18.ミシェルの忘れ物
「ねえ、起きて。起きてよジョゼ!」
はっとジョゼは目を覚ます。
娼館の事務室で、ジョゼはデスクに突っ伏し眠っていた。
彼女の肩を揺さぶっていたのは、娼婦のミシェルである。
今日はいつものしどけない娼婦の衣装ではなく、女性らしいシンプルな黄金色のロングドレスを着ている。
「あ……夢……?」
「ここは現実だよ!私、ちょっとオーブリー男爵の奥様のお茶会に招待されているの。初めてのことだから、さっき高い手土産を張り切って買っちゃって……今手持ちがないから、ジョゼのアクセサリーを貸してよ」
ジョゼは引き出しからマラカイトをふんだんに散りばめた豪奢なネックレスを取り出した。
「今貸せるのは、これしかないわ」
「サンキュー!早く行かないと、間に合わない!」
ジョゼはその背中を見送った。
「あのシンプルなドレスなら、アクセサリーを豪華にするっていう一択なのよねぇ」
ジョゼは娼婦たちのブランディングも手掛けている。彼女たちがおかしな衣装や趣味を持って顧客の興を削いだり、熱を一瞬で覚まさせぬよう、常に心を砕いているのである。
ジョゼは溜まっていた帳簿を付け始めた。
しばらくすると、そろりそろりと背の高いアナイスがやって来る。
手には、大きなクッキー缶を持っている。今デパートで人気のガレットが入っている、有名な紅い缶だ。
「あら、それはバレーヌ社のガレット」
ジョゼが声をかけると、アナイスはその缶を軽く掲げた。
「食べていい?」
ジョゼは首を傾げた。
「?それ、私買ってないわよ?」
「うそ!私、てっきりジョゼが買って来たものだと……」
しばし沈黙がおとずれ、ふとジョゼは気がついた。
「まさかこれ、ミシェルが持って行くはずだった手土産……!?」
「そういえば、あの子そんなことを言ってたわね……」
ジョゼは呆れたように額をボリボリと掻いた。
「……男爵家のお茶会に持って行く手土産を忘れたのね」
「持って行ってあげたら?今行けば間に合うわよ」
常識のない娼婦だから何も持って来なかったのだと陰で笑われ、恥をかくのも可哀想だ。
「そうね。あそこは近いから、行ってすぐに帰って来られる。ちょっと渡して来るわね。アナイス、留守をお願い」
ジョゼは近隣の宿から馬を借りると、オーブリー男爵邸までの道のりを走り出した。
一方その頃。
お茶会に乗り込んだミシェルは、その現場を見て青ざめていた。
招待されたのは、自分以外高級娼婦と貴族であった。ミシェルのような場末の娼婦など、お呼びではない。
オーブリー男爵は最近始めた事業が乗りに乗っており、爵位に似合わぬ財を成していた。その妻バルバラは貴族の出だが少し変わっている女性で、そんな夫の女性関係を隈なく把握しようとするのである。自分の目の届かない場所で夫の色恋による面倒事が起きないようにするための、彼女なりの防衛策なのだろう。彼女は定期的にお茶会を開いては、夫の浮気相手をもてなしていた。
今回ミシェルは初めてこのお茶会に呼ばれた。招待客は五名。もてなすのは、白いドレスを着たバルバラである。招待客は手土産を持参するのが慣例で、それをバルバラが取り仕切ってテーブルにセッティングする。無論、バルバラもお茶会のための準備は完璧にしている。だが、妾たちは自分の趣味の素晴らしさを本妻のバルバラに当てつけるため、必ずここに手土産を持参していたのであった。
ミシェルは恐る恐る女たちを観察する。ここにいる女たちは、デパートなどでは買えないオートクチュールを着、最高級のアクセサリーをまとい、手土産も独自に作らせるという、この世の贅を凝縮させた猛者ばかりだった。
赤いドレスを着た高級娼婦のベレニスは、豪華な花々をあしらったアイシングクッキーを持って来て、侍女に皿に空けさせている。
ピンクのフリルドレスを着た貴族の娘カサンドルは、海外から買い付けて来た紅茶缶をいくつも並べている。
緑のクラシックなドレスを着た高級娼婦のクローデットは、輸入品の高級磁器のティーカップを開け広げてバルバラに見せている。
青いドレスを着た商家の娘デボラは沢山の花を買い付け、執事に飾り付けさせていた。
そして、ゴールドのドレスを着た娼婦ミシェルは──
「やべっ、どーしよー!」
ミシェルは気後れした。持って来たのは、デパートで買ったガレット缶ひとつである。こんなもの、出したところで笑われるのがオチだ。
「でも、何も持って来ないよりは……」
ミシェルはそこで、はたと気がついた。
何と、例の缶を娼館に忘れて来てしまったのである。
(どどどど、どーしよー!)
