38.作家志望のブリス
ジョゼたちは四番街を離れ、娼館に戻って来た。
リゼットはやって来るなりぐったりとソファに沈み込んだ。ブライアンは黒服を呼び、早速ドリンクの注文をする。
ジョゼは心配そうにリゼットを覗き込んだ。
「どうしたの?元気ないじゃない」
リゼットは弱々しく微笑むと、
「さっきブライアンさんとも話していたんだけど……未発表原稿が燃えたって、とても悲しいことね」
と言う。どういうことか分からずジョゼが首を傾げていると、
「原稿は作家の人生、生命そのものですからね」
とブライアンが補足した。
「だから、ちょっと今回の件は、殺人というより……作品の死に立ち会ったような衝撃があります。フロラン先生にしか書けない話があった。それがもう二度と読めないのは残念です」
隣でメリアスがうんうんと頷いている。ジョゼは物書きたちの反応に驚きつつも、紙という媒体の脆弱性に思いを馳せた。
「確かに、原稿は紙ですものね……火をつけずとも、いつかは朽ちてしまう」
「作家としては、作品が発表前に燃えるのは命を奪われるより辛いことかもしれないわ。だって体はいつか死んでなくなるけど、作品は上手く行けば誰かの心に残るもの。そのはずだったものが、誰にも見られないで死んで行くのは、フロランも本当に辛かっただろうと思う」
「……」
「そういえば最近、フロラン先生は出版まで漕ぎつけていなかったのね。どうしたのかしら」
ジョゼは口をつぐんだ。彼が情報屋をして日銭を稼いでいたことを、メリアスは知らないのだろう。
ブライアンもじっと口を閉じている。彼も思うところがあるようだ。
それぞれに複雑な思いを抱いてしんみりと飲み始めた、その時だった。
思いがけない人物が娼館の戸を叩いた。
戸はすぐに開き、そこから顔を覗かせたのは──セルジュである。
「……あら。ついにセルジュも娼館を利用するようになったの?」
ジョゼが冷たくそう言って立ち上がると、セルジュは重い扉を腕で押し開けながら、困惑の表情でこう告げた。
「違う!客として来たわけではないんだ。……えーっと、今日、四番街の火事があっただろう?」
「ええ」
「あの火事は事故ではないと言い張る党員が、うちに押しかけて来て困ってるんだ」
「え!?」
「ほら、入れ」
四人に動揺が広がる。セルジュに招き入れられて入って来たのは、おどおどした背の低い青年だった。
「……まさか、あなたが火を?」
ジョゼが問うと、青年は青ざめた顔で首を横に振った。
「私が火をつけたわけではありません!野次馬に混じって話を聞いておりましたら、例の火事はフロラン先生の寝煙草が原因、と聞いたので馳せ参じました。ちょっとこういう重要な話は党を通した方がいいかと思いまして」
「……?」
「実は……フロラン先生は煙草を吸わないのです」
ジョゼはじっと考える。となると、今までの推理を考え直さなければならない。
こういう新証言がもたらされた時は、真相に近づいている証左だ。彼女は気を取り直して尋ねた。
「……お兄さん、お名前は?」
「ああっ、申し遅れましてすみません。私はブリス。銀行員で急進党員ですが、作家志望でもあります」
それを聞くや、そこにいる全員が更に深く眉間に皺を刻んだ。
「作家志望……」
「はい!そういうわけで私、フロラン先生には大変お世話になっておりまして」
「……」
「小説の書き方はもちろん、受賞のコツ、作家との付き合い方や、編集者とのコネ作りのアドバイス、出版社の裏情報など様々ご指導いただきました。その甲斐あってか、私は先日地方文学賞に入選したのです。その祝いの席で、彼から高級な煙草を数本もらいました。その吸い殻がこれです。何でも、これは貴族主催の文学サロンで配られたものだそうですね?」
青年は証拠とばかりに使用済み煙草の入った空き缶を突き出した。
「何でフロランは吸えもしない煙草を取っておいたのかしら?」
「来客用に取っておいたんじゃないでしょうか。あの日も〝いらないから、来てくれた奴には何本でもやる〟とおっしゃってましたし……」
そう言うと、ブリスは何を思い出したのか、泣き出してしまった。ジョゼは呆然とそれを眺めながら、先程ブライアンが口にした言葉を反芻する。
〝ここだけの話ですが、犯人の心当たりが多過ぎて警察も候補を絞り切れないと思いますよ〟
そうなのだ。フロランは情報屋をしていたせいで、交友関係が妙に広くなってしまっている。ブリスは彼に感謝しているようだが、中には「エセ情報を掴まされた」などと逆上する作家志望者もいたかもしれない。ブリスの話を聞くに、裏情報だけではなく、物品のやりとりも頻繁にあったのだろう。
(これは……面倒な事件だわ)
ジョゼが頭痛を我慢するように額を押さえていると、セルジュが言った。
「四番街は私の選挙区にも被っているので、色々な情報がもたらされている。ブリス。確か先週、フロランの指に異変があったんだよな?」
「あっ、そうでした!」
ジョゼは思い当たる節があって顔を上げた。
「先週のことなのですが、フロラン先生の指先が腫れていたんです。何かにかぶれたようになっていて〝ペンが握れない〟と困っていました」
皮膚のかぶれ。
ジョゼの中で、点が線になって繋がって行く。
「そう。……それ、何でかぶれていたか分かる?」
「それがフロラン先生も分からないようだったんです。でも、私は怪しいと睨んでいるものがありまして」
ブリスはリゼットの持っている網代編の箱を指さした。
「あれですよ。文学サロンで貰ったとかいう、あの煙草の箱です」
リゼットは驚いて箱を取り落とした。彼女は恐る恐る自身の指を眺めたが、
「うそおっしゃい。私はかれこれ一週間ほどこれを開け閉めしているけど、かぶれたことなんか一度もないわよ」
と言う。
ジョゼは赤い絨毯に落ちた箱を眺め、ひとつの可能性に行き着いた。
「なるほど。この箱が、彼を殺したのね……」
そして、もうひとつ謎が浮かび上がって来る。
「そして、近隣住民が夜に彼の家の窓辺で何度も見かけた〝光〟は──」
煙草の火ではない。
ジョゼは考え込んだ。彼女の経験の中から〝光るもの〟の候補が、脳内に浮かんでは消えて行く。
「ブリスさん、ちょっと警察に付き合ってくれる?この事件を解決するには、あなたの証言が必要なの」
ブリスは頷いた。更にジョゼは、リゼットに振り返るとこう告げた。
「次の文学サロン、私も例の同人誌に名を連ねようかしら」
リゼットは「ハァ?」と言うが、ジョゼの瞳の中をじっと見て、彼女は何かに気づいたようだった。
「あっ。謎が解けたって顔してる!まさかあんた四番街の火事をベースに、推理小説を書くつもりじゃ……」
ジョゼは〝御名答〟とばかりに微笑んで見せた。




