84.どうしても欲しいもの
ジョゼが急いで娼館の裏手から出ると、月明かりに照らされてセルジュがひっそりと佇んでいた。
「……セルジュ」
ジョゼが背後から囁くと、彼は少し余裕がなさそうに振り返る。
「ジョゼ」
「どうしたの?悪いけど、今日は貸し切りだから入れてあげられないのよ」
セルジュは微笑むと首を横に振った。
「別に、いいんだ。ちょっとジョゼの顔を見たくなっただけ」
アナイスの言う通りだった。ジョゼは暗闇の中、頬を赤くした。
「そう……最近、忙しいの?」
「ああ。ドニ一区の再開発計画があってね。これから、地主との食事会なんだ」
「そうなの……」
「通り道だから、寄ってみた。それでさ、今度は……」
「なあに?また推理の依頼?」
「ううん。そろそろ夏の休暇があるから、二人でどこかへ行きたいと思って」
ジョゼは目を丸くした。
「……いいの?」
「君のためにかならず予定を空けておくよ」
「でも、あなたのお父様が何て言うか……」
「父からは〝お前はあの娘と自由にやるがいい〟という言質を得た。心配はいらない」
ジョゼは嬉しくなったが、同時に妙な不安を覚えた。
「えっ!?あの頑固なお父様が……?」
「ああ。だが、〝婚姻関係を結ばずに〟という条件を付けて来た」
「ふーん……」
「私は君が望むことをやってあげたい。だから、父の言うことは気にしないで欲しい。休暇中に会えれば、ジョゼがどんな未来を望んでいるのか、二人で話し合いたいと思ってる」
ジョゼは新しい予定が出来る予感にわくわくした。最近はフルニエ城と娼館の往復ばかりで、旅行や観光から遠ざかっていたのだ。
「そうね、セルジュともゆっくりしてみたいし」
「二人とも、忙しすぎるからな」
「海がいいかな……山がいいかな……」
御者が主人を呼ぶ声がする。
「あっ、しまった……時間だ」
「またねセルジュ」
すると、彼は手を振るジョゼのその手を握り返した。呆気に取られる彼女を、セルジュは正面から抱きすくめる。
「……セルジュ」
「ジョゼ……ごめん、ずっと忙しくて」
ジョゼは彼の首筋のあたりで大きく息を吸い込むと、その背中をぽんぽんと叩いた。
「……お互い様よ」
口では強がって見せたが、久方ぶりに彼の体温を感じてジョゼは目を潤ませる。
「また来るよ」
「……待ってる」
去って行くセルジュの後ろ姿を見送ると、ジョゼの胸はきゅうっと締め付けられた。
豊かな生活、裏社交界での名誉、参政権。
そのほかに、どうしても欲しいものが出来てしまった。
好きな人との日常。
もし、後者への比重が大きくなってしまったら──今までの努力が全て泡になってしまう気がする。
(浮かれ過ぎないようにしなきゃ)
ジョゼは少女らしくなることに怯えていた。誰かに頼り、完全に心を許せば、全ての努力が無に帰すように思えてならなかった。
(私はセルジュの妻にはなれないんだから)
そう言い聞かせて、自分の中から湧き上がる光を押さえ込もうと試みる──
ジョゼは娼館へ戻った。
そこでは乱痴気騒ぎが繰り広げられている。美しい女、輝かしい内装、豊かな食事、飛び交う金。何かカード賭博のようなことをしているらしく、豪奢なカーペットの床にはアクセサリーや金銭が散乱していた。
かつては血眼で拾い集めていたそれも、今となってはどこか虚しい。
酒瓶を片手に酔ったミシェルがやって来た。
「どうしたジョゼ?シケた顔しちゃってさぁ。もっと楽しもうよ」
ジョゼは、よほどつまらない顔をしていたとみえる。
「ふふっ、ごめんねミシェル」
「さては……彼氏としばらく会えないからってセンチメンタルになってるな?」
ジョゼはどきりとした。
それを目の当たりにしてミシェルはちょっと片眉を上げると、
「ちょっとこっち来な」
と娼館の主の首根っこを掴むや、ホールの隅っこに移動させた。
ジョゼが何を言われるのだろうと怯えていると、ミシェルがワインの香しい息で囁く。
「その時間……人生で滅多にないから、大切にしなよ」
呆気に取られているジョゼの頬に吸い付くようなキスをすると、ミシェルはまた千鳥足でシャンデリアの輝く真下へと戻って行った。
そして歌い出す。
「〝あの頃〟はもう二度と来ない~恋はほんの一瞬~手の中に残せないなら~味わうしかない~」
流行の曲だ。歌姫が〝味わうしかない〟という歌詞と共に酒をあおって、現場は大いに盛り上がる。
「恋はワインに出来ない~小鳥よ羽ばたきついばめ~果実は今まさに食べ頃~」
愉快な酒焼けの声に、ジョゼはなぜか勇気を貰った。
「そっか……食べられる内に食べちゃわなきゃね」
確かに〝好きな人〟など、この人生で何人出来るかも分からないのだ。この滅多にない食べ頃の時間、存分に味わっておくのも悪くない。
「……難しく考えすぎないようにしようっと」
先のことを考えれば考えるほど、不安は尽きないけれど。
ジョゼはそこにあるまだ掴めない光を、今はただうっとり眺めていたいと思うのだった。
第七章完結です。ここまでお付き合い頂きありがとうございました!




