87.エトワール殺人事件
カルスタン・バレエ団の、午後の部が始まった。
演目はトランレーヌに伝わる古い神話だ。ジョゼは目を凝らしてアナイスの動きを追う。
アナイスは準主役級の役どころで、アンジェリーヌの姉である恋敵の役だった。男神をめぐって女神の姉妹が争う場面から演目は始まった。
アンジェリーヌ扮する水の女神とアナイス扮する炎の女神が踊り狂いながら舞台を駆けまわり、妖精役の少女たち三名がその間をユーモラスに逃げ惑う。会場からは、そのコミカルな動きに笑いが漏れた。
そこに男性ダンサー扮する男神が登場し、水の女神を助ける──
はずだった。
ドサッ。
奇妙な音がして、アンジェリーヌが転んでしまった。それと同時に、舞台上の踊り子たちが動きを止める。演出であろうと考えた観客はしばしその奇妙な間を受け入れたが、オーケストラは鳴り響いているのに一向に次の展開が始まらない。
異変に気づいたアナイスが踊りをやめてアンジェリーヌを助け起こすが、ぐったりとして動かない。観客席はざわついた。
そして次の瞬間──
「誰か!誰か医者を……!」
舞台袖から演出家が駆け出して来て叫んだ。同時に音楽も止まる。観客席から、ひとりの紳士が立ち上がり、舞台上に上がった。どうやら彼は医者で、アンジェリーヌの脈を取っているようだ。観客席は騒然となった。
アナイスは何やらぽかんと口を開けて佇んでいたが、紳士に何か告げられると、ぺたりとその場にへたり込んだ。そのただならぬ様子を見て、客席からジョゼも立ち上がる。
カルスタン男爵が舞台袖で叫んだ。
「警察を呼べ!今すぐ!!」
ジョゼは裏手から舞台上に出て行く。同じように、バレリーナの保護者達も裏手から舞台へと駆け出していた。
「アナイス、何が起こったの?」
へたり込んでいるアナイスに問うと、彼女は震える声で言った。
「アンジェリーヌが……死んだ」
ジョゼがアンジェリーヌを覗き込むと、なんと既にこと切れている。
ジョゼは死してもなお美しいアンジェリーヌをじっと眺めた。
先程まで彼女に夢中だった観客たちは、パニックになって劇場から出ようとしている。ジョゼは観客たちを呆れた目で見送った。
舞台上で、バレリーナたちが泣き出した。ジョゼはその三人を見つめながら、アナイスに耳打ちする。
「アナイスは大丈夫だった?」
「……えっ?」
「どこか痛くない?発疹とかは出てない?」
アナイスは慌てて体中を確認してから、絶望の表情でジョゼに尋ねた。
「!まさか……これって殺人事件?」
ジョゼは「多分ね」と言って頷く。アナイスは絶望するように、両手で顔を覆った。
王立劇場は王都の一等地にある。警察はすぐにやって来るだろう。
華やかな劇場に、警察の捜査員たちが入って行く。
「まーたお前か」
ジョゼを見るなり、刑事ベルナールがあいさつ代わりとばかりにそう言った。彼女はフンと鼻を鳴らすと、舞台に残されたベルト、コラリー、ドゥニーズ、そしてアナイスに視線を送る。
「舞台上に立っていたのは、この四人よ」
四人の踊り子たちは気まずそうに黙っている。
舞台上に寝かされているアンジェリーヌを、捜査員たちが調べて行く。彼女にはところどころ猫に引っかかれた箇所があったが、それ以外に目立った外傷はなかった。
更に、彼らはダンサーたちの身体検査を行った。彼女たちの体を調べ上げたが、特に武器も持っておらず、毒を所有した形跡もなかった。
ベルナールが言う。
「さては、アンジェリーヌは演技の前に毒を盛られたか……?」
アナイスが言う。
「今日は賄いが出たから、私たちは全員昼に同じものを食べたわ。だから、あなたの言葉通りであると仮定すると、アンジェリーヌの皿だけに毒が盛られたってことになるけど……今日はお客さんが沢山いて、常にアンジェリーヌを取り囲んでいたのよ。だからもし彼女が毒を盛られて死んだとしたら、その瞬間の目撃者が劇場内にいないというのは、ちょっと不自然よね?」
確かに──今日舞台裏は、アンジェリーヌ見たさの貴族男性でごった返していたのだ。
その中で器に毒を盛るのは至難の業だ。
ジョゼは考えた。
「ならば、殺害現場は舞台上かしら……?」
アナイスとベルナールがぎょっとしてジョゼを見やる。アナイスが叫んだ。
「ちょっとジョゼ!私を容疑者扱いする気!?」
「うん」
「!!えー!そんなぁ……!」
ジョゼはからかうように肩をすくめると、ベルナールに囁いた。
「アンジェリーヌは、猫が好きなの」
彼はしばしその情報を咀嚼して、はっと気がついた。
「まさか……。そうか。猫の爪に毒を塗れば、猫好きのアンジェリーヌを殺せる……!」
ジョゼはそれを聞くや、大きなため息を吐いた。
「何を言ってるの……?引っ掻き癖のあるシェリーの爪に毒なんか塗ったら、アンジェリーヌどころかその他のダンサーも死んじゃうじゃないの」
「……えっ!?」
「もうっ、いつまでヘッポコ刑事やってるのよ。いい?あの状況で毒を飲ませるのは困難よ。それから、外傷は猫の爪痕のみ。そこをもっと掘り下げなさい」
ベルナールは目をすがめた。
「まーた推理をもったいぶって……」
「文句があるの?私、あなたを教育してさしあげてるのよ、無料で。そんなことばかり言ってたら、今度から推理を有料にするからねっ」
「ふん……」
ベルナールは気を取り直すと、四人のバレリーナを見つめた。
アナイスはしきりに捜査員から縛り上げられたコルセットを緩めている。
ベルトはしきりにトゥシューズを気にしている。
コラリーはしきりにシニョンをまとめる櫛を気にしている。
ドゥニーズはずっと指輪をいじっている。
悩めるベルナールは、証言を取ったメモをめくりながら汗をかいている──
ジョゼは言った。
「誰が犯人か判別するいい方法があるの。……聞きたい?刑事さん」




