放しており、裏に青い髪の少年と少女二人がしゃがみこんでいる。ときおり、家の中をうかがっていた。
横切っても、子供たちは無反応だ。彼らにアスターの姿は見えていない。アスターは遠慮なく家の中に入った。
薄暗い室内には背の高い貴族と従僕、護衛と思われる騎士風の男がいた。貴族の前では、美しい女が涙を流し、平伏している。
──ユゼフの父、エステル・ヴァルタンだ
「悪い話ではあるまい。戦争は長引くかもしれぬ。二人の息子に大事があった時、あの子は必要なのだ。貴族の教育が受けられるし、妻の妹である王妃は美しい少年を好むから、もしかしたら王女か王子のそばに仕えさせられるかもしれない」
「……でも……でも、殿様……あの子には亜人の血が流れています。例え下男であっても、あの見た目ではお城には入れないでしょう?」
「構わぬ。髪は染めさせるし、耳はちょん切ればよかろう」
エステル・ヴァルタンは笑って答えた。
そこで、アスターは跳ね橋のたもとに戻った。
城壁もほとんど消え、綿に埋もれた城は幻のようになっている。クリープとイザベラが跳ね橋を走っていた。
高台に造られた城には、正面にのみ空堀が設えてある。
クリープはイザベラを先に行かせた。彼が一歩踏み出すごとに、すぐうしろの橋桁が消えていく。
足下の堀は、がらんどうだ。子供の作った落とし穴程度の深さだったはずが、今は底の見えない大きな闇が口を開けている。不思議な綿はこの丘陵ごと消し去ろうとしているのかもしれない。
アスターは剣を振り回して、綿を散らした。手伝えることはそれぐらいだ。
イザベラが渡り終えたあと、橋の際部分が消えた。
「早く! 早くしないと橋がなくなってしまうわ!」
クリープがいる所から地面までは、ほんの二キュビット(一メートル)だ。
足場が消えてしまったため、岸まで飛び越えなくてはならない。背中のサチは包帯を脇と膝下に通され、クリープの体に固定されている。
クリープは飛ぼうと腰を少し落とした。やや、ふらついている。相手が女性と変わらぬ体型とはいえ、おぶった状態でこの長距離を走ったのは驚異的なことだ。今さらながら、アスターは目を見張った。
次の瞬間、クリープの足元が消えた。飛んだ直後、バランスを崩し、地面に到達した足がすべりそうになる。
──落ちる!
空を掻いた彼の腕をアスターはつかんだ。
「あ、ありがとうございます」
眼鏡の朴念仁はアスターの目を見ずに礼を言った。
アスターはこの男の卑屈な態度が気に入らなかったが、無言で彼の体に少年を結びつけている包帯を解き……サチを背負った。
アスターに切りつけられて、クリープは大ケガを負っていたはずだ。それにもかかわらず、ほとんど死んでいるサチを背負って逃げた。
助けても得にならない。助けたところで息を吹き返す確率はほとんどゼロである。危険を冒してまで助けるのはなぜか?……疑問が湧くと同時に、危機的状況下で自分だけ逃げようとしていたことが、アスターは恥ずかしくなった。
跳ね橋から離れ、地面を踏みしめると気が緩む。
アスターたちは丘を下り始めた。麓の村では、灰色の煙が何本も立ち上っている。
作戦は決行されたのだろう。村に残されたレーベやジャメルたちの安否が気になる。
──レーベ……生きてろよ
心の中で叫ぶ声が聞こえ、アスターは素の感情を理屈でごまかした。
──あいつらが死ねば、私の判断が間違っていたことになる。今までの経験則を否定されたことになり、生き方を考え直さねばならぬからな?
