17.娼館の悪夢
ジョゼは事件をひとつ解決し、今日もひとつ夢を見る。
マレーネに連れられ、初めてトランレーヌ王国の王都に足を踏み入れた、あの日の夢を──
幼いジョゼは貫頭衣のまま馬車に揺られ、娼館に連れて行かれた。
周囲にお目汚ししないよう、すぐさま中に入れられる。
ジョゼは、娼館のホールを見渡した。
天井の目の覚めるようなクリスタルのシャンデリアから、虹色の光がキラキラと足元へ落ちて来る。ヴィヴィッドなボタニカル柄の壁紙には、亜熱帯のカラフルな鳥が飛び交っていた。隅のカウンターには、世界中の人間が置いて行ったのではと思うほど、大量のウイスキーボトルがキープされている。紅い絨毯には様々な人間の足跡がついている。おしろいと香水とアルコールが混ざり合った香りが漂う。幼いジョゼには息苦しい感じがして、むせてしまいそうだった。
「ジョゼ、こっちこっち」
マレーネが手招きする。そちらに足を向けると、召使たちが青い陶器のバスタブに湯を張っているところだった。王宮でも見たことがない、シノワズリ風の瓢箪柄の、巨大な浴用陶器だ。ジョゼは内心「この女はとんでもない金持ちだ」と感嘆し、先頃まで抱いていた彼女への非難めいた感情は、どこかへ投げ捨ててしまった。
「さ、隅々まで洗うんだよ。その後は身体計測して、ドレスを着せてやるからね。あとは……医者に隈なく見てもらうんだ。特に皮膚疾患・性病がないかをね」
ジョゼは召使に体をごしごしと洗われてから、リネンで体を拭き上げて貰った。「とりあえず、これ」と言われて出されたのは、滑るような絹のネグリジェ。ゴワゴワの髪は念入りな櫛とオイルパックを施され、すぐにおろしたての絹のように滑らかになった。
医師の診察を受ける。ジョゼは健康に自信があったので、抵抗することもなく医師に体を投げ出した。
何も異常がないことが認められ、ジョゼはこの娼館に置かれることが叶った。
磨き上げられたジョゼを見て、煙管をふかしつつマレーネが言う。
「驚いた。美人じゃないか……どこのお姫様かと思ったよ」
そして、わくわくするような視線を向けて、マレーネは新聞を差し出した。
「これはトランレーヌで一番買われている新聞だよ。読めるかい?」
ジョゼは新聞を見て、すぐにこう言った。
「国王陛下は草原のサラーナ族を一掃。商業キャラバンの自由化へ意欲を覗かせる……」
「凄いねぇ。字も読めるとは!」
マレーネはジョゼを褒めたが、ジョゼはこの新聞記事の内容に気を取られてそれどころではなかった。
(トランレーヌの国王が、サラーナを滅ぼした……?商売のために……?)
ジョゼには信じられなかった。この国の王は、金のために異民族を殺すことを厭わないらしい。サラーナの民は遊牧民なので、他国がある程度繁栄していなければ生存出来ないのである。だから、身内は仲が悪くても、旅人や異邦人は大切にもてなしていた。自分たちの身を切っても、他者に分け与えることをよしとしていた。トランレーヌの民に危害を加えたことなど一度もない。それなのに。
(私は……ノールは……父や兄は……こんなことのために……)
「ねえ、これは読める?ジョゼ」
目の前に、他国の新聞が積まれた。ジョゼはそれも請われるまま、声に出して読んだ。何カ国も渡り歩いて暮らしていた彼女の一族にとって、言葉は最重要ツールであった。親愛、安全、商売。その全てが、他国の言葉を学ぶことによってもたらされていた。
「凄い!」
マレーネは、曲芸でも見たかのように拍手した。
「ちょっと、娼婦にしておくには勿体ない逸材だよ!どうするかねぇ……別の仕事をさせて、もっと稼いで貰おうか。黙ってるだけの女ならベッドに転がしておくしかないけど、あんたはそんな風に埋もれさせておくのは勿体ないものね」
ジョゼは隅々まで新聞を読みながら、彼女の声を耳から遠ざける。
(トランレーヌ国王……許すまじ)
それから、ふと目の前のマレーネを見る。これだけの娼館を経営している女なのだから、才覚ある女なのだろう。トランレーヌでどのように生きればこのような成功を収められるのか、ジョゼは素直に知りたいと思った。
いつか大きな存在となって、トランレーヌ国王に復讐するために──
「……のう、マレーネ」
「何だい?それにしてもあんた、老人みたいな喋り方するね」
「そなたはどうやって、ここまでの成功を収めたのだ」
すると彼女はあっけらかんと答えた。
「人間だよ。人間関係を極めたんだ」
「人間関係……?」
「ああ。娼婦が陥りがちなんだけど、ベッドにしろフロアにしろ、小手先のテクニックを磨いてものしあがれないよ。これは娼婦たちにも口酸っぱく言ってるんだけどね、人を好きになれなければ、成功はない。そして好かれなければ、足元をすくわれるんだ。私はどちらもやって来た。好くこと、好かれること」
「好くこと……好かれること……」
ジョゼはその言葉を反芻してから、じっと考え込んだ。
(この女は、私たち遊牧民と考え方が同じだ)
その時──異国の小さな少女は、この国で生きて行けるという確信を持った。
「マレーネ。私は、字も書けるぞ。トランレーヌ語、ゲルトナー語、ソラナス語の三か国語だ」
「本当!?」
「遊牧民はこれらの言葉を覚えなければ商売が出来ないのだ」
「なるほどね……じゃあさ、手紙の代筆をお願いしたいんだけど」
「代筆?」
「ああ。うちも大きくなって、娼婦たちが貴族や商人から手紙を貰って来るようになったんだよ。でも、みんな読めやしないんだ。私も沢山業務を抱えているし、貴族の難しい言い回しには鈍感なんだ。あんた、手紙の内容を噛み砕いて娼婦に伝えてやってくれないか?そんで、返事も書けたら書いてやって欲しいんだけど」
ジョゼに、新しい仕事が出来た。まずはマレーネに好かれるために、頼まれたことは片っ端からやっておいた方がいいだろう。
(そして……いずれはトランレーヌ国王の懐に入り込んでやる)




