1話 姫様に足蹴にされる
ユゼフは目覚めた。
背中に汗をビッショリかいている。思いっきり叫んでしまった。
まず、網膜を刺激され、クラクラした。悪夢から逃げ出して来た者にとっては、ランタンの光ですら痛い。
ぼんやりした視界が輪郭線を濃くするまで、少時──
ここは暖かなオレンジの光に包まれた天幕である。手の甲を額に当てれば、汗でヌルッとする。キィンと鋭い頭痛に襲われ、ユゼフは短い頭髪を押さえた。
おそるおそる、のぞき込んでくる老人がいる。
王室付学術士グランドマイスター、シーバート。
腰は曲がっていても、脳は衰え知らず。膨大な知識と洞察力は大陸で随一を誇る。隊長の次に権威を有する老人である。この厳めしい老人は、ごくごく身近な者に対しては好々爺となった。
不安をにじませるシーバートを見て、ユゼフは「やってしまった」と思った。汗を拭う手に隆起する血管を感じる。
──ああ、昂っているな
普段はおとなしい仮面を被っていても、本当は頑固で気が強い。いかにも貴族のボンボンといった風体と反し、ユゼフは幼少期を庶民として生活していた。物腰柔らかく、従順なのは貴族社会で生き抜くための術だ。
感情を表に出すことは滅多にない。だから夢の中で、もがいていた様子を見られたのではないかと恥ずかしくなった。
顔が強ばっているのも、よろしくない。唯一、長所として認められる整った顔が彫像のごとくカチコチになっている。しかも、微笑んでごまかそうとしたところ、顔皮が痙攣した。
「だいぶ、うなされておった」
「申しわけございません」
かすれ声でユゼフは答える。
「水を飲んだほうがいい。すごい汗じゃ。服も代えないと。ああ、さっきの声で王女様がお目覚めでないといいのじゃが……」
王女の天幕は隣だ。さっきの叫び声は筒抜けだろう。筒抜けどころか、宿営地中、響き渡ったに違いない。そう思うと、恥ずかしさと情けなさでユゼフは身を縮こまらせた。暗く、悲観的な性格がマイナス思考に拍車をかける。
気にかけてくれる老人の優しさが煩わしかった。年老いた学匠が不遇な自分を憐れんでいる。それだけで、いっそう惨めな気持ちになる。
──優しさなどいらぬのだ
シーバートは安心感を与えようとしたのだろう。ゆったりした所作で、木のマグに水を注いだ。
ユゼフは落ち着かぬ気持ちのまま、ボンヤリそれを眺める。
「まだ、寝ぼけておるな? ここはカワウの土漠※じゃ。我々が王女様の婚約儀式に付き添い、カワウ王国に滞在中……」
「国境に時間の壁が現れた……」
「そうじゃ。通ろうとすれば、別の時へ飛ばされてしまう。立ち往生するところ、おまえの従兄弟が文を持って来てくれた。壁を抜けられる場所が隣のモズ共和国にあると……」
「ああ……そうでした。それで我々は兄上の指揮のもと、土漠を横断してモズへ……」
「そのとおりじゃ。ようやく正気に戻ったか?」
現実に戻ったことを認識し、ユゼフの全身は弛緩した。安堵のしるしにホッと息を吐き、渡されたマグに口をつける。
……ん、……ん……
水が口腔を通り、咽頭を下っていく。生々しい躍動が音となって落ちていく。水を二口飲んでから、ユゼフはハッと気づき、折りたたみ式のスツールにマグを置いた。
「こ、この水はどこから?」
「ああ、気にせんでもええよ。この爺が隠し持ってたやつじゃ。全部王女様に飲まれたんじゃ、堪らんからなぁ」
老人は大きく口を開け、朗らかに笑った。歯はない。
「い、いただくわけには、まいりません」
「遠慮はいらんよ。おまえさんに倒れられたら、かなわん。それに、モズまではあと百六十スタディオン(三十キロメートル)ほどじゃ。馬で行けば、明日の昼までには着くじゃろうて」
「で、でも…」
「皆、水や食料は隠し持っておる。馬鹿正直なのは、おまえさんぐらいじゃよ」
老人は有無を言わせず、水の入ったマグをユゼフの手に押し付けた。
「いえ、もう二口いただきましたから、これ以上はいただけません」
ユゼフはきっぱり断り、立ち上がった。
足元がふらついている。この二日間、何も口にしていないのだから当然だ。
土漠を横断中、野盗に水と食料の入った荷馬車を奪われていた。皆、自分の分だけ確保し、人のことまで考えない。何もかも主に差し出してしまうのは、ユゼフぐらいのものだ。
「大丈夫です、シーバート様。二、三日飲まず食わずでも人間は死にません。私は大丈夫。その水は他の方に分けてください」
ユゼフは低い声を出した。
絶対に従わないという強い意思表示。これが頑固なところ。融通の利かない性格が災難を呼び込むことぐらい、自分でもわかってはいた。
シーバートは頭を振り、勧めるのをやめた。
その時、気配を感じた。
天幕の真ん前、すぐそこだ。興奮した獣のごとき荒々しさを感じる。気配だけなら、戦士とか格闘家である。