強がる気持ちに賛同してか……急に強い風が吹き付けてきた。
「伏せて!!」
クリープが叫んだ時はもう遅かった。顔を後ろに向けたとたん、大量の綿毛が押し寄せてくる。
アスターの意識はとんだ。
† † †
産まれたばかりの青い髪の赤ん坊……酒ばかり飲んで働かない父親……病気がちの美しい母親……。
やがて、青い髪の少年は妹を連れて、屋台で魚を売るようになる。
ある時、立派な風体の貴族が粗末な家にやってきて、強引に少年を連れ去っていった。
耳の先を切り落とし、髪を黒くした少年を待っていたのは、厳しすぎる躾と暗闇……
ユゼフが産まれてから成長するまでの過程が、アスターの前で展開されていく。路上で魚を売り、貴族の家へ引き取られ……アスターは少年の半生を体感していた。
──これは、ユゼフの記憶なのだろうか?……いや、誰かがずっとユゼフを俯瞰していた。その記憶だ。おそらくこの化け物が……
答えを出そうとしている間に少年のユゼフは消え、今度は城のバルコニーにアスターは立っていた。
下では大勢の民衆が手を伸ばし、何やら叫んでいる。彼らは一枚布をまとい、肩のところで留めているだけの簡易な服装だ。まるで演劇に出てくる昔の人。三百年前、外海から新国民がやって来る以前の民の姿だ。
歓声を上げ、両手を合わせて拝む者、涙して平伏す者、民衆はアスターを見て歓喜している。
「王様! エゼキエル様!」
彼らの旧語を聞き取ることができた。
──これは……王の記憶か……
ピンときた。すると、アスターの目の前は真っ白になった。
「アスターさん! アスターさん!」
声が聞こえる。自分を頼りなげな腕で支えるラセルタの顔が見えた。アスターは倒れそうになって、しゃがみ込んでいたのだ。
意識が戻るなり、気持ちが悪くなった。
背負っていたサチを地面に置き、草っ原に嘔吐する。膨大な記憶に脳をかき回され、クラクラする。
──見てはいけないものを見てしまった気がする……
記憶だけではなく、ユゼフの感情や心の声も無造作に入り込んできた。化け物とユゼフは無意識下でつながっていたのである。
口を拭いて、なんとかいつもの自分に戻ろうとするが、
「サチ!」
イザベラの声にアスターは飛び上がりそうになった。地面に置いたサチが手を伸ばしている。
──まさか!? 戻ってきたのか!?
サチは目を開け、唇を微かに動かした。上に伸ばした指の先は厚い雲に覆われた空を指している。
突如、雲がぐるぐるトグロを巻き始めた。
動きは徐々に荒々しくなり、渦巻きは大きく広がっていく。渦巻きの中心から少しずつ青空がのぞき始めた。存在を誇示するかのように青空は雲を押しのけ……
とうとう太陽が顔を見せた。魔国では絶対に陽が差さない──誰でも知っている通念が崩れ去る。奇妙な現象が現実なのか確かめようと、アスターは手をかざし、眩しい空を仰ぎ見た。
──いったい、なんなのだ!? 次から次に何が起こってる?
城のあった場所は太陽に照らし出された。陽光に当たった綿毛は、一瞬強くきらめいた後、消滅する。あとには、光を含んだ空気が余韻を残した。
「きれいだ……」
煌めきは一つに集まって立ち上り、雲の穴へ呑み込まれていった。
キラキラがあっという間に消え去れば、穴は塞がれ、空はまた厚い雲に覆われる。城の姿は跡形もなく、丘の頂上部分まで削られた。剥き出しの地面が台形に広がっている。
サチは腕を下ろし、ふたたび瞼を閉じた。アスターはサチの口元に耳を近づけた。
──呼吸してる……息を吹き返したのだ!
手首を触ると弱々しくはあるが、規則正しく脈打っていた。
「おい、起きろ! しっかりしろ!」
アスターはサチの体を揺らしたり、頬を叩いてみたりした。
「ちょっと! 乱暴なことしないでよ! 動かさないほうがいいわ!」
「うむ……? そうなのか?」
ものすごい形相のイザベラに肩をつかまれ、アスターは素直にやめた。
「あっ!」
次に声を上げたのはラセルタだ。
「なんだ!? 今度は何事だ!?」
「……ケガが治ってる」
「!?」
「そこにいるお嬢様に脇腹を蹴られたあと、アバラに違和感があったんですが、今はなんともないです。クリープにやられた両肩の打撲も全然痛くないし……」
クリープが横から口を挟んだ。
「僕もです。斬られた肩の傷が……治っています……背中のも……」
アスターは言葉を失った。
ラセルタの無邪気な声が耳腔を過ぎていく。
「ユゼフ様はやっぱり、エゼキエル王の生まれ変わりなのかも……だって、さっき白いものに触れた時、見えたんです……」
「言うな! 生まれ変わりだろうが違かろうが、ユゼフはユゼフだし、今までもこれからも変わらない」
「でも、転生しようとしているのを阻止してしまったのだとしたら?」
「知るか! エゼキエル王は魔王になったのだ。そんなもの、目覚めさせないほうがいいに決まってる!」
「エゼキエル王は亜人や旧国民の王ですよ」
「魔国に堕ちてからは魔族の王だ」
ラセルタは不満げに唇を尖らせている。
「あんな幻、忘れろ。ほら、凱旋だ」
麓の村から数人、手を振って走ってくるのが見えて、アスターは頬を緩めた。
カットしたディアナ視点↓↓
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