ミシェルはパニックに陥った。しかし、気づいた時にはもう遅い。
「あら、ミシェル様は何も持っていらっしゃらなかったの?」
その慌てた様子を見抜いてか、青いドレスのデボラがやって来た。ミシェルは歯噛みするが、その通りなので何も言い返せない。
「あなたみたいな場末の貧乏娼婦が、よくオーブリー男爵にお手付きされたわね?私、未だに信じられないんですけど」
そう言って、赤いドレスのベレニスが彼女の頭から爪先まで、心底不思議そうにしげしげと眺める。
「あなたが来るんだったら、カップを一客減らした方がよかったかしら?どうせ磁器の価値もお茶の味も分からないんでしょうし」
そう言って、緑のドレスのクローデットが高らかに笑う。
「きっと、心がお綺麗なのよ。ふふっ。あなたは声も顔もガサガサだけど……男爵様はお優しいからぁ」
小馬鹿にしたようにそう言って、ピンクドレスのカサンドルが優雅に微笑む。
ミシェルが地団駄を踏んでいると、
「さあ、みなさん席にお着きになって」
バルバラが、本妻の余裕でにこやかに妾達に声をかけた。
ミシェルの頭の中は真っ白になった。
万事休す。
「皆さま、今日も素敵な手土産をありがとうございます。本日の食器は、クローデット様のお持ちになったとても珍しい東洋のカップを使わせていただきました。彼女はもう、うちの古めかしい銀食器にも飽きたとおっしゃっているので」
ミシェルは愛想笑いも出来ぬまま、席に座らざるを得なくなった。隣に座ったクローデットは、怯えるミシェルを横目に高慢な笑みを浮かべる。
続けてバルバラは言う。
「こちらの紅茶はカサンドル様からのいただきものです。これは彼女のお父様が海外旅行に行った際、買い求めた最高級の茶葉だと聞いておりますわ」
カサンドルはおとぎ話に出て来る可愛らしいお姫様のように、首を傾げて微笑んだ。その余りに純朴そうな演技に、ミシェルは泡を吹きそうになる。
「このお花は、我が家がおんぼろで可哀想だとのことでデボラ様がお持ち下さいました。せめて花で薄汚れた壁を誤魔化せと、有難いアドバイスを頂戴いたしましたわ」
デボラはふんと鼻を鳴らす。ミシェルは「交際相手の家の壁に難癖つけるなんてこいつまじでやべえ」と思う。
「このアイシングクッキーは、ベレニス様の手作りだそうです。何でも、これが食べたくて夫は夜な夜な彼女の元へ通ったそうですわ」
ベレニスはげらげらと笑っている。ミシェルは彼女たちを見比べ、全員面白いほど狂っていると思う。
「で……ミシェル様は何もお持ちくださいませんでした」
周囲の女達が笑い出す。「へぇ~それ、わざわざ言うんだ?」とミシェルはバルバラに突っかかりそうになったが、そこをぐっとこらえてあえて彼女はこう返した。
「私はわざわざ本妻にあてつけなんかしないよ。それに、私には〝歌〟がある。それが手土産の代わりさ。リクエストをくれれば何でも流行の曲を歌うよ」
それを聞いた女たちは静かになったが、畏怖というよりは軽蔑の気配が漂っていた。ミシェルは、これは世間で最も高級な茶会なのだろうが、最も最低な意地の張り合いだと思った。
「では皆様気を取り直して、お茶会を始めましょう」
ホストであるバルバラが、カップひとつひとつに茶を注いで行く。黄金色の紅茶が、それぞれに配られる。ミシェルは砂糖を入れると、その香しい紅茶をこくりと飲んだ。
(あいつらは最低だけど……茶は美味い)
ミシェルは感心した。次に菓子に手を伸ばそうとすると、他の女性達も次々とお菓子を手に取った。危うく腕がぶつかるかと思ったが、皆お茶スレスレに奪うようにしてお菓子を手に取り、慣れた調子で食べ始める。
(あいつら最高級を持ち込んで他人を見下してるけど……意外と意地汚い)
ミシェルは自分がお菓子を持って行けなかった引け目から、彼女たちのように菓子を食べ散らかすことは出来なかった。
しかし、あらかた菓子が尽きた頃のこと──
ガシャン。
大きな音がして、女たちの目が一点に注がれた。
デボラが、テーブルに突っ伏している。
「……あら?デボラ、さん……?」
バルバラが、動かなくなったデボラを揺さぶる。そして、すぐその異変に気づいた。
「大変だわっ。医者を呼んで!今すぐ!」
やにわに周囲が騒がしくなり、召使たちが部屋に飛び込んでくる。ミシェルはクッキーを齧りながら青くなった。
「え……?何?失神……?どういうこと……?」
その頃、ガレット缶を持ったジョゼがやっと男爵邸に到着した。
コンコンとドアノッカーで扉を叩いてみるが、何やら内部が騒がしく、誰も出て来ない。
「どうしたのかしら……誰も出て来ないなんて、おかしいわねぇ」