帆布がまくり上げられ、冷たい風が吹き込んできた。春の花と若い女の体から発せられる瑞々しい香りが流れ込む。
入ってきたのは、荒々しい気配からは想像もつかない美しい娘たちだった。年齢的には二人とも淑女なのだが、淑女と言うには幼く、体つきには童女の名残がある。
ユゼフと老人は、ひざまずかなくては、ならなかった。
前に立っていたのはユゼフの主、国の第一王女。ディアナ・ガーデンブルグである。
「楽にしてよい」
まばゆい金髪を触りながらディアナは言った。次に口を開いたのは、隣で控えていた栗色の髪の娘だ。
「ディアナ様はお眠りになれないのです。先ほども獣の鳴き声が聞こえて、とても恐ろしくて…」
ディアナのそばにいつも控えているこの娘は、ミリヤという。気弱なミリヤは目に涙を浮かべ、唇を震わせた。王女は哀れな侍女を小突く。
「誰も怖がってなんかいなくってよ? ただ、私は異常な物音がしたので、危険は回避すべきだと思ったの」
ユゼフと老人は顔を見合わせた。
「ユゼフ、おまえの兄はこの隊の責任者でしょう? 今すぐに兄の天幕へ行き、出発するようにと伝えなさい」
ユゼフが言葉に詰まっていると、シーバートが答えた。
「獣の鳴き声など我々には聞こえませんでしたが?」
「いいえ。はっきりと聞こえましたわ。地の底から這い上がってきたかのような……猛獣の声が聞こえました」
ディアナの代わりに答えるミリヤは弱弱しい齧歯類を思わせる。見た目は可愛らしいものの、鈍重で知能が低いのかもしれなかった。物覚えが悪く、何をするにも時間がかかるため、よくディアナを苛立たせていた。
「獣ではないわ。おまえは本当に愚かね」
ディアナは侮蔑の表情でミリヤを一瞥し、
「この世のものとは思えない……魔の国から逃げてきた魔獣の声だったわ」
はっきりと言い切った。
ユゼフは下を向いたまま、地面に敷かれたラグをジッと見つめるしかなかった。先ほどの雄叫びが、自分の発したものだとは言えない。
──天幕を畳んですぐに出発しろと、兄に伝える? しかも、こんな深夜に?……いくら王女の命とはいえ……
王女護衛隊の隊長、ダニエル・ヴァルタンはユゼフの腹違いの兄だ。
絵に描いたような軍人で、筋骨隆々とした肉体と鋼の精神を持つ。国の英雄である。ユゼフとの共通点は身長が高いことだけだろう。豪放な兄が王女という肩書きぐらいで、わがままに耳を貸すとは思えなかった。くだらないことで起こしたら、怒られるのはユゼフだ。
どうやら、腹を決めるしかなさそうだった。
「王女様、あれは野獣の声ではありません」
どもるため、ユゼフはゆっくりと話した。
「おまえの意見など聞いてないわ。おまえは私の言うとおりにすればいいのよ? 私の従者なのだから」
「いいえ。ちがうのです。あれは野獣の声ではありません。私が寝ぼけて出した声なのです!」
──言ってしまった!
ユゼフの告白を隣で聞いていたシーバートは、額に手を当て溜め息をついた。
「なんですって!?」
ディアナの声が甲高くなった。下を向いていたってわかる。彼女は今にも沸騰寸前だ。
乱暴にラグを踏みつける音が聞こえてきた。にわかに生暖かい息を感じ、顔を上げると美しい顔がある。それを堪能する間もなく、視界が暗くなった。腰にズンと痛みが走り、ユゼフは地面に突っ伏した。
こともあろうか、ひざまずいているユゼフをディアナは蹴り飛ばしたのである。
「おやめください!」
倒れたユゼフを踏みつけようとするまえに、シーバートが止めた。
「殿下、それ以上は王女として恥ずべき行為ですぞ?」
「シーバート様、ディアナ様は予定外の長旅にお疲れなのです。どうかご勘弁ください……」
ディアナはシーバートにまで、つかみかからんとする勢いだったが、ミリヤが泣きながら老人の前にひれ伏したことで少し落ち着いた。学匠の重鎮であるシーバートを暴行すれば、大陸中に悪評が広まるだろう。心優しい侍女が高飛車な王女の代わりに謝ったのだった。
「不快だわ!」
忌々しげに叫び、ディアナは背を向けようとした。
くるり、眼球を動かしたことでスツールが彼女の視界に入る。置いてあったマグに気づいてしまったようだ。
こういった場合、ディアナは感情をぶつけることしかしない。どういう結果を招くまでは考えもしないのだ。
ディアナはマグを手に取り、ユゼフへ投げつけた。
結果、木製のマグは重力に抗おうと一回転し、ぶつかった衝撃により、キラキラとしぶき上げた。つまり、ユゼフの顔に当たって貴重な水をぶちまけ、地に落ちた。びしょ濡れだ。
「水でもかぶって、しっかり目を覚ましなさい。おまえは寝ずに私の天幕を見張るのよ!」
怒鳴りつけ、ディアナは背を向けた。
ユゼフは特に羞恥を覚えたり、傷ついたり、悔しがったりもしなかった。こんなことは年がら年中あるのだ。もっと辛いことだって……
※土漠……土の砂漠。荒野。




