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第八章.エトワール殺人事件

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86.三人のバレリーナ

 舞台裏にある控室では、エトワールを含むバレリーナたちが集まって、次の舞台までの稽古を始めた。


 バイオリニストの老人が部屋の片隅でひとり、舞台の曲をひたすらに演奏している。そんな彼の前で踊っている熱心な踊り子もいれば、音楽とは関係なくマッサージやストレッチをしている踊り子もいた。


 そして、踊る少女たちをねっとりとした視線で品定めする男たち──


 その視線を見越したように、踊り子たちは際どい踊りを彼らに披露し誘って見せていた。


(何あれ。芸なのに、芸がないわね)


 余りに遊びのない動物的なやり取りに不快感を覚え、ジョゼはそこから目を逸らす。


 そんな地獄の反対側に、燦然と輝くアンジェリーヌはいた。


 彼女は余裕の表情で、練習することもなく群がる男たちと歓談していた。話題は流行りの画家、貴族の盛衰、政治など多岐にわたる。その洗練されたやり取りを聞きながら、ジョゼはアンジェリーヌのもうひとつの才能に舌を巻く。


(教養に加え、類稀なる記憶力がおありなのね。やっぱり頂点を極める女は違うわ)


 エトワールの気高さでようやく気を取り直し、ジョゼは主催のカルスタン男爵を見つけて挨拶をした。


「カルスタン男爵、うちのアナイスがいつもお世話になっております」

「おお、ジョゼ。久しぶりじゃないか。今ならまだ君も踊り子になれるけど、どうする?」

「ふふ、遠慮しておきます。私、踊りは不得意なんです」


 カルスタン男爵は背の低い黒ひげの男で、常に愛嬌のある笑顔を浮かべている。彼はバレエ団主催者でもあり、バレエ教室も経営していた。


「まあいい。この通り、うちのバレエ団は盛況だ。でもね、盛況が過ぎて……君に相談したいことがあるんだ」

「あら、何かしら」

「ちょっと、来てくれるかな」


 ジョゼは、保護者付きのバレリーナ三名と対面した。


「紹介しよう。左から、ベルト、コラリー、ドゥニーズだ」


 バレリーナたちは並んでジョゼにお辞儀した。皆、ジョゼと同じ年頃のようだ。


 ベルトはしきりにトゥシューズを気にしている。


「そろそろこのシューズも買い替え時かしら……」


 ベルトの母が取りなす。


「うちはお金がないんだから、完全に壊れるまでそれを履いてなさい!」


 コラリーはシニョンに刺さっている櫛を母に触られるのを嫌がっている。


 コラリーの母が言った。


「もっと素敵な髪形にしましょうよ。もっと貴族にアピールしないと……」

「もう、子ども扱いしないで……!放っておいてよ」


 ドゥニーズはずっと指輪をいじっている。


 ドゥニーズの母は言った。


「その指輪、誰から貰ったの?言いなさいよ」

「料理人のアシュトンから貰ったの」

「そんな貧乏人とは早く別れなさい!」


 ジョゼは引きつった笑いを見せると、


「……みなさん、素敵なお嬢様ね」


とその場しのぎのおべっかを言う。すると気をよくしたのか、急にカルスタン男爵がこんなことを耳打ちした。


「実は、彼女たちを、娼館リロンデルで引き取ってもらえないかと思ってね。〝バレエだけでは生活できない〟と、保護者達に泣きつかれたのだ」


 それを聞くや、ジョゼはサッと笑顔を消した。


「それは出来かねます……!うちは三人のスターで回せているのでこれ以上は入れません」

「そこを何とか……」

「それに──」


 ジョゼはひたすら男たちに色目を使い続けている踊り子たちに目をやった。


「踊りの練習も熱心に出来ない子が、他者の歓心を買えるとお思いですか?魅力的に振る舞うには知識と行動力が必要なのです。ただ体を開いて待っているような女は、どこに行ったってお荷物にしかなりません」

「ふーん、そうなのか?」

「男性は、女の何に惹かれているかすら分かっていない生き物なのですね。実は稼ぐ嬢というのは、何らかの抜きん出た芸やテクニックを持っています。それらは全て努力し、後天的に会得したものです。若い女であるというだけで魅力があるとは言えません……皆、女になる努力をして、稼ぐ女になるのです。あのエトワールのように──」


 ジョゼとカルスタン男爵は同時にアンジェリーヌの方を見やった。


 すると、チリンチリンと耳慣れない音がやって来る。


 ふわふわの白い毛をした、でっぷりと太った猫が老バイオリニストの足元から這い出て来たのだ。


「……あら。こんなところに、猫?」


 ジョゼが声を上げるのを一瞥し、ずんぐりした白猫は、しっぽをフリフリとアンジェリーヌの方へ歩いて行く。


 アンジェリーヌがそれを見つけて声を上げた。


「シェリー!こっちにおいで」


 猫は小走りにアンジェリーヌの足元へ潜り込んだ。アンジェリーヌは猫を抱き上げる。


 興奮したシェリーは爪を立てている。アンジェリーヌの白い肌に赤い引っかき傷がついたが、猫好きらしい彼女はお構いなしに白猫の後頭部をくんくんと嗅いだ。


「今日も可愛いね、シェリー!」


 ジョゼはそれを見て言う。


「アンジェリーヌは、猫がお好きなんですね」


 カルスタン男爵が答えた。


「ああ。彼女は人間嫌いなところがあるんだが、動物は好きらしくてね。あの白猫は、うちに預けられた時から飼っているようだよ」


 ジョゼはクールなエトワールの意外な一面を見て笑顔になる。


 猫のシェリーはアンジェリーヌの膝から飛び降りると、とことことバレリーナの集団に入って行った。シェリーは皆に抱き上げられ、ご満悦のようである。


 いつの間にかアナイスが横に来ていて、ジョゼに言った。


「愛嬌のある猫でしょう?どうやらあの子、ギスギスした女社会の癒し役を買って出てるようなのよ」


 ジョゼは頷いて見せた。


「でも、引っ掻き癖があるのね」

「すぐ興奮する猫みたいなの。私もさっき引っかかれたわ」


 そう言ってアナイスは傷を見せる。ジョゼは顔をしかめた。


「わ、本当。私はあの猫に近づかないようにしようっと」

「ところでジョゼ。私の役は午後の公演の方が活躍するから、絶対観に来てね!」

「もちろんよ」


 アナイスはくるくると切れのあるターンをしながら、練習生の中に入って行く。途端に、どっと笑いが起きた。彼女はこのバレエ団の中でも古参で、うら若き練習生の世話役を買っているらしい。


 その光景を見て、ジョゼは呟いた。


「アナイスこそ、シェリーに負けず癒し役なのよ?」


 ふと奇妙な視線を感じて振り返ると、バレリーナたちの保護者が顔を合わせながらひそひそと座談会を始めていた。


「アンジェリーヌったら、男を独り占めにして……」

「この前も、うちの娘が狙ってた伯爵を盗ったのよ」

「金に汚い女なのよ……嫌ねぇ」


 ジョゼは耳をそばだてながら、


(実力のない奴が何を言っても、負け犬の遠吠えよ)


と心の中で呟いた。

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ブレイブ文庫様より
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[一言] SNSでよく見掛ける光景( ˘ω˘ )
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